旧甲州街道にブロンプトンをつれて 15.与瀬宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(相模湖駅入口交差点から、相模湖駅方面を望む)

旧甲州街道の旅は、相模原市立桂北小学校の体育館裏手、国道20号線に架かる歩道橋のところからはじめます。
本来は、ここで国道を横断してから右折して西に向かいたいところですが、歩道橋が設置されているということは、(横断禁止の標識はないものの)道路を横断せずにそちらを渡れということだと思われます。
またここは週末を中心に車が多く、150m西側にある相模湖駅前信号を起点に片側の車線が渋滞していることが多いのです。
すぐ先から歩道は設置されているものの、幅は十分でなく、車の方はとくに観光客の運転は渋滞中の車も渋滞を抜けた直後の車も歩行者への配慮は殆どありません。
だから、150mだけ国道の右側路側帯を逆走して同交差点で横断しようにも、そのスペースがトラックなどによって無く、あっても危険な状況が多いのです。
さらに、小学校の裏ですから、登下校時など子どもたちの眼がありますから、歩道橋下を車が来ないタイミングを見計らって(ただし同地点は東京方の見通しがカーブで悪く、スピードを出してきたくるまには要注意です)、或いは渋滞している車と車の間(これもすり抜けのオートバイや自転車が車の陰から出てくるので危険です)を、堂々と歩道橋下の道路を渡るのはどうかと思います。
しかし、歩道橋にはスロープが無く、自転車は担いで狭い階段を昇り降りするしかありません。
自分は今まで、この地点では車が途切れるか連なって止まるまで待ってから横断していました。

(右手石垣の上が坂本本陣跡)

(旧甲州街道はこの坂を登ります)
都内や市街地をブロンプトンで走っておりますと、信号が青になるのを待っている子どもがいる目の前で、堂々と信号無視をする大人の歩行者や自転車を見かけます。
(とくに朝と夕方)
酷い場合は子どもを自転車にのせたまま信号無視を平気でする大人もいます。
彼らの理屈は、「こっちは時間が無いのだ、そんな小さなことに構っていられない」といったところなのでしょうが、少なくとも目の前に居る、或いは自転車に載せている子どもには、「交通ルールを守りなさい」とは言えないのではないでしょうか。
私は交通ルールを守らないことが悪だとは思いません。
誰だってそれぞれに事情があって、時にはルールを守れないこともあるでしょう。
しかし、自分はルールを破っておきながら、それを棚にあげたり、自分のやっていることは軽いとか、誰でもやっていることだと屁理屈をつけたりして、他人には平気で「ルールは守るものだ」とか「ルールを守れない人間は屑だ」というダブルスタンダードを振り回すのは救いがたい悪だと思います。
交通ルールに限らず、そういう生き方が「要領の良い生き方」だと思っている人たちは、昔からそこかしこにおりました。
そういう人たちがルールを破った時の言い訳が、「これは(他のことに比べて)大したことじゃない」とか「皆やっていること」「自分より悪いことをしている人間はいっぱいいる」など、すべて他との比較においてだからすぐに分かります。
いちばん大切なことは、他人のことよりも自分のことをしっかり見つめることではないでしょうか。
今の人はそれを訓練しなければできないのですが、それができれば、対応はおのずと変わります。

(けっこうきついのですが、短いし、小仏峠を越えてきたなら何とかなります)

(慈眼寺への入り口。高速道路の向こうに伽藍が見えています)
右折して国道を150m西へ進むと、前述の相模湖駅前交差点です。
右折して坂を下る方向が国道412号線で概ね相模川沿いに下って東海道の平塚へと向かいます。
バブル期のころ、国道20号線の大垂水峠はローリング族、暴走族対策のために終日二輪車の通行が禁止されていたため、自分のような原付のオフロードバイク乗りは、八王子からここ相模湖へ出るのに、いったん南下して津久井湖の城山ダムまで出て国道412号線を経由するか、北回りで陣馬山の肩にあたる和田峠を越えるしか道はありませんでした。
さらにその頃のテレビドラマがいわゆる学園ものに暴走族を登場させる際、ジャンプしたりアクセルターンをしたりと、スタントまがいの演出をするために、黒く塗ったオフロードバイクを使用していたため、色違いのオフロードバイクに乗っている自分まで暴走族扱いされていました。
通常、ジープやランクルに代表される四輪駆動車に乗った暴走族が存在しないように、山奥の未舗装路に分け入るためのオフロードバイクに乗った暴走族など皆無なのに、たんなるお芝居の演出のために、濡れ衣を着せられたのではたまったものではありませんでした。
このように、国道20号線の通行止めは、一部の人の趣味のために、ほかの関係ない人たちが割を喰うルールでしたから、私は「走り屋」と呼ばれる人たちが苦手です。
あの頃大垂水峠を行ったり来たりしていた人たち、それを見物にいっていた大勢の人たちも、いまはいい歳になっていると思うのですが、あの頃の自己をどう振り返っているのでしょう。

(輿瀬神社への階段。右に並行しているのが慈眼寺への階段)

(慈眼寺本堂)
相模湖駅前交差点を右折すると、100mほど先の湖のモーターボートをモチーフにしたアーチをくぐった先の突き当りが相模湖駅です。
各駅停車しかとまりませんが、下りは、大月、河口湖、甲府、松本、長野行きの直通列車があり、朝夕の上りは東京直通の列車が設定されています。
運動がてらに朝に小仏峠だけを徒歩なり自転車なりで越えて、ここから電車に乗って河口湖や石和、諏訪といった温泉旅行に行くことも可能です。
温泉の少ない東海道ではできない、甲州街道がらみの旅だと思います。
また駅前のロータリーにはこれまで話してきた大垂水峠越えで八王子駅北口までゆく路線をはじめ、三ケ木(みかげ)乗り換えで橋本方面への神奈中バスがあります。
駅の名前はもともと宿場の名前と同じ、「与瀬」(よせ)でした。
この地名は、すぐさきで登場する与瀬(與瀬)神社によるものです。
それが、相模川に相模ダムによって堰き止められて相模湖ができたあとの昭和31年9月に、相模湖駅に改称されました。
相模湖駅入口交差点付近の住所は与瀬本町といい、ここから与瀬宿に入ってゆきます。

(右に見えているのが慈眼寺の客殿。輿瀬神社へはさらに階段をのぼります。)

(階段をのぼってゆく脇には、シャガの花が咲いており、なんだかアニメに出てきそうな雰囲気です)
さて、両側に商店がまばらに続く国道をさらに西へ進み、相模湖郵便局を右にみながら480m進んだ「慈眼寺入口」との看板のある横断歩道のある右側、松の木の下に「明治天皇與瀬御小休所阯」と彫られた大きな石碑のある場所が、与瀬宿坂本本陣跡です。
往時は建坪が百十一坪もあったとか。
与瀬宿としては、脇本陣をふくめ、本陣クラスとしてはここ1軒だけで、あとは旅籠6軒という、東隣の小原宿と併せての宿場でした。
本陣跡の隣の路地を右に入り、坂を登ります。
急な坂を60m登った先で旧甲州街道は左折するわけですが、そこから山の上に向って階段が伸びています。
不思議なことに、階段は2本が隣り合って並行しながらすぐ上にある中央自動車道を越えています。
向かって右側の階段が、與瀬神社の別当寺(かつて神仏習合時代には、お寺が神社の管理をするということは普通に行われていました)である、高野山真言宗の慈眼寺への階段で、むかって左側、奥の鳥居がある階段をのぼっていった先が、與瀬神社になります。

(輿瀬神社本殿)

(明王峠への道。この先にも展望台がありますが、片道20分はかかるようです)

(神社脇から相模湖を望む)
旧街道から見上げていても様子が分からないので、自転車を下に駐輪して登って行ってみました。
70段以上の急な階段をのぼって並行していた2つの階段はひとつの橋に合流し、中央自動車道の上を越えます。
橋の向こうでまた2つの階段に分かれ、右側の20段ほどのぼった先の山門をくぐると、慈眼寺の境内に入ります。
天正年間ですから戦国時代の後期に建立され、ご本尊は薬師如来、津久井観音霊場の第20番札所になっています。
国道からはかなり登っているせいか、振り返ると相模湖がよく見えます。
また、神社への階段を挟んだ左手奥の墓地の中にも展望台が設けられているようです。
左側の階段はさらに山の上へ向かって続いており、鬱蒼とした杉木立のなかを登ってゆくと、突き当りが吉野の蔵王権現を分祀している、與瀬神社です。
ここは陣馬山から明王峠を経由して相模湖駅へ降りてくるハイキングコースの終点になっております。
中学生の時、学校行事のハイキングでここへくたくたになって降りてきたとき、色々なことがあったのでよく覚えています。
次回はここ与瀬神社前から旧甲州街道の旅を続けたいと思います。


(慈眼寺から相模湖を望む)