旧甲州街道へブロンプトンをつれて 9.府中宿から10.日野宿(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(下河原緑道)

旧甲州街道の旅は、府中宿の西端、下河原緑道と交差する地点からはじめます。
前回に少しだけ触れましたが、下河原緑道は旧国鉄下河原線の跡地に設けられています。
最終的に1976年に廃線となった下河原線は、1910年(明治43年)多摩川の砂利を採取・運搬する目的で、東京砂利鉄道として開業しました。
現在の西国分寺駅の東側で中央線と分岐し、現在の武蔵野線の北府中駅付近からこの緑道に沿って南下し、京王線をくぐり、南武線を跨いだ後、現在の中央自動車道の南、ユーミンの歌で有名なビールを醸造する工場の南西付近から西へとカーブして、京王線中河原駅の東、現在の府中市立第3公園(下河原八幡神社)のあたりにあった、砂利積み込み用の下河原貨物駅まで伸びていました。
多摩川の砂利採取は江戸時代から行われていましたが、大正時代になるとコンクリート骨材の材料として需要が伸び、とくに関東大震災からの復興需要によって、既に枯渇して下流域から中流域に移っていた採取場も、さらに上流方向へと遡る勢いでした。


しかし、河川の砂利採取は護岸堤防の破壊による水害の惹起や河床面低下による取水難、水質汚濁によって生態系が破壊され、漁業面での悪影響など、様々な弊害をもたらします。
結局この地域の砂利採取が制限されたことから、1920年に国鉄が下河原線を買収した翌年の1921年に下河原駅は廃止となります。
1934年に東京競馬場が開業すると、それに併せて現在の府中本町駅の西から東方向へ分岐して南武線の線路と交差する地点付近まで支線を伸ばし、東京競馬場前駅を開業させて競馬開催日に限って旅客輸送をはじめました。
その後戦争による旅客営業休止と東芝工場への工員輸送に転換した時期をはさみ、戦後は砂利採取も含めて再開したものの、1959年には砂利採取が終了し、1973年の武蔵野線開業にあわせて武蔵野線に編入されたあと、1976年に正式に支線として廃止しています。
多摩川の水害というと、岸辺のアルバムの題材となった1974年の災害が有名ですが、あの時は家が流されただけでなく、その上流の二ヶ領宿河原堰を爆破しているそうです。
これも砂利を採取し続けてきたツケだったのでしょうか。

(三千人塚)
せっかくですから下河原緑道に入ってみましょう。
左折して南の多摩川方向へ下ってみます。
鉄道の廃線跡を自転車で走るのは、気持ちの良いものです。
道路と違い、勾配も緩めで幹線道路や他の鉄道線、河川などにはきちっと架橋されたり、隧道で下をくぐったりしているからです。
旧甲州街道とは、貨物線ということもあっておそらく踏切で交差していたのでしょう。
とくにここ下河原緑道は、廃線跡を自転車ゾーンと歩行者ゾーンにきっちり色分けして分離しています。
廃線跡は小河川の暗渠とは違い、幅広だからこんなことができるのでしょう。
先ごろ廃線跡を歩道にして、「自転車は一律押し歩き」としている横浜市とは大違いです。
東横線の廃線跡は複線だから幅が充分あるにもかかわらず、門まで設けています。
あれではいくら通り抜けられるトンネルであっても自転車は国道を迂回します。
横浜駅周辺は幹線道路が複雑に交差し、かつ交通量も多く、横断できる箇所も限られているのに、駅は押し歩きでも自転車で通路を通過することが禁止され、山下公園をはじめとする公園内も走行禁止になり、廃線跡の歩道からも締め出しでは、市は自転車排除に取り組んでいるようにしか見えません。
私がブロンプトンで横浜駅や港まわりに以前ほど近づかなくなった理由も、そこにあります。

(甲州街道沿いの高安寺入口)
下河原緑道を690m南下して、右方向に分岐する東京競馬場駅方面への支線跡の緑道に入り、左方向へカーブしながら220m進んだ先で芝間通りと交差する光明府中南保育所前信号で右折、100mほど通りを南下した左側にあるのが、三千人塚です。
1mほどの高さの盛り土に、榎が植えられて石の板碑が立っています。
1333年に起きた分倍河原の戦いの戦死者三千人を埋葬した塚といわれてきましたが、昭和の発掘調査で13世紀後半から14世紀前半の骨壺が出てきたことから、鎌倉時代後期の墓地と判明しました。
なお、板碑にある1256年は、多摩地域最古の記年銘だそうです。
下河原緑道へ戻り、本線を下河原駅方面へゆくと、府中市郷土の森博物館や旧府中町役場、府中まいまいず井戸(すり鉢状に彫り下げられた底に井戸があり、らせん状の小径を下って井戸に到達する形状から、カタツムリの殻に似てこの名前がついています)など見どころがあるのですが、あまり遠くまで行って寄り道していると先に進めなくなるので、旧甲州街道へ戻ります。

(高安寺山門)


下河原緑道との交差点から60m西に進んだ左(南)側にあるのが、曹洞宗の高安寺です。
もともとこの場所には平安中期に平将門を追討したことで有名な藤原秀郷が館を構えていて、その跡地を見性寺に改めたのがはじまりとされます。
荘園が増大し、それに伴って公田が減少したため国衙(国府)が衰退したのち、ここが府中宿の重要拠点となり、平家滅亡後に鎌倉入りを拒まれた源義経もここに立ち寄り、武蔵坊弁慶が主君の赦免を祈願して大般若経を写経したと伝えられ、その際に清水を汲んだといわれる弁慶硯の井戸が奥にあります(境内入口に石碑あり)。
南北朝時代には、新田義貞が本陣を構えるなどして戦火に焼かれたため荒廃していたのを、足利尊氏が建長寺の禅師を招いて龍門山高安護国禅寺という名前で開山したのが、高安寺のはじまりです。
武蔵国安国寺として室町幕府の手厚い保護を受けた高安寺は、一時は塔頭10、末寺75を数えるほどの大寺院になったそうです。

(高安寺本堂)

(弁慶硯の井戸)
現在の本堂は戦国時代に火災で失われたあと、江戸後期に建てられたものですが、同時期に建てられた山門と併せて、境内に入るとかつての多摩地域を代表する名刹の面影を感じられます。
歴史のあるお寺というのは、それだけ時間の積み重ねと、そこに関わった人々の想いが刻まれています。
訪れた日は風か強くて天気の良い日だったのですが、山門裏にある水子地蔵に備えられた風車が回る様子に、今を生きている生命の尊さのようなものを感じましたし、本堂へ続く参道にも、重厚で濃密な空気を感じました。
旧街道の旅をする利点のひとつは、たくさんの神社やお寺に触れることで、その目利きがよくなることで、府中宿に限っていえば、先を急いでいても手前の大國魂神社とここ高安寺だけは霊性を感じる場所なので、時間を費やしても立ち寄った方が良い場所です。

(弁慶橋碑)

(京王線踏切)
高安寺前の信号から50mさき右側には片町の碑があります。
ここは街道の北(右)側にしか集落がなかったから片町という名前になったとか。
その先旧甲州街道は緩い下り坂になりますが、この坂を弁慶坂と呼びます。
高安寺前から200mで片町2丁目交差点(信号機あり)を過ぎ、その30mさきの右から道が突き当たるT字交差点の右にあるのが弁慶橋の碑です。
高安寺からここまで、弁慶伝説の跡が3つ続きましたが、けやき並木の入口に八幡太郎義家の像がありましたから、源義経の独断専行に業を煮やした頼朝の怒りを解くべく、源氏の祖先の中では武勇誉れ高い源義家にあやかって赦していただきたいということなのでしょう。
この弁慶橋の碑から旧甲州街道はゆるい登りに転じ、130mさきで京王線の踏切を渡ります。
線路の左手120mさきに見えているのが、京王本線の分倍河原(ぶばいがわら)駅です。
崖線下に南武線の駅があり、ここは京王本線が新宿を出てはじめて交わるJRとの乗り換え駅です。
「分倍」って変わった地名ですが、由来は後述します。
このあと、京王線は南下して多摩川を渡り右岸を遡るので、甲州街道とはいったん離れます。

(元応の板碑)
踏切から320m先の美好町3丁目西信号を左折して、分梅通りに入り多摩川に向って坂を下ってゆくと、340m先右側に八雲神社があります。
神社手前の角には元応(げんおう)の板碑があります。
鎌倉時代中期から室町時代の末にかけて、府中では埼玉県北西部で産出される、このような緑泥片岩を板状に加工した供養のための塔婆がさかんに建立されました。
この板碑は、1319年に大蔵近之という人物が父親の十七回忌のために建てたもので、この石碑は府中市内でも最大級だそうです。
八雲神社の入口には陣街道の碑もあります。
同じく中世の頃、今の分梅通りは北関東と鎌倉を結ぶ主要路で、軍勢が陣立てして往き来したことからこの名前がついています。
なお、八雲神社の周りには首塚、高倉20号、天王塚、高倉塚などの古墳が点在し、この多摩川中流域の河岸段丘には古くから人が住んでいたことを示しています。

(分梅の碑)
八雲神社の40m南で分梅通りは南武線を踏切で渡ります。
さらに緩い坂を下ってゆくと左手にあるのが真言宗豊山派の光明院です。
光明院のすぐ南、分梅駐在所交差点の向こう左側にあるのが、分梅碑です。
分梅という地名の由来は定かではありませんが、古くは「分倍」や「分配」の字が使われ、「ぶばい」ではなく「ぶんばい」と呼ばれていた時期もあったそうです。
この辺りは多摩川の氾濫によって収穫が不安定なため、民に対して田んぼは普通の倍の広さで支給したからとも言われています。
さらに分梅通りを南下すると、270m先の中央道をくぐる手前の分梅町二丁目信号を右折し、側道を西へ460m行ったところの右側、真言宗正光寺にあるのが、小野学校発祥の碑です。
明治6年(1873年)に付近4つの村が合同して育幼学舎という名の学校を設立。
翌年小野学校と改めて子どもの教育にあたりました。
同校は現在の府中第5小学校の前身です。

(小野学校発祥の碑)

正光寺の前のくすのき通りと呼ばれる側道をさらに西へ180mすすみ、次の信号を横断して中央道の下をくぐり、抜け出た突き当りを右、左の順にクランクして曲がると、すぐ左手に住吉町第2地域公園があります。
公園の中にある小野神社が、前回大國魂神社のところでご紹介した、その当時の武蔵国一之宮の小野神社です。
拍子抜けするくらい小ぶりで簡素なつくりに、ここが武蔵国の一の宮?と感じてしまいます。
実は多摩川の氾濫により遷座を繰り返したため、いつのまにか多摩川対岸の聖蹟桜ヶ丘駅の北西、多摩市内にある同じ名前の神社と、2社に分かれてしまったそうです。
(写真で見る限り、多摩市の小野神社の方が朱塗りの社殿が杜の中に鎮座していて立派です)
そして、左岸では近隣にあたる大國魂神社の方が有名になるにつれ、此方の「元一之宮」さんは衰退していったのだとか。
やはり格式だけではどうにもならないということでしょうか。

(小野神社)
分梅町二丁目交差点に戻って中央自動車道をくぐり、分梅通りを110m南下した、新田川緑道と交差する信号を左(東)に30m入ったところにあるのが、分倍河原古戦場の碑です。
分倍河原の合戦は、鎌倉後期の1333年5月、上野国生品明神(現在の群馬県太田市にある生品神社)で鎌倉幕府打倒の旗揚げをした新田義貞と、これを迎え撃つべく鎌倉を出撃した北条泰家率いる幕府軍との間でおきた戦いです。
新田軍は地元を出立する時には僅か150騎ほどだったのが、南下するうちに上野だけでなく、下野、上総、常陸、武蔵などの幕府に不満を持つ武士が加わり、20万7千までに膨らみました。
幕府方は敵を過小評価して当初3万の軍勢で北上してこれを鎮圧しようとしましたが、小手指原、久留米川の戦いでそれぞれ敗れ、本腰を入れて討伐すべく、新たに15万の兵を鎌倉から送り、多摩川を背にして陣を敷きました。

(分倍河原古戦場碑)
度重なる勝利で慢心の出た新田軍は、増援を得て士気のあがっている幕府軍に休息をあまりとらず5月15日に攻撃をかけましたが、今度は新田方が相手の数を侮っていたために返り討ちに遭い、義貞は総崩れになる直前に、手勢600騎を率いて敵中を突破し戦場を脱出しました。
このとき、幕府軍は追撃をしていれば義貞を討ち取れたはずなのに、それをせずに逃げる彼を傍観するだけでした。

幕府方から見れば反乱軍とはいえ、元御家人の身内ですから、義貞が改悛して矛を収めるのではないかと期待したのかもしれませんし、逆に反逆者など放っておいても再起不能で野垂れ死にするから構わなかったのか、どちらなのでしょう。

『太平記』あたりを読めばこの辺の事情がつかめるのでしょうか。
その晩、幕府方の三浦党の加勢(要は新たな離反者)を得た義貞は、忍びを使って明朝さらに援軍が到着する予定との虚報を幕府方に流し、これを信じて油断していた敵に16日早朝に奇襲をかけ、見事幕府軍を打ち破って敗走させたということです。
その後討幕軍は追撃の手を緩めずに鎌倉街道を南下、2日後の18日には鎌倉に攻め入って、北条泰家の兄、鎌倉幕府第14代執権の北条高時を同月22日に自刃に追い込み、ここに頼朝から続いた鎌倉幕府は滅亡します。

(府中宿矢島本陣移築門)
これ、野球に例えれば大差のまま9回ツーアウトまで追い込まれていたチームが首の皮一枚で凌いだその裏に、相手チームの知り合いで手の内を知っている強打者たちが次々と代打に入って相手のクローサー投手をめった打ちにして点を重ね、二度と野球ができないくらい完膚なきまでに叩き潰してしまったようなものでしょう。
現在の分倍河原駅前には、一旦は離脱したものの、翌日逆襲に転じて勝利を収めた故事にちなみ、新田義貞が馬上で「いざ鎌倉へ」と言わんばかりの像がたっています。
旧甲州街道美好町三丁目西交差点に戻り、140m西へ進むと府中宿の矢島本陣にあった表門が移築されて現存しています。
そこから250m進んだ本宿町交差点で、旧甲州街道は右手から来た国道20号線と合流します。
次回はこの本宿町交差点から続けたいと思います。


(本宿交差点)