旧甲州街道にブロンプトンをつれて 32.阿弥陀海道宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(大鹿川橋)

旧甲州街道の旅は、中央本線の駅でいえば初狩駅と笹子駅の間、日本橋から数えて31番目の白野宿の外れ、旧甲州街道と国道20号線が合流したところからはじまります。
それにしても、旧甲州街道というのは、旧東海道と違い、宿場間の間隔が極端に短く、またお隣、あるいはそのまたお隣同士で間の宿、すなわち、月のうちの期間を区切って荷役などの役割を分担する形式の宿場が多く、こうしてブログを書いていてもひとつの宿場で1回という記述が多くなってしまいます。
しかし、旅をしている身からすると、宿場間の長い旧街道よりも、一つひとつの宿場をじっくりと見ることができるので、先を急ぐ旅にならずに済んでいます。
また人工物よりも山の自然におのずと目が向きます。

(乙大鹿沢ガード)
おそらく旧甲州街道の郡内地方は山あいゆえに農業といっても耕作地も少なく、また林業や狩猟も時間がかかるうえに不安定であり、ひとたび災害が起こると被害も甚大で回復も容易ではないゆえ、こうした旧街道にかかわる賦役はこの地に住む民衆にとってかなり負担で、だからこそ、近隣の宿場同士が分担しないと背負いきれないものだったのではないかと想像します。
自分は関東平野に住む人間ですから、現代でもこうして旅をしていると、日照時間が短く、また谷の往き来はともかく、山越えは容易ではない山あいの暮らしの厳しさは想像でしかありません。
そういう意味でも、こうした観光地でもない山間部の旧街道筋に宿泊してみると、そこでの暮らしが垣間見え、またこの地に生まれた若者たちが、なぜ広々とした平野へ移ることを希望するのか、多少なりとも理解しやすくなるかもしれません。

(立石坂)
さて、旧街道が国道と合流したら、道路右側をゆき、大鹿川を大鹿川橋で渡って100mさきを右折します。
建設会社の脇をすすんで70mさきの乙大鹿沢ガードで中央本線の下をくぐったら、すぐ左折して線路に沿って坂をのぼります。
坂の下左手には「伝説 立石坂の立石」とあり、この坂が立石坂と呼ばれていることがわかります。
伝説ですが、山姥が石の杖をつきながら歩いていたら折れてしまったので、一方を大月の岩殿山の麓に、もう一方をここに突き刺したとか、岩殿山に赤鬼が棲み、常に両手に石杖をもっていたのが、あるとき何かに怒ってその石杖を高く投げたところ、左手の石杖は師岡町石動に、右手の石杖が笹子町白野(ここ)に刺さったというものです。
肝心な立石ですが、立石坂からだと線路の向こう側、すなわち国道を右折せず100ほど笹子駅方面に向かって走った右側の一段高い場所、右手を上げて左手を下げて、ともに手のひらを前に向け、それぞれの手の親指と人差し指で輪を作る来迎印をむすんだ阿弥陀如来の立石像の左側にありますが、夏季はのぼり口が藪で塞がっている場合があります。

(萬霊塔)
立石坂をのぼりきってガード下から320mすすんだ右手に、生きとし生けるものすべてを供養する萬霊塔があり、そのさき左側をみると、笹子川の対岸の山麓に、煙突のある工場が見えます。
これは某ゼネコンが運営するバイオマス発電所で、燃料に山梨県内を中心に関東圏から出る未利用の間伐材や剪定枝(せんていし)などを細かくした木質チップを年間約15万トン燃焼することで、一般家庭3万世帯が一年間に消費する電力に値する14,500キロワットを発電しているそうです。
しかし、ここはもともとリニア中央新幹線が建設される際に出た残土を処分した土地の上につくられ、本来はお隣につくられる予定だった木材チップの生産工場が建設中止になったといいます。
理由は、ここまで間伐材を運ぶ業者が少なく、採算がとれないからだそうで、燃料の間伐材も、建築需要の落ち込みによって、高品質な国産木材の需要と低質な燃料用の間伐材の需要のバランスが悪く、周辺地域における林業をいびつな形にしかねないという指摘があります。
また工場から出る廃熱によるものかどうかは定かではありませんが、後背の山の斜面に明らかに立ち枯れしている樹木が見て取れることが、見ていて非常に気になります。
萬霊塔は樹木をはじめとする植物の生命も供養していることから、なんだか人間の自然に対する傲慢さとそれに対する返報を感じてしまいます。


萬霊塔から170mほどすすむと、右側に火の見櫓と笹子町原公民館があり、さらに200m進むと左側に親鸞聖人念仏供養塚があります。
これは、次のような伝説に基づく供養塚です。
むかし笹子川のほとりに「およし」という美しく献身的で働き者の女性が住んでおりました。
彼女はどこにも欠点が無いように見えましたが、愛情が深すぎて、夫が第三者の話をしただけで嫉妬し、やがて夫の方が彼女を重荷と感じるようになり、心が離れて行ってしまいました。
すると夫婦は別々に仕事をするようになり、およしの夫はやがて心が通う幼馴染みの女性と深い仲になり、それを知ったおよしは、今度は夫に対し昼夜を問わず、彼の浮気を激しく責め立てるようになりました。
 

 

そうなると、益々夫の心はおよしから離れるばかりで、幼馴染みの女性を自分の留守中に家にあげるようになりました。
およしは嫉妬のあまりそばの池に身を投げて自死を遂げたものの、魂は成仏できずに毒蛇となって村の人たちを悩ますようになってしまいした。
いつしか彼女が自殺し、毒蛇が住処とする池を「およしが池」と呼ばれるようになりました。
そんな折に親鸞聖人が布教のためにこの地を通りかかりこの話を聞き、「南無阿弥陀仏」との経文を書いた石を大量に池に投げ入れて念仏を唱えると、毒蛇に化身したおよしは元の姿に戻り成仏し、その後村人たちは毒蛇に悩まされることもなくなったそうです。
その後池が涸れて聖人の投じた石が旅人に持ち去られて無くなると、笹子川の氾濫や山崩れが頻発したために、村の人たちはここに塚をたてて地域の平穏を願ったということです。

(親鸞聖人念仏供養塔)

(稲村神社)
なんだ、何かと思えば不倫、つまりは恋愛依存症の話ではありませんか。
男女を問わず、昔から嫉妬に狂った人の魂は周囲の人たちを悩ませてきたのでしょう。
仏教は無尽蔵の欲望や執着を「貪(とん)」、怒りや憎しみ、敵対心を「瞋(しん)」、無知や誤解、妄想を「痴(ち)」とし、あわせて三毒と呼び、これが「苦」の原因になっていると説きます。自分のなかのそうした毒を客観的にとらえて自己に向き合い、瞑想などの修行を通して四諦や八正道を学ぶことによってそれらを理解し、自己の問題に対する慈悲の心を養うことによって、共感や無私の愛を育み、三毒を浄化してゆくという抜苦与楽という教えです。
親鸞聖人が開祖の浄土真宗は特にそうした嫉妬(毒)を手放し、弥陀に委ねなさいという教えですから、キリスト教の「原罪に満ちたわたしをあわれみ、贖い、やしない給え」という教えと親和性が高いのです。

(塀から出た松の幹が目印)

(葦池跡)

自分がこんなになったのは、あいつが浮気したからだとか、苛めたからだという嫉妬や怒りに長きにわたってとらわれているひとには、相手の問題は相手に返し、自分の問題に向き合う、つまり自分の側の心のお掃除をすれば、その自己の内にある敵愾心の中身に気付くことができるのですが、悲しいかな、そういう人は問題を自己の外に求め、「もっと厳しく監視し、管理しろ」とか「厳罰化して一生かかっても償いきれない重荷を負わせろ、それが他者への見せしめになる」などといい続けるばかりです。
そういう自分のなかの三毒にいつまでもとらわれている人、宗教などに救いを求める人間は弱い奴だと小馬鹿にする人たちには、黙って祈るよりほかありません。
現代もそこかしこに毒蛇が跋扈する現状に、聖人が生きていたらやはりひたすら経石を投じて念仏を唱えるのだろうかと思います。
自分もブロンプトンで坂をのぼりつつ唱えてみますか、「南無阿弥陀仏、南無アッバ」と(笑)。

供養塚のすぐ先右側はこの地区の産土神(うぶすながみ)を祀る稲村神社で、境内には街道側手前の三本の杉や馬頭観音、二十三夜塔、男女合体道祖神(!)などがあります。
旧甲州街道はそのまま直進するのですが、現在は中央本線の線路で行き止まりになっているので、稲村神社から170mすすんだ塀の一部をくり抜いて松の幹が出ている家の先のT字路を左折します。
左折してすぐの左側一段高いところにあるのが、前述の話の舞台となった葦ヶ池跡の石碑です。
なおT字を直進すると小久保家という地頭をつとめた旧家があり、この家が伝説の主人公「およし」の実家であり、およしの父親は親鸞聖人に済度されて、先の上花咲宿の近くに登場した善福寺の二世住職になったといいます。

T字路を左折して60mさきで中央本線の吉久保ガードをくぐり、120mさきで国道20号線に突き当たるので、右折します。
笹子川を左に見ながら国道を西へ、ゆるやかな坂道をのぼってゆくと、270m先で右から中央本線に分断されていた旧道が合流してきます。
さらに400m進むと国道は笹子川橋で笹子川を渡りますが、旧甲州街道はこの橋を渡らずに直進して120mほど進み、旧笹子川橋をわたります。
橋の手前の右側、笹子川の左岸にあるのが明治6年(1873年)創立で、平成22年(2010年)に閉校となった旧笹子小学校です。
校舎の奥の一段高いところにあるのが、旧笹子中学校です。
むかし中央本線の夜行急行にのって車窓をみていて、「こんな山奥に学校がある」と驚いた記憶があります。

(旧笹子川橋)
旧笹子川橋はもと国道の橋ですから頑丈な石橋ですが、いまは車両通行止めになっているので、一応ブロンプトンを降りて押し歩きで渡ります。
橋から上流方を眺めると、これから越える笹子峠方面の山が立ちはだかります。
ここまで来ると手前の山に邪魔されて笹子雁ヶ腹摺山も峠も見えませんが、やはり迫力があります。
中央本線も中央自動車道も、そして国道20号線も、長いトンネルで越えている笹子峠(標高1,096m)ですから、これまで越えて来た小仏峠(同548m)や犬目峠(同540m)とは、高さからして倍の開きがある大きな峠です。
最初に来たときは、旧東海道箱根峠の石畳道の苦労を思い出し、ここから見上げて「本当に(ブロンプトンをつれたまま)越えられるのだろうか」と半信半疑でした。
橋を渡った正面に横断歩道(信号機なし)があるので、これを渡って右折し国道20号線をのぼります。
ここからが阿弥陀海道宿になります。

(笹一酒造)
もともとは𠮷が久保といった阿弥陀海道の地名は、奈良時代の僧行基が、笹子峠に跋扈する悪霊を鎮めようとこの地にお堂をたてて、みずから彫った阿弥陀如来像を安置し、この地を阿弥陀海と命名したところからきています。
その阿弥陀堂に通じる道を阿弥陀海道と呼びましたが、いまはお堂がどこにあったかもわからなくなってしまいました。
資料によれば、宿駅の南にあったとされていますので、笹子川を渡ってすぐの笹子川右岸山際にあったのではないでしょうか。
ガイドブックなどには、笹子川に船橋沢が合流する、宝越え経由の鶴ヶ鳥屋山への登山道脇にある祠がそれだとしていますが、定かではありません。
阿弥陀海道宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠4という小さな宿場で、本陣、脇本陣跡もまた不明です。
前回ご紹介した通り、東隣の白野宿、西隣の黒野田宿と3宿併せて合宿制を敷いていて、毎月16日~22日の間、問屋業務を務めていました。

(みどり屋)
橋から右折して国道をゆくと、左側に大きな酒造会社を認めます。
これが大正8年(1919年)創業の笹一酒造で、中央本線の車窓からもよく見えます。
敷地内にある御前水(明治天皇に献上したところからこの名前がついています)で仕込みに使っています。
今は酒遊館という直営のショップがあり、イベントなども行われているので広い駐車場を設けています。
カフェも併設されていますが、酒粕を使った甘味中心のため、笹子峠を越える前に腹ごしらえとはゆきません。
旧笹子川橋から160m先左側が笹子郵便局、300m先右側には笹子餅を販売しているみどり屋さんがあります。
もともとは峠の力餅として笹子峠東坂の矢立の杉の麓で売られていたもので、明治38年から中央本線の車内販売で売り出されるとき、この名前がつきました。
今は駅をはじめ車内販売もなくなってしまいましたが、前述の酒遊館ほか中央自動車道の釈迦堂、初狩、谷村各PA、談合坂SAでも販売していますが、旧甲州街道をゆく者としては、やはりここ製造元のみどり屋さんで購入するのが筋でしょう。
私はこれを買って笹子峠の上で食べましたが、草餅のような緑色の餅の中に粒あんが入る、まさに峠の力餅です。
みどり屋さんの40m先が笹子駅入口信号です。
次回はここから33番目の宿場、黒野田宿に入ってまいります。

(笹子駅入口信号)