今年もやってくる洗礼を受けてからのクリスマス | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

明日はクリスマスイブですね。
カトリックではクリスマスを主の降誕と呼び、夜半のミサ、早朝のミサ、日中のミサと計3回行えるみたいですが、私が通っている教会は24日の夜半と25日の日中ミサの2回のようです。
ふだんから日曜日の主日ミサは8時からと10時からなので、前者は早朝ミサと呼べなくもない気がします。
私は学生時代から朝の礼拝が好きでした。
清々しい空気の中、聖山と呼ばれる丘に立つ礼拝堂まで小走りに歩いていって、一番最初に習ったメンデルスゾーンの曲を編曲した「朝風しずかに吹きて…(むかしの30番、いまは211番)を合唱していると、信仰など関係なしに「美しい朝だな」と感じたものです。
今の教会も、朝8時からのミサはステンドグラス越しに入る光の斜角が時を経るごとに変わるので、その変化を視覚的に楽しんでいます。


教会でなくて神社やお寺でも、早朝の参拝は良いものです。
私が6時の鐘を撞いている際、一打毎に一緒に合掌してくださる方がいらっしゃるのですが、まさに「身口意をともに清めて鐘の音にのせて心をおくる」という雰囲気になります。
旧街道を歩いたりブロンプトンで走ったりしているときも、早朝の神社やお寺、教会には、うまくことばでは表現できませんが、厳かであるけれど昼間や夕方にはない、ひとをひきつけるなにかがある気がします。
ただ、ことクリスマスに限っていえば、世間では24日夕方から晩にかけての、キャンドルを灯した(朝でも昼間でも灯しますがね)あの雰囲気でミサなり礼拝に出席し、クリスマス・キャロルを聞くのが、いかにもクリスマスを盛り上げてくれる行事として映っているようです。
バブル真っ盛りのころ、四谷にあるイグナチオ教会の前は元旦の初詣なみに混んでいたときます。
とくに未婚のカップルが多かったのは、イブが「聖家族」を連想するからなのでしょう。


明仁上皇と一日違い、すなわち今年で89歳になるクリスマスイブ生まれの老人とお話ししましたが、ご自分の誕生日がキリストと一緒だなんて、子どもの頃は全く意識していなかったそうです。
それどころか、サンタクロースという言葉さえ知らなかったそうです。
クリスマスが今のように世間に浸透したのは日本が戦後の独立を果たした昭和30年前後以降のことであり、それは占領軍が垣間見せた民主主義の豊かな生活に憧れる日本人の心に、経済成長期にあった企業がコマーシャリズムにのって、欧米同様のクリスマス商戦で訴えかてモノを売ろうとしたからだといいます。
たしかに、日本のクリスマスはイエス・キリストよりもサンタクロースの方が主役の感があります。
実際にヨーロッパのクリスマスを経験したことがありますが、日本のようにトナカイやサンタさんが前面に出ているということはありませんでした。
そしてクリスマス商戦も23日までで、24日になったら商店はおろか、売店や駅のスタンドまで見な休みになってしまうのに閉口しました。
日本のように、「皆が休んでいる今が商機だ」などというお店はどこにもなかったのです。
世俗化したとはいえ、それだけキリスト教に対する姿勢が違うのでしょう。
だから、とくにキリスト教文化圏の外国語を学ぶのなら、キリストの降誕と、逮捕から死、そして復活の場面だけは、教養として知っておいて損はないと思います。


キリストの誕生場面については、聖書を読んでいなくてもご存知の方は多いと思います。
私も小学生のときに『キリスト』(山本藤枝著 子どもの伝記物語 ポプラ社)を読んで、概要は知っていました。
ヨセフは婚約者マリアの妊娠を知り離縁しようと考えていたところ、夢に天使が現れてその理由と意味を伝えたこと。
最初に救世主が現れるというしるしが現れたのは羊飼いたちに対してだったこと。
ローマ皇帝の命令により住民登録をしにナザレからベツレヘムに行った際、月が満ちてマリアが産気づいたものの、宿屋には適当な場所が無かったので厩での出産となり、赤子は飼葉桶のなかに寝かされたこと。
東方三博士の礼拝と、ヘロデ王の虐殺を免れるためのエジプト避難などなど。
キリスト教文化においては誰もが知っているこの話のなかで、最後のヘロデ王の幼児虐殺のくだりは、子ども心にはもっとも恐ろしく感じられました。


将来自己の権力基盤を揺るがす恐れがあるからといって、同じ年齢の子どもを皆殺しにするなんて、権力者の欲望はどこまで深いのだろうと思ったものです。
もっとも、日本でも敗者側の落とし胤は、仏門に入らないかぎり、後顧の憂いを絶つために殺されたといいますから、そんなに特異な話ではないのかもしれません。
たしかその本には「国中の2歳以下の男児を皆殺し」と表現されていたのですが、この記述があるのは聖書の3共観福音書中、マタイによる福音書だけです。
一説には、これは旧約聖書にある出来事と整合性をつけるための記述者の創作ではないかともいわれています。
しかし、国中の幼児というのは誇張で、当時のベツレヘムは人口300人程度で、その街の幼児を全員殺したとしても、多く見積もってせいぜい20~30人。
当時の専制君主はもっと残酷なことをしていたので、取るに足りないこととして記述されなかったのではという説もあり、どちらにしても権力者からは嫉妬の対象になって歓迎されなかったみたいです。


ところで、若松英輔著『イエス伝』によれば、上述の聖書における場面訳はかなり西欧化された解釈が入っているそうです。
たとえば「宿屋」にあたるギリシャ語(カタリュマ καταλυμα)は商業的宿泊施設を意味することもあるものの、主意は個人宅の客間を指し、当時のパレスチナでは人畜同居が基本だったので、客間の隣の居間に家畜が居るのが普通だったそうです。
それは、日本であれば会津の曲屋のように寒い冬に動物を人間の住む家に同居させることによって、牛や馬を寒気から守るのと同時に、彼ら動物の体温で屋内にぬくもりをもたらすようにという工夫でもありました。
ということは、上記イエスの誕生場面は、宿屋の部屋が空いていなかったら厩で出産したのではなく、客間が塞がっていたので居間でその家の家族や家畜が見守る中で産まれたという解釈も成り立つそうです。
そう考えると、イエスの誕生の情景はうら寂しい馬小屋から、賑やかな団らんの居間へと一気に転換してしまいます。


たしかに人類の救い主キリストは羊飼いなど貧しく身分の低い人たち、取税人や娼婦、罪人など虐げられた人たちのために生まれたと同時に、裕福な人たちや、三博士のような賢者のためにも世に遣わされたわけで、誕生時の逸話からして逆境のような雰囲気を強調する必要は無いのだと思います。
マリアの夫ヨセフは、ダビデ王の血筋は引いているけれども、大工という職人であり、家の経済状態も上流でも下流でもなく、きわめて平均的な普通の家で、そういう意味ではイエスも天使のお告げや様々な人たちにあらわれたしるしがなければ、旅先で急遽産まれた普通の赤子だったのだと思います。
この辺り、お釈迦さま誕生時の伝説と比較してみると、何やら面白いかもしれません。

世間では「サンタさんへのお願い事」という話題でブログを書いてくれなんて依頼が来ていましたが、キリスト教は(仏教も本来はそうですが)利益宗教ではありません。
人間個人の願い事など、所詮「試験に合格しますように」と祈願して受かれば「神さま(仏様)が願いを聞き届けてくださった」と感謝する人が居るすぐ後ろで、「あんなに一生懸命祈ったのに落ちた。もうあそこには祈願しない。」と肩を落とす人がいる、その程度のことです。
そんなことに巻き込まれた神さまや仏さまも気の毒です。
それに、神さまや仏さまは、あなたが彼らを必要としている以上に、彼らがあなたを必要としているというじゃないですか。
だったら、何か自分の希望をお願いするのではなく、相手に自分が何をして欲しいか訊く方が先ではないでしょうか。


キリスト降誕の物語を読んだ時は、聖書を読んでいなくても常識としてそれくらいのことは知っておかないと後々(とくに海外旅行をしたときに)困ると思う程度だったのですが、なぜこの弱々しく時の権力者によって亡き者にされかかった赤ん坊、それも2000年も前の9000㎞以上離れた土地の人が、のちに中学や高校で三浦綾子や遠藤周作の小説を読むうちに、だんだんと気になる存在になり、はては自分の罪を代わりに背負って十字架に架けられてしまった、「単なるお気の毒な悲劇の人」では無く、「死ぬまで借りがある人の子」になってしまったのかを、毎年のクリスマスイブにかみしめるように振り返っています。
賑やかな雰囲気で産まれたイエスが、フランスの宗教史家、エルネスト・ルナンが『イエスの生涯』のなかで描写したような、陽気で招かれた宴席には出て行って、そこにいる誰とも分け隔てなく接し、鼻持ちならない傲慢な偽善者たちへも、陽気な嫌味を返していたとしたら、なんだか昔の正月映画の定番だった、フーテンの寅さんみたいな側面もあったのかもしれないと思えてくるのでした。