自分は正しい、間違っていないと思いこんだままの人たち | 旅はブロンプトンをつれて

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某地方自治体の長が職業差別ともとれる発言をして辞意を表明したというニュースをききました。

旧街道の旅でもその自治体を徒歩で、もしくは自転車に乗って何度も横切っていて、何度も宿泊していて、その時分からその人は話題には事欠かなかったから、最初聴いたときは「ああそうですか、やっとお辞めになる気におなりあそばしましたか」という意識しかありませんでした。

しかし、ひょっとしたら今回だけは自己の非を認めたのかなと思い、よく読んでみたら、案の定でした。

これは古今東西、権力を持った人におこりがちな、腐敗でしょう。

マスコミは、例のリニア問題にからめて、その人の支離滅裂な主張(といっても、ご本人は理路整然と主張している積もりだから、真っ向から対立したまま)を何年にもわたってとりあげてきましたが、私は学者出身のご当人の人間性が問題だと思っていましたから。

私はその地域にはとくに腐臭を嗅いでいたから、今日はそのことについて書きたいと思います。

私は国家プロジェクトといえる事業の開業が何年遅れたとか、河川の水量変化による環境への影響だとか、そんなことよりも、その人が学者出身であったにもかかわらず、政治家になって権力を握り、その力をもって友人や取り巻きとともに自分たちの都合で周囲を振り回し、15年もの間その地域に多大な影響を与え続けてきたことの方がよほど問題だと思っていました。

経済学者とか歴史学者という人文系の学者は、彼のような反知性主義に陥ると、かくも周囲に迷惑を及ぼす見本のようになるのだと思い、それこそ彼がその自治体のトップでいる間は、その人の主張する「何とか論」のかげで、日本一のあのお山も泣いていると感じていましたから。

私は彼が地域に対してどんな善政を敷き、或いはどんな失政をしたかなどには関係なく、彼の主張がニュースになるたびに、自画自賛のうぬぼれのような傲慢さを感じ、それがその地域ともともと穏やかだったそこに住む人たちに、和合ではなく争いをもたらしたことについて深刻なものを感じていました。

それくらい、その人の地域に与えたダメージは大きいと思っています。

実際に、自分の足で地方を歩いたり自転車で走ってみたりすると、新幹線や高速バスの車窓からでは見えない、様々なものがみえてきます。

山影の耕作放棄地に、まるで黒曜石の板を敷き詰めたようなメガソーラー(大規模太陽光発電)。

(危ないと思っていたら、案の定大規模な災害が起きて人命が失われました)

歴史を無視しした、かつての風景を非可逆的に変更するような乱開発。

地域経済発展のためにと観光客誘致を当て込んだ、イベント頼みの観光業者の跋扈。

時間がたつにつれて古いものはどんどん消滅してゆき、旅人として、こちらの方が読書して想像力を逞しくしないと、かつての旧街道の面影を追うことができない、そんな場所がそこかしこにあって、歩けば歩くほど、回を重ねれば重ねるほど失望も大きくなる場所がたくさんありました。

結局、そういう場所は物珍しさも手伝って、一生に一度は行きたいと思っていても、実際に行ったら「一度行けばもういいや」となり、ますます誇大な広告や宣伝に頼らないと人集めがままならないという悪循環に陥ります。

これは国内外の観光客誘致にかかわらず、地場産業の発展による地域経済の発展も同じことでしょう。

私はその人が経済学者だったから、特にそのことを強く感じました。

その人は盛んに「有徳」を教育理念にあげていましたが、彼の言う「徳」とは何でしょう。

この学者出身の方がお仲間の学者を連れてきて地域の教育の要に据えていたのを知っていますが、仲の良いだけあって、彼ら同様の考えをする人間を再生産するような教育をしていました。
いみじくも、その人たちは「自分は知性が高い」と思い込み、学生も含む自分たち以外の他の人たちを自分よりも知性が低い者として、上から目線でみているようでした。

彼らの発言や発信した文章を読んでいると、その考え方がよくわかります。
今回の不適切とされた発言も、「自分たちの職業は知性が高い人でないとつとまらない」と言ったわけでしょう。

他の人たちを傷つける意図はなかったとしても、少なくとも発言者は「(羅列した職業の人たちよりも)自分の方が知性は高い」と思い込んでいることだけは間違いなさそうです。

そして今回もまた、「言葉の一部を切り取られて誤解を招いた。不適切な発言ではない」と自己の発言を撤回し謝罪することなく、辞意を表明したといいます。

一般の私人であればなんの問題もないこの言い訳も、公人としての発言を撤回、謝罪しない点において、最悪だと私は思います。

ありていにいえば、その人は「自分は間違ったことは言っていない。正しい」と主張しているのです。

ひょっとすると、「自分が悪いと思っても絶対に謝ってはだめ、なぜならそれは敗北だから」という教育を受けてきて、「自分の間違いを認めたら人生終わりだ」と防御的になっているのかもしれませんが、だからこそこれまで何度も失言を繰り返し、批判をうけてきた公人としての自己に気が付けないわけでしょう。

だから辞意も「(自己の発言が理解されないのなら)こっちから辞めてやる」的な意固地のようなものしか感じられません。

本当に謙虚な人間だったら、間髪をいれずにきちんと発言を撤回し、謝罪したうえで「辞めます」と言うはずです。

これは勝ち負けの問題ではなく、生き死にの問題だという事が、彼には理解できないのでしょう。

そういう人の知性が高いのか低いのか、私には判断がつきかねますが、少なくとも「徳」は無いなと感じます。

(周囲の誰かから言われたのか、ワンテンポずれて「私の不徳のいたすところ」と謝罪したようですが、周囲から指摘される前に自分から謝罪しないと意味が無いと思います)

なぜなら、彼は自己の尊厳を高めたと思い込んでいるけれど、その実それを損ねているのは明白だからです。

こんなことを発言するために、この人は学問をし、選挙民に訴えて政治家になったのでしょうか。

きちんと謝って自己の間違いを認めていたら、まだ若い人たちへの勇気にもなって、そこに希望もあったのに。

そのような不徳というか無徳というか、徳を無視した生き方を、かつての学者さんだった人が、この先頑迷な老人となって過ごす余生に私は興味がありませんが、こういう人が地域のリーダーとしてその地位に何年も居座って、結果的に時運の赴くままに辞めるような生き方をするから、また同じような人が同じ椅子に座って同じことを繰り返すのだと感じます。

彼がその不適切とされた発言を誰に向けて発したのかを考えれば、それは自ずと分かります。

本当の知性とは、高低の問題ではなく、そこに実際の「徳」が付随しているか否かの問題ではないでしょうか。

ではその「徳」とはどこから来るのでしょう。

それは自己の人間としての不徳を徹底的に悟ってこそ、はじめてそこへの道が開けるものだと思います。

そうでないと、いかに上手に嘘をついて自己の欠点や短所を隠し通せるかどうかだけが問題になり、結局彼のような「自分は正しい、間違っていない」と正誤の問題にすり替えて責任逃れをする人ばかりが公人として跋扈することになります。

これは選挙でどんな政党の誰に投票するかなどという話とは全く次元の違う問題です。

私は、どんな職業でも知性を磨くことは可能だと思うし、逆にリーダーシップをとる人が自分はインテリだと思い込み、知性を悪用するととんでもないことになると歴史が示していると考えます。

最後に、ちょうど去年の今頃に『反知性主義に陥りませんように』と題して書いた文章と、結びの引用を載せておきます。

『「自分はそれについてはよく知らない」と涼しい顔で言える人というのは、自説に固執することがないので、他人の言うことを(それがどんなにくだらないと思われる内容でも)黙って聴くことができます。
そのうえで、自己の良心的な知性に照らして自分に納得がゆくかどうかを内省したうえで判断する。
得心の行かない点があれば、納得がゆくまで真摯にそれを追求する。
そうやっていくつになっても学習するのが真の学問の徒であるし、そういう人を知性的と呼ぶのではないでしょうか。
何でもかんでも知っていて、記憶力が抜群によいがために学校の成績も優秀で、大人になってもあり余る知識を四六時中開陳することでひけらかすような人間は、頭はよいのかもしれませんが、自分には未知の、或いは自己に馴染まない知識に対しては頭から決めつけてかかるという点で、反知性主義の人だと私は思います。
そういう人との交流は、自己の成長に資さないばかりか、却って発達や成長を阻害してしまうと私は考えます。』

(2023年4月1日付本ブログ)

『知性は、知性以外の人間の美点を致命的に犠牲にして手に入れるものと理解すべきではない。むしろ、それらの美点を完成させるものとして理解する必要がある。理性的な人間なら、知力を行使することが根本的な人間の尊厳を示すことであり、人生のいくつもの正当な目標のひとつとしてあることをまず否定しまい。』(リチャード・ホーフスタッター著 田村哲夫訳『アメリカの反知性主義』みすず書房より)

これを読んでいらっしゃる皆さんの知性が、世間で言うその内容に関係なく、自己と他者の尊厳を同時に示すようなかたちであらわれ、ひとを貶めるのではなく、生きる力を支える方へ向くことを願ってやみません。