旧甲州街道にブロンプトンをつれて 18.上野原宿 | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

旧甲州街道の旅は、上野原市の国道20号線、新町交差点から大月方面を目指します。
前々回、上野原の地名の由来として、鎌倉時代の弥三郎の話を出しましたが、そもそも桂川の河岸段丘の上に広がる原ということで、上野原の名前がついたと、江戸時代に編纂された「甲斐国志」にはあるそうです。
これまでも説明した通り、鉄道線は河岸段丘の下を走っており駅は標高186m地点にあるのに対し、ここ新町交差点は同255.5m地点にあり、70m近い標高差があります。
70mといったら、ビル23階分くらいですから、相当な差です。
下りで次の四方津(「しおつ」と読みます)駅が標高235m、その次の梁川(やながわ)駅が293m、そして、あきらかに段丘上に出た次の鳥沢駅が314mなので、この3駅の間で中央本線は128mもの標高差を駆けあがることになり、こと蒸気機関車の時代は難所だったと想像されます。
いっぽう、中央自動車道は段丘を掘割で東西に突っ切っているので、それほど高いところを走っているというイメージはありません。
下り線が掘割を出て鶴川大橋にかかったとき、ずいぶん高いところを走っていると実感することになります。
こうした標高差も、ブロンプトンで旧道探索をするようになり、自分の足で高度差を上り下りするようになってから、列車に乗っていても、車を運転していても意識するようになりました。


新町交差点のすぐ北には浅間神社があります。
ここが上野原の旧村社でした。
国道20号線は、上野原の台地を、南東から北西にのぼってゆきます。
国道を190m進んだ先の新町二丁目交差点を左折し、上野原インターや駅へ向かう県道を110m南にむかった右側にあるのが、牛倉神社です。
国道からみても、神社の杜は一段高い場所にあり、ここが江戸時代は宿場の鎮守様だったことが見て取れます。
ここは奈良時代の『和名抄』に記されている由緒のある神社で、9月のはじめに行われる例大祭が郡内地方で行われる郡内三大祭り(ほかに富士吉田市の火祭り、都留市の八朔祭)のひとつに数えられています。
農耕五神(甲信地方では「作神」と呼ばれます)に感謝をささげる祭りで、上野原市内の各地区から集まった数十基の神輿と、2台の山車が繰り出す、賑やかなお祭りです。

国道20号線に戻って進むと、両側には商店が並び、かつての賑わいがしのばれます。
なかには土蔵をそのまま商家にした店も残っています。
ここは昔のメインストリートがそのまま国道になったので、歩道幅が狭く、車道も道幅は十分ではありませんので、交通量の多い時は歩行者に遠慮しながら左側歩道をそろそろと進みます。
バブルの頃、春はお花見、夏は避暑、秋は紅葉、冬はスキーと、中央自動車道は週末を中心に年がら年中混雑している体でした。
今の渋滞のようにノロノロ運転でも前に進む渋滞ではなく、10分、20分と停車したまま、時折僅かに進むといった塩梅で、「止まってばかりいるならいつまでたっても到着しない」とたまらず高速道路をおりて下道で行こうとする車が続出しました。
しかし、中央道の八王子から石和の区間は、並行する国道は20号線ほぼ1本です。
当然下道も全然動かない渋滞で、当初相模湖と大月の間にはインターチェンジがなかったので、この区間でおりてしまうと、かなりの距離を渋滞にはまったまま移動することになりました。


少しでも渋滞を解消しようとしたのか、1989年にはここ上野原にインターチェンジが設けられましたが、このために市内の渋滞がさらにひどくなり、沿道の民家にトイレを貸してくださいなんて申し出るのはまだましな方で、そこいらの空き地や畑に用を足す人が続出し、「黄禍」(“yellow peril”)なんて揶揄されていました。
地域の人にはたまったものではないでしょう。
河口湖の某遊園地を目指したものの、相模湖でお昼を迎えてしまい、仕方なくそちらの遊園地へ向かおうとしたところ、駐車場に入ることもできず、這う這うの体で八王子に夕方戻ってきた、なんて話がまことしやかに月曜日の朝に語られていた時代です。
中央道下り線を運転したことのある人ならご存知でしょうが、八王子インターの手前で富士山を見た後は支線の富士吉田線に入って都留インターの先まで、富士山は殆ど見えません。
中央本線も、立川駅の先で多摩川の鉄橋を渡る時に見たあとは、山梨市あたりまで見えません。
それくらい、富士山は当時遠い存在でした。

新町二丁目交差点から320mさき右側、ビジネスホテルがたっている場所が若松屋脇本陣跡です。
標柱等はありません。
かつては斜め向かいのスポーツ用品店に脇に、旅籠の門が残っていましたが、2015年ごろまでにはお店ともども取り壊されてしまいました。
ホテルの80m先右側、本町一丁目バス停がある、消防団の防災倉庫脇を入っていった先にあるのが本陣跡で、今は門だけが残っています。
上野原宿は本陣1、脇本陣2、旅籠20と、近隣の宿場よりも大きな規模を誇っていました。
台地が広かったからでしょう。
しかし水の便が悪いことから、大火になると消火にてこずったようで、江戸期の街並みは明治と大正の火事でほとんど焼失してしまったそうです。
だからかもしれませんが、私が高校生の頃は、和菓子屋さん、呉服店、書店、荒物屋など、戦前の匂いを漂わせた店が並んでいたこの界隈も、ここ10年くらいの間に更地が目立つようになりました。
おそらくは商売を続けようにも人口が減って後継者が見つからないのだと思います。

ビジネスホテルから180mさきの本町交差点を右に折れ、金仏横丁と呼ばれる古い坂道を登ってゆくと、左側に上野原小学校があります。
学校の校庭には樹齢800年ともいわれる大ケヤキが見えます。
お隣には明治の終わりに農業用水を確保するために設けられた月見が池という溜め池があります。
今では鳥類や虫、魚などが生息し、畔は遊歩道が整備されて公園のようになっています。
国道に戻ろうと坂道を下ると、富士山の頭だけが山向こうに見えました。
国道のレベルだと見えないのですが、ほんの僅か登っただけで、頭だけですが上野原からでも富士山が見えるというのはちょっとした驚きでした。
このまま北にそびえる八重山展望台に登れば、もっとよく見えるのかもしれません。
こんなことも、上野原に住んでいる人でなければ分からないことでしょう。

国道に戻り、本町交差点から80m進むと国道20号線から山梨県道33号線(上野原あきる野線)が分岐するY字交差点に出ます。
(信号は無く、本町歩道橋があります。)
この交差点は、オートバイで林道ツーリングしていた時分には誘惑の多い場所でした。
前述のように、バブル期は国道が混雑していたため、原付で甲府盆地周辺の林道に行こうと思ったら、横浜の家を午前2時くらいに出て、5時くらいには塩山や甲府に到着して、それから山へ入ってゆくという具合でした。
しかし、平日朝の6時に起きている自分が、週末だからといって午前2時に起きるなんていつもできるわけではありません。
当然寝坊して5時6時に家を出ると、相模湖付近には7時とか8時になり、既に渋滞している中央道から流れて来た車で、国道20号線も混雑しているわけです。
山中の国道は道幅が狭く、渋滞で並んだ車の脇をすり抜けができません。
そんあこんなで、上野原に着くのは9時10時になり、もうこれから山へ入るには遅い時間帯になっているのです。
そして、ここの交差点で大月、甲府方面にゆくのは諦めて右折し、松姫峠を越えて奥多摩湖経由で青梅街道を立川へ戻ってお茶を濁そうかという誘惑がいつも頭をもたげるのでした。
とくにこの交差点は信号が無いために右折車を先頭に、今走ってきた上野原市内が渋滞しており、脇道へ入るのも地元住民には迷惑なことだと思っていたので、そう考えてしまったのです。


今はブロンプトンに乗って、かつてのイライラをこうして解消できる身分になり、あのころオートバイやマイカーのハンドルを握っていた自分が哀れに思います。
そんな動力付きの乗り物に乗ってガンガン走らなくても、こうして自転車で上野原の街そのものを楽しむことだってできたのに、若くて体力もあったから、自転車を分解して輪行する手間を惜しまなければ、あの時だってこうした旅ができたのにと思います。
でも、ひょっとすると今も車に乗りっぱなしでメタボになり、自転車なんぞとても漕ぐ気になれない壮年男子になっていた(事実、ブロンプトンを購入した最初の夏は、とても乗ってどこかへ出かける気にはなりませんでした。)かもしれません。
そう考えると、いまこうして山がちな旧甲州街道を甲府、ひいては諏訪に向って前進していて、これが男のロマンだなんて言っている自分は、幸運だったのかもしれません。

旧甲州街道はこのY字路のさらに左に入る、歩道橋袂の脇道へと入ります。
昔はこんなところに旧道の入口があること自体知りませんでした。
次回はここ、本町歩道橋脇から旧甲州街道の旅を続けたいと思います。