久々にクリスマスのミサに出席してきました | 旅はブロンプトンをつれて

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今年の12月24日は、日曜日でした。

クリスマス・イブの日が日曜日に重なると、その日は朝にミサに出て、夕方から夜にかけての降誕祭夜半ミサと、一日に二回のミサ(祭儀)にあずかることになります。

あれ?

一日複数回のミサに出てパンをいただくのはご法度ではなかったかと思ったのですが、降誕祭夜半ミサというのは25日にキリストが生まれるその予兆からをふくめて、翌日のクリスマスを祝う意味合いなので、問題がないそうです。

実をいうと、ここのところ7年間は年末年始が忙しく、日曜日朝のミサに出ることは問題がなくても、翌日早起きしなければならないことも含めて、夜半ミサはできるだけ遠慮しておりました。

だから、クリスマスのミサに出たのは数年ぶりになります。

私の通う教会は、都心にあるとはいえ、鉄道線の駅からは離れているので、クリスマスに限ってのにわか信徒さんで溢れることはないのですが、それでも普段はミサに出ない家族や兄弟、友人を、この日に限っては誘ってくるという話はきいておりました。

それにしても、早朝のミサに比べて混雑していること。

実際にミサの最中に観察していると、かなりの洗礼を受けていない、つまり非信者さんがいらしたようです。

信者さんとそうでない人をミサの最中に見分けるのは簡単です。

聖体拝領の際、パンをいただけるのは洗礼を受けた人だけで、それ以外の方は按手といって、おでこの前に手をかざして祈ってもらいますから。

おそらくは家族の中で信者さんとそうでない人がいるのでしょう。

見てたらパンをもらう人と祈ってもらう人の割合が4対1くらいにまでなっていました。

日本の家制度からすると信者でもないひとが家族とともに教会に行くのは奇妙ですが、このブログで何度も書いている通り、神仏とのつながりはきわめてパーソナルなもので、核家族化が進行して、家制度が無実化してしまっている今では、とくに都会においては当たり前のようになってきています。

教会の方でも、一部の混雑する教会を除き、「クリスマスくらいは誰でもどうぞ」(本当はいつでもどうぞです)というスタンスです。

日本は江戸時代の宗門帳にルーツを持つ、家制度に仏教徒としての檀家制度が付随しているので、おかしなことになっているのだと感じます。

信仰というものはごく個人的なことなのに、先祖供養を「イエ」としてならまだしも、個人として強制されるのはとても変です。

そういうことは、自発的にやるもので、引き渡す側が大して宗教的な素養も無く、供養をおざなりにしてきたのに、そうした自分は棚に上げて「相続と引き換えに義務としてやれ」なんてやるから、引き継ぐ側も「はいはい」と適当に返事をしておいて、いざ自分の番になったら放棄するのだと思います。

そういう「世代間ギャップ」を、お寺にいるときにひしひしと感じていました。

でも、このブログでは神社だろうとお寺だろうと、ともに参拝するひとがいても、基本は神さま、仏さまと、それぞれの人とのつながりです。

ドラマなどでカップルが「何をお願いしたの?」なんて訊いていますが、あれは本来であれば相手の心の中に土足で入り込むようなものです。

クリスマスのミサに関していえば、私などは学生時代からクリスマス礼拝は出席必須だったので、イブの晩に宗教行事に参加することには、お正月に初もうでに行くこととおなじくらい抵抗がないのですが、そうでない人には敷居は高いと思います。

さらに、ここところ仕事があったからできませんでしたが、ブロンプトンを購入したころは、大みそかの新年ひとり弾丸参拝をしていたので、ひとりでミサに出ることなどどうということはありません。

でも、世間一般では家族から離れて、ひとりでミサに出席するということは、「この孤独をどうにかしてください」と神頼みにゆくようで、惨めなイメージに移るのでしょうね。

本当は神さまとともにいれば、心の通じ合わない大勢の人とバカ騒ぎしたり、対外的に仲の良い振りだけをする仮面家族と一緒にすごすよりもずっと心豊かでいられるのに。

私はオーストリアのウィーンでクリスマスを迎えたことがあります。

12月23日までは、街は日本と同じようにクリスマス商戦で賑わっていました。

ところが翌日イブの朝になると、街の様相は全く変わり、店はどこも閉まったままで、道行く人も殆どいなくなってしまいました。

コンビニやキオスクさえも閉まったために、どこで軽食をとったらいいのか苦慮するほどでした。

あとで当地に居住経験のある人に、「クリスマス休暇に入ったら働く人がいないから店が閉まるの?」と訊いたら、「それもそうだけれど、こちらは夫婦にしろ親子にしろ、一神教の神さまのもとでそれぞれが神との契約によってその人として生きているから、家族の中であたかも自分が神のようにふるまう人間はおらず、家族であっても神のもとでは人皆平等という考え方だから、同じ仲間として家族で神とつながるのがこのクリスマスの期間ということ、だから仕事よりも家族と過ごすことが優先する」といわれ、なるほどと思ったものです。

しかし、いま日本では「クリぼっち」なる言葉があって、こうした人対象に商戦が組まれるほどだと言います。

どうせ独りだからクリスマスイブの晩くらいは聖書を紐解いてみようと考える人は奇特なのでしょうね。

いっぽう、家庭のある方はクリスマスは出かけずに家族で過ごすという人が多いのではないでしょうか。
特に小さなお子さんがいらっしゃる家族は、サンタさんが持ってくるプレゼントという意味合いで親御さんも準備している関係上、礼拝やミサに出てそのあとみんなで外食という形には持って行きにくいと思います。
(正式には寝ている間に長靴に入れるということで、夜にさえ家に戻れば大丈夫なのですが)

日本にはバブルの80年代くらいから、クリスマスは恋人と過ごすのが当たり前の雰囲気がつくられてきました。

そして独身の一緒に過ごすパートナーのいる人たちに関しては、これはもう、イブの晩には奇跡が起こるという西洋流の伝説を思い切り曲解して、願いが叶う(サンタさんにプレゼントをねだるのとは違うと思うのですが)イコール、想いが通じる、相思相愛になれるなんて考えて、クリスマスは恋人同士でクリスマスツリーやイルミネーションにデコられた街を、肩を寄せ合って歩くというのがバブルのころから定番になってきました。

だから、「イブなのに独り」は「さみしい奴」で地獄ということになり、「プレゼントを抱えて雪の街からやってくるサンタクロース」が居る人や、「きっと君は来ない、独りきりのクリスマス・イブ」なんてBGMにのって、シンデレラ・エクスプレスなる乗り物に乗って移動する片割れがいるひとは、羨望の的になっていました。

スキー映画のセリフにもありましたっけね。

「イブの晩に女二人だけなんて地獄よ」って。

でも、好きな人と一緒に教会へ行って礼拝やミサに出てみるというのは、学生時代に学校でそういう経験でもあれば別でしょうけれど、あまり聞いたことがありません。

けれども、信者さん同士、あるいは片方が信者さんで教会に来ているカップルは、年齢にかかわらずみていて微笑ましいものがあります。

とくに老夫婦が微笑み合いながら「主の平和」といって互いに挨拶する姿は、「自分もあんな風に歳をとりたかった」と思うほどです。

そして、夜半とはいえ夕方の方のミサには、お子さんをつれた家族連れもたくさん来ていました。

イエスは子どもの純真さを愛しておりましたから、ミサや礼拝が騒がしくなってもあまり気になりません。

幼子イエスと父のヨセフ、母のマリアを指して「聖家族」と呼ばれる絵画がありますが、クリスマスイブの晩に教会に来る家族連れは、まさに彼らにあやかっているようで、眩しく見えます。

実際、神父さまも「聖家族の聖は、ルールを守って正しく生きているから、教会にいくら献金したり貢献したりしたから聖になるのではない。聖別されたから聖なのだ」と話していました。

聖別とは、一般化してしまった俗世から離れて、聖なる対象に会いに来るということです。

それをしないでおいて、プレゼントを交換しあったあとに、お酒を飲んでどんちゃん騒ぎをして翌日には夢から醒めたような気分でいては、それこそいつまでたっても神の御前にたてない「クリぼっち」、お正月も面倒くさいので寝正月を決め込む「あけおめぼっち」を毎年この時期に繰り返すのではないでしょうか。

ひとりのときこそ、人間を超えた対象と顔と顔を合わせて向き合うチャンスではないか、そんな風に思います。

そういう意識で過ごしていれば、お願いしてもしなくても、一緒に神さまに向き合う兄弟姉妹を与えられるのではないか、そんな風に確信したクリスマス・イブの晩でした。