我慢の限界 | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

ブロンプトンで通勤するようになって、以前よりも利用するようになった交通機関があります。
それが、雨の日の路線バスです。
本来であれば利用したくないのですが、たとえば朝には雨が降っておらず、午後から夜にかけて降るような場合です。
合羽を着て走るか、バスを使うか迷うところですが、こうした事態を見越して雨具を持参していない場合、後者しか方法はなくなります。
そこで、帰りは自転車をたたんでカバーをかけたうえで、仕事をしている場所から駅まで、そして電車を降りたら駅から家までバスを利用します。


ところが、バスというものは時間通りには来ないもの。
先日は時刻表を予め確かめたうえで、定時到着の5分前にはバス停に行きました。
先客は3人。
いずれも傘をさして雨の中で待っています。
わたしはブロンプトンを建物の影に寄せて、同じく傘を差して待ちの姿勢に入りました。
ところが定時を5分過ぎても、10分過ぎてもバスは来ません。
こんな時、自分は本を出して読みだすと時間が経つのを忘れるのですが、片手に傘をさしてもうひとつの手でブロンプトンの把手を握って支えると、本を保持する手がなくなります。

首と肩の間に傘を挟んでも良いのですが、そうすると本が濡れやすくなります。
場合によっては本を落としてしまうかもしれません。
読書好きとしては、本が濡れるのは自分自身が濡れるよりも辛いものです。
日本の書籍は欧米のペーパーバックのように、湿気を含んだだけでページがアコーデオンの蛇腹ように開いたまま膨らんでしまったり、本全体が湾曲して頁が開けなくなったりすることは無いものの、それでも一度濡れてしまうと寄った皴などは元に戻らなくなります。
本が濡れるというのは、破れる場合の次にショックな出来事ですから、雨の日に停留所で読書してバスを待つというのはちょっと無理です。


会社員時代、雨の月曜日の8時前後、とくに4月の新学期は地獄でした。
家の最寄りのバス停で待っていても、バスは来ないか、漸く来ても満員通過してしまうのです。
始発バス停からここまで、たった3つのバス停しかないのに、そこまでで積み残しが出るほどなので、4つ目のバス停で待つ私たちは、何台ものバスが通過するのをうらめしそうに見つめる羽目になります。
ひとつ先のバス停では、スペースがあるために不定期の折り返し運転をしているのですが、それもいつ折り返しているのかがわかりません。
近道をして始発バス停まで6~7分歩くという手もありますが、だったら22分間歩けば目的の駅まで着いてしまうのですから、そちらを選びます。
こんな風に逡巡しているうちに20分などあっという間に過ぎて、これなら最初から歩いていたら駅に着いていたという結果になります。


今のバスは位置情報(今バスがどこを走っていて、あと何分待てば到着するのか)があるのですが、これをスマホで検索しようとしたところ、つながりにくいうえに、なかなか該当の情報までたどりつけません。
そうこうするうちに、時刻表上では次のバスが到着する予定の時刻になってしまいました。
もう停留所についてから20分になります。
駅までは900mで、歩けば12分。
自転車なら4分ほどです。
ところが、私がいま利用しようとしている渋谷区のコミュニティバスは、地域住民の足として遠回りしてゆくので、同じ駅まで2.4㎞もの回り道をします。


こんな雨の日の、交通量が多く信号も多い通りをバスに乗ったら、駅まで何分かかるかわかりません。
しかも、これだけ遅延しているのに、ここから駅まで途中7つの停留所でお客さんを拾ってゆくわけですから、あの小さなバスの車内がどれほど混雑することか、火を見るよりも明らかです。
そう思ったとき、今まで20分待った時間は全く惜しくなくなり、一番近い駅までの800mを、傘を差して、たたんでカバーをかけたブロンプトンを曳いて歩いてゆくことに決めました。
よくよく考えると、これも折りたたみ自転車だからこそできる芸当なのです。


結局10分歩いて最寄りの地下鉄の駅に着くことができました。
わたしはあのままバスを待ち続けて、そしてバスに乗るという選択をせずに、思い切って歩いてよかったと心から思いました。
そして20分も来ないバスを待ってしまったことについては、そういうこともあるさと手放すことにしました。
何かで読みましたが、公共交通機関を待つ場合、待ち時間15分以内で8割以上の人が、20分だと9割以上の人が強いストレスを感じるといいます。
いわゆる我慢の限界というやつでしょう。
しかし、この歳になるとそれをする価値のある我慢と、我慢しても意味のない、却って毒になる辛抱があると感じます。


たとえば、誰かから強制されて(されたと思い込んで)する我慢。
これは自分の意思ではないという点で、殆どが意味のない我慢になってしまうのではないでしょうか。
わたしは最近、5年以上にわたって我慢してきたことが、全く意味の無いことだとわかり、これ以上その辛抱を続けるのはやめようと決心しました。

そのために、新たに批判されることがあるかもしれませんが、それを引き受けてでも、これまで我慢してきたそのエネルギーを、前に進む力に代えた方がよほど建設的です。

人の粗さがしばかりしている人というのは、相手に対する共感性を欠いているから批判しているわけで、そういう人は、相手が何をしていても、なにもしていなくても、同様に批判してそういう自己は全く省みようとしないわけで、だったらそんな人たちの咆哮にはお付き合いしないことです。
このように、自分で選択して自由意思でする我慢は、自分の成長に資する我慢になります。
上述の例でいえば、バスを待ち続けずに雨の中歩いてゆくことへの我慢です。


こうして考えてみると、同じ我慢でも他から強制されてするのか、自分の意思で選択してするのかで、180度意味が違ってきます。
アルコール依存症者が断酒するのに、医者から、家族から強いられて、或いは自助グループの仲間の手前、先ゆく仲間の地位にこだわるがために飲酒を控えるのか、それとも自発的に「酒を飲まないでおこう、それがたとえ今日一日限りであっても」この飲まない生き方は不快極まりないけれど、慣れて行ってみよう」と考えるのかによって、天と地ほどの開きがあるということです。
受け身か、積極的かと、言い換えてもよいかもしれません。
人生においても、来るあてのないバスを待ち続けるよりも、濡れるのを覚悟で自分の足で自分の思う方向へ積極的に歩いてゆこう、祈りと黙想を欠かさずに。

そんなことを感じた雨の日でした。