(その1からつづく)
言葉は文化です。
その国の言葉を、たった一語でも覚えようとすることが、その国の文化に興味をもち、そこでその言葉で生活している人に敬意を表すことになると私は思っています。
だから、海外に行ってたとえそれが名前であっても、日本語で落書きをするのは、日本の国と日本人に対する冒とくだと私は思っていました。
(他の日本人に対して「自分は外国語に堪能だ」ということを見せつけたくて、殊更にそれをアピールするのはどうかとおもいましたけれども)
しかし現代は日本国内にいても、以前とは比べ物にならないくらい、非日本語(とくに英語)を使う機会は増えています。
地方に行けばそんなこともないのかと思いきや、地方部の方が日本語が通じない場所もあるとか。
いま日本で暮らし、仕事している外国人の方々の中には、何年住んでも日本語を喋ろうとしない人が居ると聞きます。
そういう人たちは、日本語ができないから、自然に自国人たちで集まるといいます。
その話をきいて昔、留学する人たちが「現地で日本人コミュニティに入ったり、日本人同士で集まったりしてはいけない、できるだけ独りで現地の人たちの中に入りなさい」と言われていたのを思い出しました。
そうしないと、外国語が上達しないという意味もあったのかもしれませんが、その国に学びに来ているのに、その国の言葉を知ろうとしないなんて、いったい何を学びに来ているのか、教えようとする人たちだって、力が抜けてしまうと思うのです。
だから、たとえば外国の小説や詩なども、日本語に訳されている文章を読んでどうしても気になるような場合は、たとえ一部の数行でも、ワンセンテンスでも、否一語であっても著者の母語に触れた方がよいと思います。
たとえば、私が辛い時に人生を支えてくれた、ヘルマン・ヘッセの詩、「困難な時期にある友だちたちに」(An die Freunde in schwerer Zeit)のなかで、『運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、
好ましい糧として役立てよう。』(高橋健二訳)というフレーズがあるのですが、ドイツ語の原文は“Schicksal soll, ob süß ob bitter, Mir als liebe Speise dienen.”です。
ドイツ語が全然分からなくても、bitterが苦いならsüßは甘い、liebeは愛、慈愛から好ましいと想像がつきます。
今はネット上で音声も読み上げてくれますから、フレーズを聴くことも可能です。
わたしが英語の本を翻訳したのも、日本人の自分には考えつかないような論考が書いてあるのではないかと、内容を知りたかったということもありましたが、著者がなぜその問題について悩んでいるのか、自己をどう感じ、そこからどのように行動や考えを改めていったのか、心情的なことまで踏み込みたかったからです。
そのためには、まず母語(英語)を母語として理解して、そこから日本語に置き換えたらどういう表現になるかということを考えてゆきました。
これ、誰に頼まれたのでもなく、自分でそうしたいから翻訳したわけで、これこそが本物の語学だと思いました。
ついこの間、朝の5時にファストフード店で食事をしていると、入り口近くの券売機にてなにやら通じない対話が続いているのに気が付きました。
時勢なのか、その店には東南アジア系の店員2名しかおらず、英語がカタコトしか喋れません。
ついでに言うと、彼らは日本語もそれほど上手ではありません。
わたしも東南アジアの方の言語にはそれほど詳しくないのですが、店員同士で話している会話はベトナム語に聞こえています。
そこにアメリカ人と思しき男性が入ってきて、あれこれ質問しているのですが、とんと要領を得ないようで、仕方なしに彼は日本語なら通じるかと、カタコトの日本語を喋ってなんとか会話を続けようとするのですが、店員たちも彼の発する日本語は英語以上に通じないようで、完全にお手上げ状態です。
暫く静観していたのですが、手詰まりの状態なので、彼らのところへ行って、“Good morning, can I help you?”というと、レジウエノパネルを指して、あれは何の肉ですか?ということなので、正直にchickenと答えると、今度は店内で他のお客さんが食べているメニューを指して、あれは何かと訊くので、店員さんに「彼が食べているメニューはどれですか?」ときいて、注文パネルにそれを表示してもらいました。
やっとその人は納得して、英語と日本語ちゃんぽんで、「あなたに助け舟を出していただいて助かった、ありがとう」と言ってきたので、定石通り、“You’re welcome, have a nice day.”と答えて収めました。
そこで考えたのです。
もし、彼が最初から店員さんとの会話において、一方的に英語だけを使ってまくし立てていたなら、私は決して間に入らなかったと思います。
彼が日本語を使っても自分の質問を伝えたいようだったから、あまりうまくもない英語を使って中に入りました。
こんな時に使う言葉は、それがどこの国の言葉であれ、自然に真摯な気持ちが入ります。
それに、仕事で使わねばならない英語とか、他人に見せるために話す英語とも全く違います。
それは、彼の中にかつてひとり旅をして、現地語を使ってでも聞きたいこと、言いたいことを伝えようとしていた自分と、ちゃんと通じないと知っていながら、一生懸命現地語で助け舟を出してくれた地元の人たちに助けられたことを思いだしたからです。
そういう人たちは、世界のどこへ行ってもおりました。
人は困っている時、困難な時に他人から優しさや親切を受けると、今度は困って入る人を見過ごすことができなくなるのではないでしょうか。
逆にそういう経験のない人は、困った人がいても共感できなければ助けようなどとは思わないし、だとしたら自分が助けられたとしても、それに気が付かないこともあるのではないでしょうか。
げんにこの時、店員さんは2人とも、日本語でも母国語でも、英語でも「ありがとう」はありませんでした。
御礼を言われたくてやっているわけではないのですが、私は困っている旅人をみるとどうも放ってはおけない性格のようです。
だから「旅は道連れ、世は情け」とか、「困った時はお互いさま」ということばがあるのでしょう。
聖書にもあるではありませんか。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には善い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に善い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と。
(マタイによる福音書7章11節~12節)
これに対して、自分がそれをされたら嫌なことを、わざと他人にする人がおります。
いや、相手が嫌がることを最初から分かっていてそれをするのです。
嫌がらせを受けた相手が傷付くと、「ざまあみろ」とばかりに溜飲を下げられるかといえばさにあらず。
そういう人は、それが当たり前の生活になってしまい、結局は自分で自分を傷つけていることに気付かず、いつか自分が他人から嫌がらせを受けるのではないかとビクビクしながら生きることになります。
そうした不快な感情を自分で抱える決断をして、他人に陰湿なことを仕掛け続けているわけですから、自業自得なのですがね。
ハラスメントした相手が幸せになろうものなら、腹の虫がおさまりません。
どうにかして対象を不幸に引きずり降ろそうと必死になります。
でも、そんなことをしていれば、自分がどんどん幸せから遠ざかってゆくはずです。
否、何を以て幸せというのかもわからなくなるのではないでしょうか。
そんな風に、非情な人として生きるくらいなら、私は困難であっても、また自分が弱い立場のままでいたとしても、人に助けられ、また困った人を助ける生き方を選びたいと、この歳になってもなお思います。
最近、数字と格闘する仕事になってから、とんと人とコミュニケーションをはかることも、英語でやり取りすることもずっと減ってしまいました。
英語を使うのはそれほど得意ではないけれど、こうしてその場が与えられることに感謝したいと思います。