旧甲州街道にブロンプトンをつれて 31.白野宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

旧甲州街道の旅は、中央本線初狩駅の西北1.6㎞、中初狩宿の西の外れにあたる、国道20号線が笹子川を渡る船石橋からです。
天気の良い時に橋から上流方向をみると、笹子雁ヶ腹摺山(標高1357.7m)がちらっと見えています。
こちら郡内側からみると、縁しかみえていないので分かりにくいのですが、この山は頂上が平らで屋根の形をしているようにみえるため、向こう側の大和村では笹子御殿と呼んでいるそうです。
これから越える笹子峠からは登り1時間20分、下りは1時間ほどで往復できます。
山頂からは南アルプス、富士山の眺めが見事ということですし、春から秋にかけては甲府盆地側が晴れていても、郡内側の谷は霧が立ち込めていることが多いので、朝早くに笹子峠にきて登ったら、東側から昇る太陽に照らされた雲海が見えるかもしれません。
笹子峠にはトンネルを挟んで両側に駐車場があるし、何度か笹子峠を越えてみてそんなにハイカーに人気のある山でもないので、静かで手軽な山行が楽しめると思います。
但し、昨今問題になっている熊には注意してください。

(グーグルアースより)

(グーグル・ストリートビューから)
船石橋を渡ってすぐ左側、笹子川の河辺に立つのが舩石のいわれを書いた石碑です。
ここで親鸞聖人が船の形をした石にのって説法をしたという御船石がありました。
その石は前に説明した山本周五郎の生家を襲った1907年(明治40年)の水害で流されてしまいましたが、その記念にとこの石碑があるそうです。
親鸞聖人が船の形をした石の上で説法ということは、おそらくは「大悲の願船」の話からきてるのでしょう。
聖人は、人は生まれたときに大海原に放り出されたようなもので、必死に泳がなければ溺れてしまうとして、この世を「苦海(くがい)」と呼びました。
その苦海でもがいていると、板切れがながれてきてそれを思わずつかむのですが、すぐに速い流れにそれをもっていかれてしまいます。
さらに溺れまいとして泳いでいると、今度はもっと大きな丸太が流れてくるので、これでひと安心と乗っていると、油断した隙に大波を被ってまたもや海に投げ出されます。


或いは、目の前の山(試練)を越えたと思ったら、その先にはさらに高い山が立ちはだかっていた、それでも、前に進むには山を越えてゆかねばならない。
なぜなからそこに留まっていたら、足元に奈落の底(死)への崖があって、少しずつ路肩が崩れ続けているため、いずれは落ちてしまうから。
こんな風に、ひとはその人生の過程において、財産や地位、家族や健康などを生き甲斐にしても、それに執着した途端に対象を失い、或いは奪われてを繰り返してしまい、つまり、何をよすがにと生きがいを求めては失うを続けるだけで、「なぜ生きるのか」という考えには永遠にたどり着けません。
そういう人たちに対して、弥陀の本願で大悲の願船に乗ることこそが、人生の目的であり、彼岸に渡る唯一の方法あると説くのです。
「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」

これ、よくわかります。
「人生とは生きることを喜ぶ訓練の場である」という偈を書いたのは尾関宗圓さんでしたが、この年齢になると、人生は自分から喜んでこれまで集めてきたもの(能力や財産、そして執着を)手放す訓練の場であるように思えます。
かつて自分は幼稚な全能感に支配されて、人生が思うようにゆかないと思い込む憐れな人間でした。
若い時はそれでも何とかなりますが、人生も後半にさしかかって、仕事やお金、人間関係、自己の能力などに執着していると、いつまでたっても自己を手放せない、いよいよ最後になって身体や頭が自分の言うことをきかなくなったら、そのことに不満をもちつつ、周囲に毒を吐き続けるとんでもない人間になっていたと思います。
今はこうして車に乗らずにブロンプトンで旅するのも、いずれ運転免許証を返納しなければならなくなった時のための訓練だと思えば、えっちらおっちらと坂をのぼるのも楽しくなってくるというものです。

(天神峠への入口)
それを今せずに、その時まで車ばかり乗り続け、「その時になって考えればいいさ」と自転車に乗ることや歩くことを避けていたらどうなるでしょう。
おそらくは、車を降りた途端か、ほどなく自転車に乗ることも、歩くこともできなくなると思います。
この頃、高齢者になるまでに運動していた人と、そうでない人の差をみて、あるいは身体が動かなくなってから慌てて運動しようとして思うようにいかないお年寄りたちをみていてそう思います。
成長することや大人になるために学ぶ学校はたくさんありますが、老いること、死に至ることを受け容れるための教育をしてくれる学校などどこにもありません。
(強いて言えば宗教がその役割を担っているかもしれませんが、それも各個人と宗教団体によります)
阿弥陀如来の本願とは、第十八願の「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」に代表される、どんな人をも必ず助けるという願いのことです。
「はやく自分のやり方を放棄して、弥陀にゆだねることです」という聖人の言葉が聴こえてきそうでした。


旧甲州街道はそのまま笹子川の左岸に沿って進みます。
右手のかなり高いところに中央自動車道、川を挟んで向こう岸の山の中腹、やはり国道より高い位置に中央本線が走っていて、国道だけが川とほぼ同じ位置と言うことは、水害が起きやすい場所なのでしょう。
舩石橋から680mほど進むと、旧甲州街道(国道20号線)は、右手から張り出している尾根を迂回するように笹子川に沿って右カーブをします。
上では中央本線が川と国道とを跨いで、その尾根をトンネルで抜けています。
中央自動車道は、その尾根の突起の背の部分を越えています。
この尾根の突起を天神山といい、かつての甲州街道はこの背にあたる部分を天神峠と呼んで乗り越えておりました。
その証拠に、基部には国道から右手へと登る道が残っています。
しかし中央自動車道がつくられたとき旧道は失われてしまいました。
今もこの道を行き止まりまで行き、中央自動車道のフェンスに沿って進めば旧道に近い形で天神山を越えられるかもしれませんが、正式な道ではありませんから緑陰期はお勧めしません。
中央本線も以前は現在よりも南側を橋梁で越えてトンネルで抜けていたようで、現在の新天神山隧道の南隣に、もとの天神山隧道の遺構があるそうです。

天神山を笹子川に沿って時計回りに迂回すると、舩石橋から1㎞の地点で、滝子川という小さな川を橋で渡ります。
橋を渡ったところに右に入る路地がありますが、これが前回ご紹介した滝子山への登山道で、頂上までは3時間半かかるみたいです。
この路地を入って中央本線の下をくぐり、110mほど登った先の左手にあるのが、日本橋より二十六番目の白野一里塚跡です。
かつてはここに旧街道を挟んで榎と松がありました。
現在は中央道のフェンスわきに桜が植えられ、木柱と石灯籠に供養塔、新しめの双体道祖神があります。
失われた道を省く場合、滝子川を渡って50mさきを国道から斜め右に入ります。
ここから白野宿に入ります。
新道が笹子川沿いを、旧道は右手山よりの集落の中をゆくという、あとから宿場を通らないバイパスがつくられたという典型例です。


江戸から数えて31番目の白野宿は、本陣1軒,脇本陣1軒、旅籠41軒を数える宿場でした。
この次の阿弥陀海道宿と、その次の黒野田宿との合宿で、東は下初狩宿、西は笹子峠の向こうの駒飼宿までの荷駄の継ぎ送りをしていました。
分岐から150mさきの右側、防火水槽前に庚申塔があります。
さらに150mさきの右側、一段高くなったところに火の見櫓がたっていて、その奥に山の神、金毘羅、白山権現、天織姫などを祀った小さな祠が並んでいます。
天織姫というのは織姫のことで、天楼という宝物をもって、天上にあって雲綿を織る仕事をしている女神です。
楼とは、織物を織る時に経糸と緯糸を通すために使われる道具で、杼(ひ)や梭(おさ)と呼ばれ、英語ではシャットル“shuttle”です。
天織姫をまつる神社として有名な社に、栃木県足利市にある足利織姫神社があります。

そこから140m先の右側、路地の奥にあるのが臨済宗妙心寺派の宝林寺です。
1509年の開山で、本尊は地蔵菩薩です。
江戸後期に書かれた「甲駿道中之記」の作者、吉田兼信は、初鹿野の景徳院へ近道するために、ここ宝林寺から甲州街道を逸れて、右手の山に入り、大鹿川の谷間から標高1280mの大鹿峠を冬季に越えて大和町田野に至ったといいます。
その路地入口手前左側が、天野脇本陣跡、2軒先右側が今泉本陣跡で、いずれも標識などはありません。
本陣前から110mほど進むと、旧甲州街道は再び国道20号線に合流します。
次回はこの白野宿の外れから、次の阿弥陀海道宿をご案内したいと思います。