やはり紙の本は実物を見ないと買えません。 | 旅はブロンプトンをつれて

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むかしこのブログで「どんな本を読んだら良いですか?」という質問に対し、分野を限っている場合なら、その分野の名著と呼ばれる本を、限っていない場合なら、古典から読むしかないということを書きました。

それだけの時間をかけて現代になお残っているということは、その書籍の歴史においてそれだけ多くの読者が「この本は読み継ぎたい」と感じた何かが連綿とつづいているわけで、そこに自分も連なることができたなら僥倖というものでしょう。

なかなかそういう気持ちにはなれませんが、大昔の本でも「あ、自分と考えて(悩んで)いることが同じだ」という本に、いつかは巡り合いますから。

現代に執筆された書籍は今の情報量に比例して、よく読まれている本ですらその時限りで賞味期限が来るのが早く、読もうと思った時にはもうブームが去っていて経済的な事情で消費期限が過ぎていたために絶版になっているということがよくありますし、エライ先生の書いた本だって、その人個人が学者や教育をやりたいがため、自分の名誉や地位保全のために書いた本は、読者の方を向いていない、(そういう人の言説も含めて)どこかしら独りよがりを含んでいるから、後世に読み継がれる本にはなりようがありません。

おそらく再版はなく、あとは某図書館に所蔵されるだけでしょう。

私はアノニマス(無名)のまま、その問題は永遠に人間を悩ませるであろうことが分かっているために、後世に読み継がれる本を翻訳できたのは、人生における幸運だったと思います。

無名だから、おのがためだけにはなりようもないですし、「その分野のことはあの人に訊け」なんて言われても、私が困ってしまうような問題について書かれた本でしたし、私にはちょうど良かったのです。

読書についてですが、ある特定の分野について読書がしたいという場合においても、個々人の理解度やその時の興味の方向によってはあてはまる、あてはまらないがあるので、勧めた本がそのとき読み手に必要かどうかは何ともいえないのですが、ただ、自分に大きな影響を与えた人、その人と交流することで自分が変わったと実感できる人、その人のことを心から大切にしたいと思っている人が読んでいる本は、向こうから勧められなくても自分から読んでみたくなる本のうちに入ってくるのではないでしょうか。

今回は、そんな場合にも、紙の本ならネット書店ではなく、ちゃんと実店舗に行って、実物を見てから買ったほうが良いでしょうというお話です。

たとえば著作権の切れた、つまり作者が亡くなってから50年以上経過して、ネット内の青空文庫にテキストがあるような場合の作品は、複数の出版社から文庫本として刊行されていることが多々あります。

翻訳書でなければ、中身の文章も一字一句まで同じはずです。

中身は同じなのだから、どの出版社の本を買っても同じだし、だったらネット書店の安いところから買えば、手間も省けてお財布にも優しいじゃないかと言われる方がおりますが、私はさにあらずと考えています。

なお、これから先のお話は、最初から電子書籍で良いと思っている方にはあてはまりません。

電子書籍なら、自炊(個人で紙の本をスキャンして電子書籍化すること)の必要もない、それこそ無料で配信されているデータをダウンロードすればよいだけの話です。

それに、データの体裁はある程度は自分で整えられるのではないでしょうから。

では、同じ内容の文庫本でも手にとって比べてからではないと買えないという点について、それぞれどこに着目をしてゆくか、ポイントをあげてゆきます。

 

〇字の大きさ、行間の幅など

買ったのに読まずに置いておくことを「積ん読」といいますが、その原因の中に、よく中身を確かめずに、或いはネットで書籍を購入したものの、実際読んでみたら字が小さかったり、行間が詰まっていたりして、読みにくいと思って数頁読んで「積んでしまった」というケースがあります。

こうなると、その本は二度と読まれない死蔵本になる可能性が高くなります。

文庫や新書なんてどれも同じで五十歩百歩だろうと思いきや、字の大きさ、行間、紙の色、小口や天地、ノドの余白、ゆえに頁数など、かなり差があります。

歳をとってくると、ルビも含めて大きい方が読みやすいし、色もあまり白くも無く、かといって焼けてはいない、自分が読むにあたってちょうど良いころ合いの紙の色があるのです。

何年も開けていなかった本を読んだらかなりヤケが進んでいて、読みにくかったということもよくあります。

だから、古書も含めて実際に手に触れて読んでみることが必要なのです。

〇ルビ(ふりがな)の量

前の要素と重なりますが、戦前の文庫本など、古本屋で手に入れて読もうとすると、漢字は旧字体で字が小さいから潰れて読めず、しかもふり仮名もないから手掛かりなしなんてことや、字はわかるけれど読みかたが分からないし、いちいち辞書で調べていたら先を読み進められないので、適当に読んでいたら間違った読みかたのまま覚えてしまったとか、読みかたは合っていたけれど、あとで辞書を引いたら自分が想像したのと全然違う意味だったなんてことがおこるわけです。

だから、明治の文豪など旧仮名遣いであっても、ふり仮名がふってあると助かるし、できれば現代語訳とかわらないくらいに読めるようになると、その作品自体を身近に感じることができます。

けっきょく歳をとってどんどん辞書を引くのが億劫になってくると、ふり仮名がたくさん入った本を選ぶようになりました。

〇本の厚み、重さ、他の作品とカップリングされているか否か

私の場合、文庫本は持ち歩くことを前提にしているので、薄くて軽い方がよいのです。

だから出版社の都合で、同じ作家の別の作品がカップリングされているような書籍は、その分厚くなって重くなるので、余計な荷物になってしまいます。

いっぽう、そのような本を何気なく購入したら、お目当ての作品には感じられなかった同じ作家の別の作品の魅力を知り、却って夢中になって読んでしまったということもよくあります。

そこはギャンブルになりますが、その作家にあまり思い入れがないうち、つまり代表作だけ読んでみようなどという場合は、お目当ての作品だけの本の方をお勧めします。

 

〇解説部分の違い

巻末に解説がのっている場合、その文章の良し悪しで、読後の感覚がガラリと変わってしまうケースが多々あります。

私は本文をじっくり最後まで読んでから、余韻が残るうちに解説を読むのが好きなのですが、その際にがっかりしないためにも、購入前に本文の他に解説文の最初のパラグラフくらいは読んでから決めます。

多くの場合、解説者は作者本人を知っている(大昔の人なら研究している)人が多く、その作品や作者の人となりについてを書いています。

作者と解説者は別人ですが、自分の感性に合った解説者が解説文を執筆している本の方が、その作品に対して親近感を持ちやすいように感じます。

いっぽう、作者のことをよく知らない場合は、その人となりを解説した文章と著者年表を、本屋さんの立ち読みで読んでしまうこともあります。

作品を読む前の予備知識と言えば聞こえは良いですが、著者本人へのバイアスがかかってしまうこともあるので、あまりおすすめはしません。

そのような著者略歴は、せめて代表作をひとつ、読んでからにしたほうが良いと思われます。

〇表紙のデザイン、背表紙の体裁

私は他の要素に比べてデザインや体裁にはあまり重きを置かない方ですが、それでも本棚から出してきて、「おっ」と注意を惹くような、その本らしい表紙であって欲しいとは思います。

その意味で、デザインが統一されている岩波文庫など、本棚にある程度の冊数が並んでいれば目立つのですが、背表紙では埋没してしまい、望みの本が見つかりにくいということもあります。

最近の文庫本は装丁がよくなって、昔のように色褪せたり、擦り切れたりすることが少なくなりましたが、それでも保存には一定の配慮が必要です。

気に入ったデザインの本には、いつまでもその中身同様に、輝きを失ってほしくないと思います。

 

〇値段

たまにしか本を購入しないひとはいざ知らず、毎月一定量の書籍を購入している自分にとっては、価格も結構大事です。

文庫本は本の中でも最も安い部類の本ですが、それでも「塵も積もれば」で無駄遣いはできません。

少しずつ安い本を買えば、その分別の作家の文庫本にも手が届くわけで、限られた時間の中でどの本を優先して読むか同様に、本当に読みたい本に巡り合うためにも、価格差はシビアに考えねばなりません。

逆に「これは」という本は、古本しかなく、その本にエライ価値をつけている業者もあって、悩ましいところです。

これは、図書館の本だけでは絶対に済ませられない自分としてはアキレス腱ですが、読書という文化の一翼を担っているという自負からも、他のことは我慢しても、毎月一定額は書籍購入に充てようと決めている次第です。

このように、同じ和書の作品を文庫本で選ぶにしても、やはり本屋さんに行ってそれぞれの本を手に取って、開いて一部を読み、その本から立ち昇る匂いを嗅ぎ、その本が出版されるに至って係ったすべての人の声を聴かないと、なかなか書籍の購入には至れるものではありません。

そういう意味では、紙の本は読者と作者を結ぶ出会いなのです。

電子メールではなく、紙の手紙をやり取りしたことのある自分には、それを強く感じます。

合理主義の徒からすれば、時間をかけてなに無駄なことをやっているのだといわれそうですが、そのような人ばかりになったとき、紙の本の文化は廃れ、電子書籍をボーカロイドに読ませて他のことをしながら読書をしたと称している人ばかりになり、そんな未来があったとしても、私は生まれてきたくないと思うから、いくつになっても愚直に本屋さん通いをやめません。

今は本屋さんの経営が成り立たない時代ですが、この「本を手に取ってから買う」までのプロセスを大事にするような人たちが、ネット書店や電子書籍に流れてゆかないことを祈ってやみません。