知らない人に、よくそこまで言えるなと思ってしまう自分(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

最近、朝の通勤時に空が白み始めるようになり、以前のように最初から最後まで真っ暗だった冬から、季節が春、そして夏へと確実に動いていることを感じます。

気候変動によって春と秋が無くなりつつあるといわれていますが、どうしてどうして、朝4時から5時の時間帯は、清少納言さんのいう、「春はあけぼの」をしみじみと感じられるときでもあります。

むかし深夜まで起きていて、この時間帯には絶対に起床できなかった自分は、なんと勿体ないことをしていたのかと思います。

と同時に、都内のターミナル駅近くを走ると、ちょうど電車が動き出す時間帯ということもあり、オールで飲み明かした人たちがビルからそぞろに出てくるのをみて、仕事をするにしても遊んでいても、徹夜に価値を見出していた自分はなんと愚かだったのかと振り返っています。

(徹夜する人が皆愚かだとは思いません。念の為)

さて、毎度のことなのですが、世間で「依存症」という言葉が喧しく言われるようになると、「またか」と気が滅入る自分がいます。

人々の、「依存症」という言葉に対する反応が、常に判で押したようにステレオタイプ、かつ自己の病気を否認している依存症者の態様そっくりで、見聞きしているとうんざりしてしまうのです。

不安障害の一種なのでしょうが、不満による憤怒依存症とか、嫉妬依存症というカテゴリーがあってもよいのではないかと思うくらいです。

それほど、怒りや嫉妬などの攻撃的態度のなかにしか生きられない悲しい人たちがそこかしこに存在しているように、このような騒動が起きるたびに感じてしまいます。

気の毒なのは、当人たちがそのことに気が付いていないところです。

「信頼を裏切られたのだから怒って当然」と人々はいいますが、ではその信頼とは何なのでしょう。

テレビや新聞で見聞きした程度のことで、どれだけその人のことが分かるというのでしょう。

いつも一緒にいる人にさえ分からないでいるのに。

だから、人間を知ったかのような言動は、厳に慎むべきだと私は思います。

結局、「(ひとを)ゆるすから(神さまから)ゆるされ」の逆をゆく「(ひとを)一生ゆるさないから(神さまとも)終生和解できない」ということは、この慎みを理解できない人たちのことを指すのだと思います。

これまで何度、称賛されていた人が一夜にして「容疑者」に陥るのをみてきたことでしょう。

何度でもいいますが、依存症という病は、けして他人事にはできないのです。

今の世の中、何にも依存しないで生きている人など皆無だと思います。

冗談じゃない、私は違法なことには手を染めていない、人から後ろ指さされるようなことはしていないと、他人自分を比較して開き直る人がいますが、本当にそうでしょうか。

本人がそう思い込んでいる場合も含め、人から後ろ指さされることはなかったとしても、人間を超えた存在に対して胸を張れる人など誰もいないのではないでしょうか。

私は毎朝唱える「全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します。私は、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。」(回心の祈り)とか、お寺で聴いていた「我れ昔より造る所の諸の悪業は、皆な無始の貪瞋痴による身語意より生ずる所なり。一切我れ今皆な懺悔し奉る」という懺悔文を思い出すたびに、人間は弱い存在だとつくづく思うのです。

そして、その罪や悪業が病と判断されるか否かは、じつに微妙なところでありまして、傍目には「完全にいっちゃっている人」でも本人が否認して、それが誰の迷惑にもなっていないような場合、或いは真逆に「そんなこと、誰でもやっている」と世間では評価されるようなことでも、本人が「これは病気だ」と考えたなら、やはり「病」なのだと思います。

この点、いじめるほうはこれはしつけだ、社会正義だと屁理屈をつけても、いじめられる方が「いやがらせ」と感じたなら、もうハラスメント(いじめ)が成立してしまっているのと、どこか似ています。

前にも書きましたが、依存症者は脳の情動を司る前頭葉がいかれてしまっているため、正常なら考えられない嘘をついたり、バレないところで悪事をはたらいて何喰わぬ顔をしていられます。

表と裏の顔を上手に(と思っているのは本人だけの場合も含め)使い分けています。

そうしてバランスをとって何とか生きているので、自己分裂が当たり前になっています。

だからいよいよ隠しきれなくなって終局が訪れた時、「まさかあの人が…」となるのです。

でも、その人の状態に即して考えれば、「何が正しいことで何が間違ったことかは問題にならない」レベルに至っているので、道徳的にどうのこうの、法律的にどうのこうのといっても何も始まらないし、そこで落とし前をつけようとしても、その時点ではまったく問題の着地(終結)点を見出せないのです。

前に”Mad”と"Crazy"と"Insane"を比較した話を書きましたが、本人も狂気に陥って正気に戻れない”Insane”の状態にあれば、その人をいくら非難したところで何の利益ももたらさないばかりか、問題をさらに深刻化させてしまうという点でいえば、本人のためにも、社会のためにも悪い方向に向かうことを助長するだけです。

だから、したり顔で他人を非難、批判する人を見ていると、吐き気をもよおすのです。

なぜ一度も会ったことも、話したこともない、テレビのニュースで見かけたり、新聞報道で読んだりしただけの人のことを、称賛したり貶したりできるのか、私にはよくわかりません。

そういう毀誉褒貶が世の中を悪くしていて、その片棒を自分が担いでいると自覚できないほど、認知が歪んでいるのでしょうか。

「病気を言い訳にして、自己の罪を軽くしようとしている」という批判も、かなり的をはずしています。

たしかに、問題が表面化した時に本人が「私は何々依存症です」と告白している点では、そういう面が全くないとはいえません。

その人はこれから治療・回復のプログラムに取り組む中で、依存症の本当の正体を知った時に、何度も絶望することになると思いますが、今の段階ではそれを知らずに、ただ漠然とそうじゃないかなと思って言っているだけです。

でも、皆の前で病気だと認められたことが、本人にとっては実はすごいことなのです。

依存症は否認の病といわれるように、本人は病気ではないと信じているケースがほとんどで、自分から助けを求めることなど、ほとんどありません。

だいたいは、周囲の困ったひとたち(主に家族)が相談機関を訪れるところからはじまります。

その反面、本人は病院やカウンセラーのもとへ足を向けようとはしません。

病気と認めたら最後、自分が惨めで自己を支えられなくなるからです。

自助グループなども、悪い意味での「仲間」を探しにやってくる人がたまにおります。

大概は、趣旨が全然違うので自分から去ってゆきます。

だから、半信半疑であっても「自分は依存症です」と皆の前で告白することがはじめの一歩になるのです。

それを病気にかこつけて云々などという話をしたら、それこそ最初の段階で回復の芽を摘むことになってしまいます。

だいたい、自分がその病気に罹ったことがないのに、専門的な知識も学ぼうとせず、その病気のことを知っているかのように評価するのは、傲慢を通り越した無知のように私には見えてしまいます。

たとえば、がんに罹ったことのない人なら、実際にがんに罹った人に同言葉がけをしたらよいものか、慎重になるでしょう。

その人が自分にとって身近で大切な人だったらなおさらで、安直に励ましたり同情したりできないし、ましてや「○○したからがんになったのだ」なんて非難は絶対にできないでしょう。

なのに、依存症に関しては平気で「意志が弱いから」「根性がないから」「もともと悪人だったから」とか、さも自分たち普通の人間とはかけ離れたモンスターのような扱いをします。

昨日まで「素晴らしい人」だった人が、一夜にして極悪人に変わることに、誰も「そのように考えている自分はおかしい」と内省する様子がありません。

そして、自分は騙された被害者だといって対象を非難するのです。

心情としてはわからないでない面もあります。

自分とは違う、悪い人ということにすれば、自分のことを振り返らずに済むし、あれはあの人が特殊な人だから自分にはその可能性はないと、根拠のない安心を買うことができるでしょう。

でも、道に落ちている大金を見かけて、心がよこしまな方に動かない人など、私はいないと思うし、その人が病気になっていたら、本来は届け出るべきところをそうはしないという場合も大いにあり得ると思うのです。

(その2へつづく)