脱ブロンプトン生活の危機を経験して(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(その1からのつづき)

ブロンプトンは週末利用のみにして、平日の通勤は時間的、経済的な理由からハンターカブ中心にシフトする。
秋の爽やかな気候に誘われて、そして両理由から安きに流されてそのように移動手段を変化させてみたところ、最初は微妙な、つぎには顕著な、そして最後には看過し難い生活上の変化が訪れましたので、今回はそれについて書いてみたいと思います。
まず現れたのは、冒頭からしもの話で申し訳ないのですが、便通です。
そう、お通じが硬くなったり柔らかくなったりと、不安定になってしまったのです。
朝一番に下半身を動かして有酸素運動するブロンプトンは、胃腸にも働くのか便通もいつも同じ時間、同じ量だったのに、オートバイを朝一番で使う平日を中心に、なかなか出にくくなってしまい、量も少量になってしまったのです。
週末は反対に、平日と同じ時間に起きてお散歩や小旅行に出ようとしたところ、こんどはお腹が痛くてトイレに行ってばかり。
神経性の下痢に陥ったかのような状況です。


これはどういうわけだろうと考えてみるに、食事のごく僅かな変化が影響しているのではないかと考えるようになりました。
オートバイで出勤した日の朝食は、こちらもほんの少しだけですが、同じものを食べていても美味しくないのです。
掃除などの活動したあとの昼食は変わらないのですが、朝食は微妙に味気ないのです。
(もちろん味覚障害などではありません)
そして夕食ですが、ブロンプトンで帰宅したほうが食事は進むかと思いきや、その逆でした。
駅から4キロ以上を有酸素運動して帰宅すると、簡単なもの、たとえば栄養飲料やバランス栄養食ひとくちなどを口にしただけであとはもう要らないとなり易いのです。
お腹に殆んど入っていないのですから、当然に就寝時間は30分か1時間ほどですが早くなり、寝つきもよくなります。
考えてみれば、お腹が空いて眠れずに夜中に起きてしまうなんてことは、30代後半になってからあとでは一度もありません。
だから、夕食は食べないか、たべても胃での消化に影響が無いくらいの量にして、全く問題ありません。
これに対しオートバイで帰宅すると、最初はパンひとつ、おにぎりひとつだけですが、どういうわけか小腹が空いているために口に入れてしまうのです。
そのようなものだけを買うために、平日の帰途にバイクを停めてヘルメットを外してまで、毎日スーパーやドラッグストアに立ち寄るのはおかしいのですが、ともかく少しでも何かを口に入れないと気が済まないのです。

そうなると、若い頃より弱くなった胃はなかなか消化してくれず、眠るのも遅くなります。

私はこの現象を個人的に「精神的渇望が身体的な渇望に転化した」と考えているのですが、渇望というものは、当初こそ微笑ましいものでも、放置しておくとやがては自分では制御できないリヴァイアサン(怪物)に膨れ上がってゆきます。
食料品の購入数が「せっかく立ち寄ったのだから明日以降の分も買っておくか」という自己に対する言い訳で、数日後には2個になり、2週間後にはれがn個となり、そのあとにお菓子まで買って食べるようになりと、私が摂食障害者だったら彼らのいう「ブレーキが利かず止まらなくなってしまった」状況に陥ります。
依存症のことを知っている人ならお分かりかも知れませんが、こういう状況になったら強靭な意志を動員しても、夕食の食べる量を段階的に減じることなどできなくなり、大量に食べるか、何も食べないかの二者択一状態になります。
こうなったらもう、節制、禁断、暴発、依存という無限ループを堂々巡りすることになります。
この「負の環」は平面的ではありません。
つまり依存の中身に対して質的、量的に耐性がついてゆくので、より悪い、より量の多い慰めが必要になるため、際限なく下方向へと堕ちてゆく下降ループなのです。                                                                     
もちろん、それに伴って就寝時間もどんどん深夜化してゆきます。
それでも3時半に起きるために、ショートスリーパーではない私は22時過ぎまでには眠らねばならないわけですが、無理に床に就いてもこんどは夜中に目が覚めたり、眠り全体が浅くなったりという副作用が現れます。


それから、平日のオートバイ通勤は読書の質と量も落とします。
電車の中で読めないからではありません。
仕事の往き帰りの電車内では、むしろ寝ていることのほうが多いのです。
朝の通勤時、前日の徹夜で泥のように眠っている人に混じって私も必死に目を閉じて、下車駅に着くころにウトウトする程度ですが、ほんの僅か寝入っただけで、そのあとお昼まではすっきりした頭で活動できます。
(お昼ご飯を食べた後のギャップがすごいですが、許されるなら15~20分程度の昼寝をしたいところです)
そして復路の電車は帰宅ラッシュ前ということもあり、こちらはよりぐっすりと眠って下車駅ですっきりと目覚めたあと、ブロンプトンで走りながら頭の中に酸素を入れて帰宅すると、中身の濃い読書ができるのです。

どうも電車を待っている間などの細切れの時間の読書が、帰宅以降の深い読書の呼び水にもなっているようです。

続きが気になって家に帰って即本を読むなんてことは、学生時代以来です。

これに対しオートバイで向うと居眠りなど絶対にできない状況のまま仕事に入ります。
すると、身体を全く動かしていないせいか、目覚めて2時間以内で体は覚醒しているのですが、1時間道路を走ってきて精神的に少し疲れている状態ではじめることになります。
こういうときは、ブロンプトンプラス一番電車で来るよりも、同じ時間に出て15分、30分と早く到着するので、その間意識的に体をよく動かすようにして、バランスをとるようにしています。
問題は帰りです。
朝のように空いてはいない、しかも平日の、さまざまな立場で走っている車やオートバイと併走してきてハンターカブで帰ると、仕事の疲れも手伝って文字通りの“exhausted”状態になります。
オートバイや車が排ガスを出すからといって、自分まで生暖かいため息を吐くことはないのに。
そんな状況で読書をしても、本の中身はあまり自分の中に入ってきません。
字面を目で追っているだけで、何も心に響かないのです。
こういう読書は無駄だなと感じ、ブロンプトンに跨って外へ出られればよいのですが、オートバイという楽ちんな乗り物で漸く帰宅したのに、なんでわざわざ目的も無いままこれから有酸素運動に出なければならないのか、自分で自分に説明がつけられず、もちろんそんな気にもなりません。
(夕焼け雲を見に行くとか、オートバイで寄れなかった駅ビルの本屋さんに行ってみるとか、思い切って用事を無理やりつくってでも出かければスッキリするのは承知しているにもかかわらずです)
こんなことを繰り返していると、気がついたら本を閉じてスマホをいじったり、ブログを書くつもりでネットサーフィンしたりしている自分が登場します。
これは上述の摂食行動同様、質的にも量的にも負のスパイラルに陥ったというサインです。


食事、睡眠、読書の全てにおいてこのような状況になると、今の状態は良くないどころかどんどん悪くなっていると自己で認識しているにもかかわらず、とんでもない急坂を自転車で下るように、もはや自分の意思ではブレーキをかけて停止することができません。
それに「経済的には助かっている」「もっとお金をセーブできる」というエクスキューズが加わると、鬼に金棒です。
さらに秋から冬にかけて、どんどん気温が下がってくるため、より食べたく、より眠たく、より読書できなくなる状態が、耐性がついてゆくことと相まって加速してゆきます。
そして、どんどん体内脂肪がついてゆき、体重が増えてゆき、お腹が出たままオートバイに跨るオッサンに向ってまっしぐらという気がしてきます。
これは例の「もっともっと」という渇望の病に他なりません。
もちろん、休日にはちゃんとブロンプトンで都内や横浜を往復し、或いは旧街道をお散歩したり、時には峠越えをしたりもしているのですが、その際ですら以前より体重が増え、筋肉が落ち、以前よりもはやくに息があがってしまう自身を発見してしまいます。
つまり、週末だけブロンプトンに乗って、平日は仕事だからと合理的選択を優先させていたのでは、必要な運動量が賄えないのです。
旧東海道を歩いたときも、月イチの30km歩行ではダイエットに資するどころか、逆に食べすぎで太ってしまったり、足を悪くしたりしたように、週末の小径車散歩では運動の上昇スパイラルにのるには程遠いのです。
さて、いよいよ私も老いとともにこのまま糖尿病や神経性疾患への道をまっしぐらに駆け下るのか、それともどうにかして週のうち4日以上はブロンプトンに乗って最低10km以上は走る生活に戻すのか、戻すとしたら、どこを突破口にして引き返すのか、続きは次回に持ち越したいと思います。

(その3へ続く)