相手のために祈ることが、自己のために祈ること | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

この夏休みの終わり頃より、ブロンプトンに乗って空を見上げることが多くなりました。
自転車の場合、安全な場所で道路の端に寄って立ち止まって空を眺めていても、殆ど文句は言われません。
止まってさえしまえば、好きなだけ空を眺めつづけることができます。
祈るようになった理由は至極単純で、人のために祈ることが、自分のために祈ることと一致するような経験を日々重ねるようになったからです。
それは、単純に自分が相手とその人につながるすべての人々ために祈れば、相手も自分と自分につながるすべての人に対して祈り返してくれるということだけではなく、神さまを通して相手に祈りを伝えることで、相手からのメッセージの中に人間を超えた存在の意思を感じることで、日々、今日という一日を与えてくださった神さまに感謝しながら、相手とともに、急がず、結果を求めず、自己を見つめながら丁寧に生きることだと実感しました。

相手のために祈った言葉が、実は自分のためにも祈った言葉であったことに気が付くという経験をすると、相手に教えたと思っていたことから実は自分が教わっていた、相手を支えたと思っていたら、実は自分が相手から支えられていた、相手に優しい気持ちを持っていたら、相手から優しい眼差しを向けられていた、相手を救おうと努力していたつもりが、実は相手から自己が救われていたということにも気が付きます。
すると、不思議なことに疑念は信頼に、恨みは感謝に、無関心は慈しみに、悲しみは喜びに、不安は勇気に、欠点は長所に、危機はチャンスに、試練は恩寵に、恐れは安堵に、痛みは緩和に、苦しみは安らぎにかわりました。

これまで、自分ではできなかったことを、神さまがしてくださっていることに突如として気付いたとでもいいましょうか。
なぜ、相手と一緒にいても離れていても、そのような気持ちが持続するのか。
それはやはり、神の愛を通しての、祈りによる心のつながりだからと思われます。
「神の注がれる目は、神を畏れる者に、神の愛に希望を、置く者の上に」という聖歌がありますが、神の愛が普遍で永遠ならば、神の愛に希望を置いたまま、お互いがお互いを慈しみ合うことができたなら、そしてできることをできるだけの努力で行い、できないことについては神に委ねてゆけば、それぞれがいつ、いかなる状況になっても、心では結ばれていると信じてさえいれば、何があっても受けいれられることになるのではないでしょうか。

私は神さまに何かをお願いするのではなく、神さまが私に何を求めているかについて明かしてくださいと祈るのが先だとこのブログで書きましたが、祈り願った行為に対するご利益としてではなく、耳を澄ませて向こうからの求めに応じて今の自分を保持しようとはせずに、無私の気持ちで自己を与えていったなら、人生、たとえ明日に断ち切られるとしても、悪い結末にはならないように思えてきました。
「朝に道を聞かば、夕べ死すとも可なり」
今日一日で感謝のうちにすごす幸福を、一週間に一度の日曜日に、神さまに御礼してこようとおもいます。