旧甲州街道にブロンプトンをつれて 24.猿橋宿から25.駒橋宿へ | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

旧甲州街道の旅は国道20号線新猿橋東詰め手前100mを右に入り、190m先左側、猿橋入口からです。
石段を23段(スロープ無し。自転車を担いでください)下ると、日本三奇矯(ほかには岩国の錦帯橋、木曽の棧=かけはし)のひとつ、猿橋を渡ります。

手前には芭蕉の句が紹介されています。

「憂き我を 淋しからせよ 閑古鳥」

意味は、「カッコウよ、気の塞いでいる私を寂しがらせておくれ、しばらくはそのさびしさを心の主として過ごすから」ということです。

これは寂しい自己をさたに寂しがらせてというよりは、自分に向き合うきっかけを与えてくれという意味なのではないでしょうか。

旅の途中、名勝と言われる場所の中に独り身を置いてみると、その景色の中に溶け込むことで、自分という存在の脆さと確かさを同時に感じる。

これ、他人から自分がどうみられるかばかりを気にして、自分で自分に向き合ったことのない人間には、何のことだかさっぱり分からないと思います。


この地点における相模川は、川幅狭く、両岸が断崖のようにそそりたっており、このような場所では橋脚を用いない橋を架ければ、大水の影響を受けずに済むので、通常は吊橋を架橋します。
しかし、この猿橋は岸の岩盤に穴をあけてはねぎ(「刎ね木」、「桔木」とも)と呼ばれる木材を斜めに差し込んで中空に突き出させ、その上に同様に刎ね木を重ねて突き出して下の刎ね木に支えさせ、という形を繰り返して、次第次第に中空に突き出す部分を前へ前へと突出させることで、これを両岸から組み上げて橋とする、刎橋(はねばし)という構造をとっています。
かつては富山県の黒部市に愛本刎橋という同様の橋がありましたが、1969年に豪雨で流出し、アーチ橋に架け替えられているので、日本で現存しているのはここだけです。
吊橋が上から橋を吊るのに対し、刎橋はちょうど大道芸の南京玉すだれを伸ばしたような形で橋を下から支えるという構造になっています。


奈良時代よりも前の古墳時代(610年)、百済に寄留していてそののち日本にやってきて帰化したイラン(ペルシャ)系の農耕民族である胡(ソグド)人の造園師、路子工(みちこのたくみ=志羅呼と呼ばれたとも)が、この地で互いの身体をつないで支え合って橋をつくり、猿が集団で渡河しているのを目撃してこの構造を思いつき、橋をつくったという伝説があります。
現代の猿橋は、両岸をコンクリートで固めたうえで、刎ね木を鋼材に代えて、1851年に架けられた橋をモデルに1984年に復元したものです。
橋自体は1932年に名勝に指定されたものの、木造の猿橋が維持管理に手がかかるため、地元では所有を拒否し、長く修理が受けられない状態が続いたといいます。
また、1968年までは、このすぐ下流、現在の国道20号線新猿橋との間に、中央本線が単線の鉄橋で川を渡っていたため、この橋は列車車窓から眺められたそうです。
現在猿橋の下部構造を真横から見ようと思ったら、下流にかかる国道の新猿橋からでは少し遠いので、30m上流に架けられている県道の新猿橋から眺めると良いでしょう。


その猿橋を渡ります。
水面まで31mありますので、かなりの高さです。
また秋の紅葉シーズンには、色づいた葉を上から眺めることができます。
振り返ってみますと、旧東海道には名所はたくさんありましたけれど、名勝とされている文化財の橋を渡るという経験はありませんでした。
書いてはありませんが、車両通行止めの区間なので、鋼材に支えられているから大丈夫とばかり、自転車に乗って通過しないようお願いします。
渡り切ると観光地らしく広場に出てお蕎麦屋さんがあって、脇には小さな山王宮と呼ばれている祠や三猿塔があります。
お蕎麦屋さんの看板に大きく「忠治そば」とありますが、これは国定忠治がこの橋の上で大立ち回りを演じた伝説があるからです。
しかし実際は鳥沢宿の粂という名の博徒が猿橋の上で、南からは甲州役人、北からは関八州役人の挟み撃ちにあい、やむなく下の川へ飛び降りて逃げたということらしいです。
でも、30mの高さから飛び込んで逃げられるものでしょうか。
10mの高飛び込みを経験した人間としては、30mとなると選手でも無事でいられないように思うのですが。

(富士急バス大月営業所)
また、この猿橋には幕末の頃のエピソードも残っています。
鳥羽伏見の戦いで敗走した新選組は、江戸に戻ったものの、江戸無血開城を前にして、勝海舟らに疎まれて、見事武勲をあげたら甲州一国を賜るとの誘惑に乗り、残党と江戸の下層民を集めて甲陽鎮撫隊を組織し、江戸から笹子峠を越えて進む途中、このさき強瀬村(現大月市賑岡町強瀬)の曹洞宗全福寺の斎藤秀全和尚が、近藤と同郷出身だったことから還俗し、一行に寺を宿所として提供したのち、加わって道案内をしました。
しかし甲陽鎮撫隊は甲府手前の勝沼で板垣退助率いる官軍に敗れて退却し、この地まで来たとき、この還俗の元和尚は猿橋を焼き落として追撃の官軍を足止めしようと提案しました。
おそらく、近藤らを逃がしたい一心だったと思います。
しかし、同じく日野宿の名主として同隊に身を投じていた佐藤彦五郎(土方歳三の姉で従妹にあたる女性と結婚していたので、土方とは兄弟同然でした)が「土地の人たちが困る」として猛反対し、橋の焼き落としは立ち消えになったそうです。

(馬頭観音)

(猿橋駅入口)

また、全福寺のホームページによれば、甲陽鎮撫隊に身を投じようとした大月出身の100名ほどが、事態が大きくなることを憂慮して幕府から慰撫を命じられた大月の井上八郎の説得を受け入れず、やむなく追討にうつった井上は富士吉田市明見付近で大月出身の首謀者10名ほどを上意討ちにて討ち取り、同じく幕府側につく者の情からこれらの者の耳を持ち帰り、同寺に耳塚として手厚く葬ったということです。

島崎藤村の「夜明け前」にも出てきますが、当時は尊王攘夷を叫ぶ神国思想の維新派に対し、仏教は佐幕の守旧派とされて、それが明治の廃仏毀釈につながったといいますから、お寺のお坊さんが甲陽鎮撫隊に肩入れしたのは、同郷出身の誼だけではない何かがあったのでしょう。

調べても分かりませんでしたが、全福寺の和尚が甲陽鎮撫隊に宿を提供したのは、これから甲府城に向かって押し出す際ではなく、勝沼の戦いで敗けて敗走する際だったのではないでしょうか。

そうすると、もう戦っても負けると分かっている戦いに身を投じようとした斎藤秀全をはじめとする大月の人々と、それを押しとどめようとした井上の気持ちには、徳川幕藩体制とともにさいごまでという意識だったように思います。

(殿上一里塚跡)

これは明治維新より280年前の武田氏滅亡の際に、新府城を落ち延びて大月にある岩殿城へ向かおうとした武田勝頼を裏切った、小山田信茂の罪滅ぼしにも思えます。

あのとき、郡内地方を治めていた小山田氏は、旧主武田家に見切りをつけたわけですが、新興勢力の織田氏に降ったところ、不忠を咎められて処刑されてしまいました。

主を失い路頭に迷った家臣を陰で召し抱えたのは、織田氏のもとにあったまだ弱小勢力でしかなかった徳川氏だったといいます。

そういう恩義を感じているので、いくら維新だといっても、簡単に官軍になびかなかったのかもしれません。
広場の斜め左の坂を登り、県道に出て60mほど南下すれば、新猿橋西信号で国道20号線に復帰しますので、右折して西へ向かいます。
ここからしばらく国道20号線をゆきます。
国道に入ってすぐの区間は商店が両側に連なりますが、この辺りが旧甲州街道24番目の宿場、猿橋宿です。
本陣1、脇本陣2、旅籠10件を数え、芝居小屋もあったという宿場ですが、今は本陣跡などどこにあるのかが分かりません。


この付近は大月市中心部が近づいてきて交通量が多く、歩道も狭いので注意して車道左端を進みます。
350mほど進むと、左側に富士急バス大月営業所があります。
すぐ裏手の一段高くなっている場所を中央本線が並行しており、小菅林道に行く際に、猿橋駅到着6時16分の列車車窓から、小菅の湯行き営業所前6時15分発一番バス(猿橋駅前は通らないが、新猿橋を迂回して桂川左岸の県道をのぼるため、ブロンプトンで急げば乗り換え可能)を見かけるのもここです。
バス営業所の310m先左側には、馬頭観音があります。
さらに国道をすすみ、猿橋駅にほど近い宮下橋西詰信号を過ぎます。
猿橋駅は、大月よりひとつ手前の駅で、四方津駅同様、駅南側の山の上にJRがゼネコンとともに「パストラルびゅう桂台」という住宅分譲地を開発しました。
ここは四方津駅のようにエスカレーターではなく、永久磁石とベルトで高低差110mの山の斜面を往き来するシャトル桂台という斜行エレベーターに似たモノレールを2001年から運行していたのですが、トラブルが相次ぎ、5年半で運行を休止して、原因が特定できないまま廃止されました。
いまは15人乗りのエレベーター2基が住民の足となっています。
この「パストラルびゅう桂台」も、先般ご紹介した「コモアしおつ」同様、車道もハイキングコースも他へ通じていない「閉じられた住宅地」なので、用事のない人がのぼってもあまり意味がありません。

(岩殿山)
馬頭観音から630mさきの右手、左カーブ外側にあるのが、殿上(猿橋)一里塚跡です。
阿弥陀寺というお寺の門柱に隠れるように、国道からは奥まった場所に石碑があるので、左側を走っていると確認しにくいと思います。
その100mさき、信号のない横断歩道を渡って、国道から斜め右下へと分岐するのが、旧甲州街道です。
ここからは車一台が通れる幅で河岸段丘上のカーブの続く道をゆきます。
やはり、国道を走るのよりも数段気が楽ですが、下り坂でスピードがつきやすいうえに、生活道路ですし、国道が混雑している時の抜け道なのでブラインドカーブから対向車が来ますので、時間帯によっては慎重に進みます。

このあたりから、進行方向右手には桂川を挟んだ対岸に岩殿山がはっきりと見えるようになります。

山の南側に稚児落としと呼ばれる大きな岸壁があり、中央高速道路や中央本線の車窓からもよく見えるので、はっきりとわかります。

前述した岩殿城はあの山の上にあり、全福寺はその麓にあります。

また、八王子の信松院で出てきた武田信玄の四女松姫が小山田信茂の幼い娘をつれて逃亡したという松姫峠は、あの岩殿山の奥にあります。

(駒橋発電所)
旧道に入ってから700m先、東京電力駒橋水力発電所があります。

山の斜面に大きな鉄管を通した落水式の水力発電所で、旧道はその鉄管を跨ぐ形になります。

次回はこの駒橋水力発電所からはじめたいとおもいます。