シャツを裏返して着たままミサに出てしまいました(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(その1からつづく)

その日の聖書朗読は、第一朗読がエキゼル書の33章7~9節で、『あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。』とありました。
第二朗読はパウロのローマ信徒への手紙の13章8~10節、「隣人愛」と題された箇所で、『互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。』でした。
そして福音朗読はマタイによる福音書18章15~20節で、冒頭に『「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」とありました。

つまり、どこにも「復讐しろ」とか「補償を求めよ」などとは書いていないのです。
隣人を自分のように愛するのであれば、そのなかに赦すも入っているのではないでしょうか。
私が訳した本の中に、著者が「わたしはお父さんをゆるします」とおそるおそる口に出してみて、「ゆるすとはこうであったか」と感嘆する場面がありました。
きっと赦す気になる前に、行動してみることで「気持ちを飛び越える」という経験を表明したかったのだと思います。
これは信仰も全く同じで、信じる気持ちになる前に、まず祈ってみる、どう祈ったら良いか、他人の意見や読書なども参考にしながら、しっくりとくるまで試行錯誤をくりかえすというのは、大事なことだと思います。
何度も繰り返し書いておりますが、「信じるようになったら祈ろう」では、「やる気になったら学ぼう(運動しよう、旅に出よう)」と同じで、いつまでたってもその道に入れません。
そこは「思いを切る」しかないように感じます。

説教では、若い神父さまがいつになく熱を帯びたことばで、次のようなことを話されていました。
すなわち、私たちが罪を考えるときには大きな落とし穴があることに注意しなければならない。
罪を犯している人と、無垢で人の罪の被害を受けた側のように、なにかきれいに線引きがされて、罪の中にいる人と罪の外にいる人みたいに分けられると思いがちだ。
しかしパウロは、自分は回心してキリストへの信仰に入り、もう罪が無くなったから、高みからの説教としてこの言葉を手紙に書いたのではない。
そうではなくて、自分もまた罪の中にいて呻吟し、のたうち回りながら絶えずそちらへ傾きかける心から信仰を守るために、その罪に塗れたところが出発点で、そこから「隣人を自分のように愛する」という行為への昇華だけが、悪を行わず、かつ律法も全うすることになるとうったえている。

そんな話を聴きながら、ある真面目に生きている方が刑務所に入っている人たち、出てきた人たちを指して、「一度でも罪を犯した人をわたしは絶対に信用しない」と話したことを思い出しました。
かつて罪を犯した人に、「判決を受けて、罰金を支払うなり、執行猶予判決を受けるなり、刑務所に入るなりして罪を償ったのなら、もうあなたは罪を犯す前と同じ、きれいな心と身体に戻ったことになるのだからね」と強調する人の話を聴いたことがあります。
後者の人は、心から「このまま罪を重ねて闇に沈んで欲しくない」という気持ちからそう発言しているのだと思います。
しかし、この二人もまた、罪びとと無垢な人の二種類の人間しかいないという認知の歪みに陥っているのだろうなと感じます。
最近、一度でも罪を犯した人を排除しようとする話をそこかしこで耳にしますが、そういう人たちの話には、自分は本当に完全に無垢なのかという視点と、その罪人に「立ち返ってもらう」「戻ったことを喜ぶ」という視点がありません。

放蕩息子が帰ってきて父が抱擁する場面を冷たい眼でみつめている、嫉妬と不満でいっぱいの父のもとで「真面目に働いてきた兄」と同じです。
私はそれを続けたらヨハネによる福音書の8章、「姦通の女」の場面のように、イエスが居なければ、当人以外誰も居なくなるように思えるのですが。
あの場面で、イエスは罪の女を最後まで裁きませんでした。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはならない。」と言ったところでこの話は終わり、続いて口を開いたときには有名な言葉を発します。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
注意して読むと、「光の中を歩く」とは言っていません。
つまり、「わたしと一緒なら罪を犯さない」なんて保証しているわけではないのです。
この箇所を読むと、罪の女が「行きなさい」と命じられてイエスのもとを去ってしまったのか、そのままそこに留まり、次の言葉を受けて従う者になったのかが気になります。
私が「罪の女」なら、こんなチャンスは二度とないと思うから、行きなさいと言われてもそこに居続けると思います。

私は最近、自己の罪の中に神の呼ぶ声を聞くことが、自分勝手に努力をするのではなく、反対に悪に傾く自分の心を野放しにするのでもなく、人間を超えたものの力に委ねることではないかと思うようになりました。
いっけんすると悪としか評価できないような対象の中に、神の招きを見出すとはどういうことでしょう。
それは、悪の向こう側にあって隠れているものに目を向け、或いは耳を澄ませるということではないでしょうか。
いままで、私は悪の正反対の側に善があると考え、悪に染まった自分が神に向かうには、回れ右をして文字通り回心しなければならいと考えてきたのですが、どうも神は悪を突き抜けた先にあって私を呼んでいて、私は手前にある悪の声ばかりを増幅させて聞いているために、その向こうの声に気付かずにきてしまったのではないか、そんな風に考えたのです。

そう考えると、お寺のご住職のいう「煩悩即菩提」の謎も解けたように思いました。
煩悩と菩提を対置して考えるから、「煩悩即菩提」なら「菩提即煩悩」でもあるわけでしょうという理屈が出てくるわけで、「煩悩の中に埋もれている菩提に気付け」「煩悩のさらに先にある菩提に心を寄せよ」ということであれば、「菩提即煩悩」は逆戻りになるからあり得ないのです。
このことを住職に話したら、「自分のなかの煩悩にも菩薩が住んでいることに気付くことだよ」とボソッとお話しされました。
世の中には聞くもおぞましい犯罪行為や、悲惨な事件に溢れているように報道されますけれども、その向こうにある「善」に耳を澄ませ、その問いかけに答えようとしたら、「こんなことが起きて、神も仏もあったものか」と世の中全体を倦むよりも、ずっと健康的のように思います。
人間の社会において、全くの善とか全くの悪はないわけで、この悪の向こうにある善に着目するというのは、手前にある悪にとらわれそうになる自分そのままで救われる、唯一の道のように感じられます。
依存症に喩えれば、依存対象から逃れようと必死に逃げ回っていた人が急に立ち止まり、もう逃げ続けるのはやめようと決心し、勇気をもって大きく目を見開くことで、その対象の向こうに、もうそれに頼ることなく、人間を超えた力に従う道を見出したということでしょう。
悪から逃れるために使ってきたエネルギーを、こんどは善に従うために振り向けられるようになるわけで、必死にがんばって戦ってきた人ほど、善とともに歩む絆はがっちりと固く結ばれるのではないでしょうか。
それは回復の道における、大きなマイルストーンとなるはずです。

なんだかシャツを裏返しにしたままのこのことミサに出てきた自分が象徴的に思えてきました。
身なりを正すには、着替えて出直してくるのではなく、今着いるシャツをひっくり返せばよいだけです。
どこかに行って、「きちんとした身なりとは何でしょうか」「どこへ行ったらその服は手に入りますか」と尋ね、お金を出してその服を買い、朝家を出る前に鏡に映した自分の姿を何度もチェックして、漸く教会に向かうなんてことをしなくてもよいのです。
自分のなかにある悪をひっくり返す、それは自分でやることはほんの少しで、神に対してそれを普段から願っている人に対し、神が行ってくださる御業なのかもしれません。
そう思ったのは、福音朗読の中に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」という言葉があったからです。
私は最近自分のではなく他人の幸福を祈っている時、このことを強く感じています。
祈る対象の他人の向こうに、神さまがいると感じるからです。
それは法華経のなかに登場する常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)のような境地かもしれません。
彼は、「私はあなたを敬います。決して軽蔑しません。なぜなら、あなたは修行をして仏様になることが出来るからです」と礼拝して歩き、人々から石を投げられたり、はずかしめられ打ち据えられたりするとその場を逃げ、離れた場所から再び同じ言葉を繰返し、礼拝を決して諦めようとはしなかったといいます。

ああどうしようと悩んでいて、気がついたらミサも後半に差し掛かっています。
さすがに裏返しのシャツのまま聖体拝領を受けるわけにもゆかないので、神父さまがパンを取りに壇上から降りた瞬間にあわせて、トイレが我慢できないような感じで合掌したまま小走りに聖堂から出て、物陰で急いでシャツを表に直して、また合掌したまま元の席に戻りました。
「その調子で」というイエスさまの声が聞こえたような気がして、パンを口にした途端に感謝の念にジワリと来る自分を感じました。
実はこの日のミサの後に、自分の人生の中でかなり大きな出来事がありました。
このミサの一カ月以上前から伏線はあったのですが、その一日を振り返ってみると、このシャツを裏返しにしたまま寝ぼけ眼で教会に向かうことから始まった日は、私にとって生涯忘れ得ぬ日になりました。
なかなか全部を書けないのですが、これは神さまとの関係を考えるときに外せない出来事なので、また改めて。
(おわり)