シャツを裏返して着たままミサに出てしまいました(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(今回は教会の行き帰りのスナップです)

先日、ミサの最中に着ていたポロシャツの裏表が逆さまなのに気が付きました。
どうも襟がおかしいと思っていたのに、家から教会まで自転車で走ってきているせいか、一向に気付かなかったのです。
わたしは冬の長袖を着る際にはさすがに裏表を間違えて着るということはないのですが、半袖シャツ1~2枚の夏場に、たまにこういうポカをやります。
目が悪いので、コンタクトを入れる前に着てしまうと、気が付かないままになってしまうのです。
その少し前にも、1番電車に乗ろうと武蔵中原駅までブロンプトンで走って行き、畳んでカバーをかけて改札をぬけ、ホームにあがってからふと見るとシャツを裏返しに着ているのに気が付き、週末の早朝で人がいないのをいいことに、停車中の電車の片隅で着替え直したことがありました。

わたしはもともと服装にそんなにこだわりがありません。
こだわりすぎるのも問題だと思っているからです。
子どもの頃から、周囲の大人の中に「他人の眼に自分の容姿がどう映るか」ばかりを気にするあまり、自己の内面に全く関心が無いから相手の内心にも無頓着、或いは腹の内は意地悪だったりする人を身近に観察していたものだから、その容姿のままで相手を陰で蔑んだり、見下したりする人たちを見てしまうと、「人間はいくらお金と時間と手間をかけて努力し、外見を美しく、魅力的に飾り立てたとろで、肝心な中身が空っぽだったりよろしくないものでいっぱいだったりすると、どこかにその空虚さや底意地の悪さが漂ってきて、本人の気付かないところで相手に悟られてしまう、相手が人の見てくれや肩書よりも、心の中身を読み取ろうとする人だったらなおさらだ」ということを感覚で理解していました。
いまはそのまま放置してしまうと、年をとった時にもはや隠し立てすることもなく、堂々とそのよろしくない内面が出てきてしまうと感じています。
自分としては、そうなる前に中身をきれいにしておく方が喫緊の課題です。

なお、外見にこだわる人というのは、そばにいる身近な人にも同じように身なりをきちんとするように求めがちです。
幼稚園児のころ、長袖のカフスについているボタンが自分ひとりでは留められなくて、家族から怒られてトラウマになったことがあります。
ずっと後になって幼児教育の専門家から、運動発達能力の観点からいうと、学齢前(3~5歳)の幼児が片手でカフスのボタンを留めるのは不可能」という話をきいたとき、あの場面は袖のボタンを子どもにひとりで留めさせようとする大人の側が無知だったのだと気が付きました。
そこで幼い自分に不可能なことを強要し、ひとりでできないと怒った家族に恨みを抱えるのではなく、自分もまた幼い子どもに同じようなことを強いて傷つけたことがあるかもしれない、と振り返るのが、自己の内面をいつも点検しているということだと思います。

もちろん、わたしはだらしない格好のままで構わないとまでは思ってはいません。
相手に不快感を与えるような服装や身なりは、病気や貧困など特別の事情が無い限りは、最低限避けるべきですし、お風呂に入ったり、歯を磨いたりするのは、自己の健康のためでもあります。
それは虫歯で歯医者さんに行った時に、歯をちゃんと磨く習慣のない人と認知症との関係を示唆されて、震えあがったのと同じです。
そのまま認知症になったら、歯磨きも自分ではできなくなってしまいますから。
もっともその頃には総入れ歯になっているから関係ないよというお年寄りもおりますが。
しかし、日常場面だけではなく、人前に出るような社会的な場、たとえば冠婚葬祭のような場面でひとりドレスコードを守らないとか、教会のミサに出る時だって半袖は暑いから仕方ないにしても、襟がついている、なるべくコマーシャリズムにのっていないシャツを選択していますし、下半身が短パンにサンダル履きなど、神さまと二人きりになる時間に相応しくないのは理解しています。

また、服装や格好が人格をつくるということも承知しています。
「学校の制服を着ている間は、その学校の生徒だと外に明かしているわけだから、その名に恥じないように、街中でおかしな行動はとれない」と順当なら考える(逆張りする生徒さんもおります)でしょうし、制服のある職業についているひとを観察すれば、その服を着たときには顔つきだけでなく動作が変わるのにも気が付きます。
私だって学生の頃スキー場でスキーウェアに身を包んでスキーを履いてゲレンデにたつとひと回り大きく見えるといわれ、アルバイトのスキー学校のウェアを着込むと顔つきまで変わると言われておりましたし、会社勤めの際に添乗の仕事に入って、背広に会社のネーム入りバッジをつけると、海外などではとくに頼もしいと言われておりました。
自分としては、スーツ着ててもバックパック背負っていても、国内海外に関わらず、見知らぬ土地を訪ねている際は、それなりの矜持をもっているつもりですが、やはり仕事となると、その上に他者(お客様)に対する責任がのっかってきますから、どうしても緊張感を持たざるを得なくなるのです。
ということで、実は内心ではヒヤヒヤしていました。
お寺で働いていたら、住職ではなくても仏教の教えについて考えますし、お年寄りや死者達と接してばかりいると、「どうしたら幸せに歳を重ねることができ、その時がきたら喜んで神の御許に帰ることができるだろう」と考えるのと同じです。
だから、服装が人格をつくる面があるというのは、至極もっともだと思います。

しかしそこは人間です。
四六時中外面を気にして生活するわけにも参りません。
知り合いの家族に定期的にテレビに出ている人がおりまして、番組ではスーツを着て髪もきちんとセットして座っているのに、休みの日にその子の家に遊びに行った時は、ステテコ姿で猫を抱いて「いらっしゃい」と玄関を開けてくれる姿に、思わず息を飲んでおりました。
咄嗟に落差が受け入れられなかったのです。
また、中学校の同級生の中にもテレビに出ている人がいて、学校で会う時は制服を着ていない(女子には制服がなかった)のに、ブラウン管の中ではきちんと制服を着て中学生をやっているものだから、あれではどこまでがお芝居いで、どこからが実生活か、試聴しているこちらに区別がつかなくなりそうで、その人と学校で接する時は(本人はちゃんとついていたと思います)なんだか居心地の悪いものを感じていました。

しかし、そうして考えると、身なりのきちんとした人と、だらしのない人の二種類の人間が居るのではなく、ある場面やある状況においてはきちんとした姿をしている同じ人間が、別の場面では容姿にこだわらない、力の抜けた姿勢でいるというのが真実ではないでしょうか。
休みの日にたんに自然体で過ごしているだけであれば、毒にも薬にもなりませんが、そこできちんとした人を演出するために、よそではバランスをとっていると大変です。
もし抱えている責任が大きければ大きいほど、対するバランスをとるための「重石」もつり合いをとるためにそれだけ大きくなります。
内弁慶などというかわいいものではなく、他所の人の前では精いっぱい「善い人」を演じ、家に帰って家族の前では「暴君」に変身する人というのをあちこちで聞いたことがありますが、仮に善人を演じるために、暴君の自己を家で野放しにしているのであれば、それは身の回りの人にとってDV以外のなにものでもありませんし、そうした人を周囲が注意して止められなかったとしても、そのひとの犠牲者でこそあれ、積極的な共犯者とはなり得ないのではないでしょうか。

また本人がそうしたDV(虐待行為)への忠告に耳を貸さないために、身内や組織内から外部にたいして告発の声をあげても、当人が外では「経験も実績も名誉もある善い人」で通っているのなら、「まさかあの人が」と誰からもその声を信じてもらえないでしょうし、むしろ「その人の評判を落とすことで辱め、貶めようとするとんでもない人」として認知され、当人からも世間からも「裏切者」として復讐の対象になってしまいます。
そこでお給料をもらって働いていたりすれば、生殺与奪の権利を握られていることになりますし、もしその組織から追われるようなことになれば、その業界では働けないでしょう。
それに、たとえ犯罪行為の告発であっても、告発者として世間に認知された人というのは、信用を失うときいています。
そして家族などが居れば、そんなに簡単に今の仕事を放りだすわけにもゆきません。
だから、当人の裏の顔を知っていたのに放置した、むしろ隠匿に協力したなんて、当人の周囲を責めるのは、私には少し酷なように思えます。
私も以前は共犯者だと思っていた人が、実は犠牲者なのではないかと思うことが多くなりました。
そういう生き方しかできなかったというのであれば、その人の人生を他人が取って代わることはできないのですから、回心したい、回心しようという人には「これからはもうしないように」としか言えないように思います。
(その2につづく)