知らない人に、よくそこまで言えるなと(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(その1からのつづき)

ギャンブル依存の人たちとも交流があったので、よく知っていますが、あれは「プロセス嗜癖」に分類されているように、賭け事をするというそのプロセスがやめられなくなっているので、勝ち負けや儲け、損失はその当人にとって関係ありません。
入口はビギナーズのラッキーストライクだったかもしれませんが、「症」がつくところまで依存している病的ギャンブラーは、もはや「勝って嬉しい、負けて悔しい」の域などとっくに通り越して、ギャンブルをしている時だけは、借金を含む諸々の不安から解放されているという段階(「勝って良し、負けてまた良しばくち打ち」)も過ぎて、何の感情も無く、ただただマシン(機械)のように条件反射的にベッティング(賭けることを)し続けているので、盟友を騙して裏切っているとか、犯罪に手を染めているとか、そんなことを考える余裕などなくなっています。
お金に執着しているようにみえて、その実お金で首が回らなくなっているわけですから、イーブンまで戻したところでやめるなど、夢のまた夢です。
まえにお寺の住職と、賭け事で勝ち逃げする(儲けて切り上げる)には胴元になるしかないと冗談をかわしたことがあります。
有料のおみくじだって配当をつけたとたんに、ギャンブルになりますから、「もし実現したら丸儲けですねぇ」と、宝くじの券のコピー(笑)が賽銭箱から出てきたときにゲラゲラ笑いながら話しておりました。

今回は英語の勉強にもなりました。
胴元に信用枠を拡大してもらうことを”bump”というそうですが、これは道路上にある凸凹や、僅かな段差を指す言葉でもあります。
”step”になると、もっと大きな段差ですし、縁石は”curb”です。
ちなみに"curb"には「抑制する」という意味があり、出費を抑えるとか、ゴミの排出量を抑えるなどというときに使います。
でも、依存症に罹った人に少しずつでも「抑制しろ」なんて命じたら、それこそ火に油を注ぐようなものです。
かといって「少しくらいなら」と励ます意味で水を向けるのはもっとダメです。

もう10年もギャンブルから離れているのに、宝くじ売り場の「ここから当選者が出ました」という言葉を見かけた途端にスイッチが入って翌日には元に戻っているのがあの人たちです。
とにかく、観察を怠らず、底をついたら相談機関や自助グループにつなげる、友人としてできることはそれくらいです。


日本は世界でも有数のギャンブルが日常にとけこんでいる国と言われます。
(それを言われると、飲酒もセックスもで、飲む、打つ、買うの三拍子そろった「醜い国」になっていると思いますが)
パチンコの台数は国民20人に1台だそうですし、人が住んでいるところには必ずあるといわれるように、地方の小さな町にも、離島にだって(国立公園に指定されていて許可が下りない場合を除き)その手のお店は存在します。
公営競技(といえば聞こえはいいですが、国が運営する賭博システム)も各地にあり、今ではサテライト施設やネットを通して、家にいて、子どもの面倒をみながらでも賭け事に興じることができます。
宝くじ売り場なんて、依存症の人からいわせたら「いちばん割に合わない、素人向けの賭け事」ですが、どこに行ってもあの小さなブースを見かけます。
もちろん、コンビニでも飲料を買うついでにその場で当たりがわかる数字選択式のくじを買うことができますよね。

そこで小さな当たりをひいた経験が、後の人生を大きく変えてしまう可能性があるわけで、私のように他のことに依存している人間からみても、酷いなぁと思います。
政府の推奨する「投資」だって、ギャンブルではないと打ち消しに必死ですが、問題は投資によって人生をよりよく豊かに生きることができるのではないかという、個人の内心の問題です。

集金システムが欲しくてこのうえさらに賭博場を設けようとするような国の言うことですから、おそらくそこは「自己責任で」ということなのでしょうし、だったら話を半分くらい割り引いて聞いておき、あとは自分で学びましょう。
ちなみにイギリスなどの歴史を学べば、年金生活者が投資によって生活するような国がどのような運命を辿ったのかを知ることができますよ。
そうそう、公営競技の所管省庁をご存じですか。
競馬が農林水産省、競艇が国土交通省、競輪とオートレースは経済産業省だそうな。
なんだかなぁと思います。


私は一度だけ間違えて駐車場に入れてしまい、「車を出すには1,000円分のプレイが必要」といわれた時以外、パチンコ屋さんを利用したことはないし、公営競技の盛んな路線に乗って通学、通勤していたけれど、会社でのレクリエーションも含め、一度も競技場に足を踏み入れたことはありません。
旅行会社社員時代に、ラスベガスが「家族連れでも楽しめる街」になったとかで視察をかねてゆきましたが、表裏のギャップの激しさにドン引きしました。
表の顔は例の某夢の国のようでエンターテイメントに溢れていましたが、その裏で疲れた顔をして職場を転々とする賭博場のディーラーや、併設されているバーやラウンジで客待ち、というかターゲットを探すその手の商売をする人(女性とは限らない)を何人も見ました。

あの人たちが自分自身の人生を生きているとは、とても思えませなんだ。
そうそう、商売上の都合でしょうけれど、自分が泊まったホテルは、賭博場を抜けないとフロントにたどり着けないシステムになっていたのですが、私は何度警備員の人たちからパスポートの提示を求められたことか。
たしか3日間で8度だったか、一緒に行っている社員の中で断トツでした。
あるおばちゃん警備員などは、人の顔が覚えられないのか二度も声をかけてきました。
もう30代になっているのに、ティーンエイジャーにしかみえないのか、「ちょっと」と呼び止められ、パスポートの写真と私を見比べて、仏頂面して”You are lucky.”って、「どこがラッキーなんじゃ、アンラッキーそのものやんけ、それとも何か、今賭けたら大当たりするとでも言うんかい、まず人として謝るのが筋ちゅうもんじゃろが」となぜかやくざ言葉を内心で叫んでおりました。
外面ではニコニコして「ありがと」と応えましたが。

賭博場のゲームに心を奪われている人々ばかりでなく、外の遊園地のアトラクションに夢中になって絶叫したり、ゲラゲラと笑っている家族連れをみても、私には本当に心から楽しんでいるようにはみえませんでした。

ライオネル・リッチーさんの歌に。”Say you say me”という有名な曲がありますよね。

米ソ対立に巻き込まれたダンサーたちの物語を描いた”White Nights”(白夜)という映画の主題歌で、私は友だちと深夜の映画館で観た記憶があります。

(この映画、たしか冒頭に旅客航空機事故のシーンがあり、アメリカでの公開があの日航123便墜落事故の直後ということもあって、機内上映作品からは外されていました。)

あの歌の中の一節が心に浮かびました。

 

I had a dream 
I had an awesome dream
People in the park playing games in the dark
And what they played was a masquerade
And from behind of walls of doubt
A voice was crying out

 

ある日夢をみた。

怖ろしい夢だった。

遊技場の中の人々が、暗がりの中でゲームに興じている。

彼らは皆仮面をつけて表情がわからない。

そして、疑心暗鬼という背後の壁の向こうから

嘆くように叫ぶ声が聞こえていた。

(訳:彷徨浪馬)


最後の「声」ですが、私には神さまからの呼び戻そうとする声のように思えてなりませんでした。

12ステップによる自助グループでの回復に限っていえば、この「声」を聴けるようになるためのステップといっても過言ではありません。

今回の騒動の行く末はまだ分かりませんが、いまだに誰が悪い彼が悪いの犯人捜しが収まっていないように思います。
当初は主役の「イノセンス」(無実)を疑っていた人や、騙された側なのに職務怠慢と非難される人までに矛先が向いているのをみると、こういう問題に首を突っ込んだら最後、誰もが怒りという渦に巻き込まれてしまうものだと感じます。
私は、その後ろで、誰からも非難されずにほくそ笑んでいる、本物の悪人たちが存在するようにも思います。
ひとつは、大衆を怒りでもって非難する方向に煽ることで金もうけを企んでいる人たち。
マスコミの中には、「これで当分は飯のタネに困らない」と、スキャンダルを歓迎する人たちがいるそうですが、そんなお金でご飯を炊いて、果たして美味しくいただけるのかと思います。

(依存症に陥っていれば、食事の味などどうでもよくなりますから、関係ないかもしれませんが)
さらには、堕ちた人をさらに食いものにしようとする人たち。
外面では友だちを装い、いかにも治療や回復を願っておいて、実はその人を苛めることで自己の依存傾向を満たしている、こちらの方がよりたちが悪いと思います。
なぜなら、社会正義のようなふりをしている偽善者だから、前述したように彼らは個人や世の中を悪の方へと向けておいて、平気な顔をしているからです。
もうひとり、私も病的ギャンブラーから聞くまで存在を知りませんでしたが、有名人の側に代理人がいるように、ギャンブラーにも代理人がいます。
今回のスキャンダルでいえば、渦中の人を胴元に紹介した人がそれです。
”Junket”(ジャンケット)と呼ばれる彼らは、たとえば路上の客引きを想像してもらえばわかりやすいのですが、掛け金の額に応じて胴元とギャンブラー双方から紹介料や手数料をとって、自分は絶対に世間に顔をさらしません。
絶対に損をしない商売だから、お付き合い程度の賭けはするかもしれませんが、のめり込むことはありません。
もちろん、立派な「表の顔」を持っている人たちもたくさんいるそうです。
こうした依存症の周りにいる偽善者が、もっとも憎むべき悪人だと私は思います。


ただ、自分が腹を立てて我を失ってはもともこもありませんから、そうした憎しみは人びとよりも、その人の行為に限定し、心の中にとどめておいて、「この問題は自分に何を投げかけているのだろう」と内心で考えることのみが、自己を成長に向ける糧になると私は思います。

これが「罪を憎んで人を憎まず」の本旨だと思っているのですが、如何でしょうか。
「好事魔多し」といいますが、成功したり、世間から評価されたりした時こそ、謙虚になることが大切なのだとこの頃はとくに思います。
「失敗は成功のもと」といいますが、成功の裏で失敗への種を播いていることは人間よくあるのではないでしょうか。
『拍手は君を育てもするが、堕落もさせる』とある俳優さんは言ったそうですが、それを言うなら、批評や批判も同じです。
有頂天になるというのは、自分が見えなくなってしまうことでしょう。
頂点に立ったなら、もう自分を見返す必要などないというように。
登山家なら、頂上に立った喜びもさることなら、同時に下山のことを冷静に計算するといいます。
そして実際の下山中には、麓の登山口に近づけば近づくほど、歩みを慎重にするのだそうです。
なぜなら、「もうすぐだ」と安堵することが、慢心につながるとよく知っているから。
学校行事の旅行などで、校長先生が「家に帰るまでが旅」というのも、そういう場合の帰宅時の事故がいかに多いかを示しているわけでしょう。
謙虚といっても「ご謙遜」になってしまうと逆ですから、私はやはり、このような自分をどん底の時もいつも気遣ってくださっていた、絶えず呼びかけてくださっていた、今の境遇に導いてくださった、救いの手を差しのべてくださった、人間を超えた偉大な力に感謝することで、ひたすら心を空しくして謙虚になるのが、具体的で分かり易いように思います。

で、その感謝なのですが、冒頭に書いたように、徹底的に自己の「罪」や「穢れ」について向き合わないと、そこから救い出してくださっているという現実に気付かないものだから、心からの感謝にはつながりません。

私は自己の嗜癖がやんで数カ月経った頃から、あんなに欲しいと希った謙虚さというものは、外から付け加えられたものではなく、自分のなかの奥深く、余計な物の下に隠れていたそれを、神さまが取り出しでくださったから、いまそれに触れられると感じています。
それが、依存症がきっかけで信仰をもった自分にとって、人生におけるいちばんの恩寵だと感じています。