旧東海道にブロンプトンをつれて53.大津宿から終点の京・三条大橋へ(その10) | 旅はブロンプトンをつれて

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三条白川橋から三条通りを旧東海道の終点、三条大橋目指して西へ向かいます。
橋を渡ったすぐ先は京都市営地下鉄東西線の東山駅です。
地下鉄になる以前、京阪京津線がこの三条通りを走っていた頃、東山三条と名乗っていたこの駅は、まるで路面電車の停留所でした。
道路から20㎝ほどの段差で1mもない幅のホームが2両編成分伸びており、京津線の車両は路面電車ではなく床面が高かったので、ステップがついていました。
京都市営地下鉄になって地下にもぐったのは1997年(平成9年)10月ですから、自分が旅行会社に居て、京都修学旅行の添乗に来ていた頃は、この道路上をキーキーゴトゴトと車両を軋ませながら電車が走っておりました。
横浜や東京では、路面電車をもうずいぶん前に見なくなって、都電荒川線や江ノ電の一部区間しかなく、しかも東山三条駅のような簡素な「電停」は荒川線でも見かけないので、京都に来た時は、昔の人間と電車がもっと近かった時代を思い出すとともに、三条通りの風物詩のようにみえたものです。


その東山駅の2番出口脇、三条白川橋から160m先右手(南方向)に伸びているのが、古川町商店街です。
ここは車が入れない細い路地に屋根の掛かったアーケード商店街で、200mさきまで抜けたところで白河疏水のほとりに出たところに架かっているのが、前回ご紹介した一本橋です。
一本橋を渡った先に知恩院の古門があり、そこから古門通り(華頂道)を東方向へのぼってゆくと、知恩院の黒門に突き当たります。
つまりこの古川町商店街は、むかし知恩院の門前町として栄えていたのです。
この古川町商店街、三条通りを挟んで北方向、古川通りを入ってゆくと、出町柳から若狭街道へとつながっていて、やはりその昔は日本海側の若狭から魚介類を運ぶ物流の道の終点にあたっていたため、鮮魚や塩辛、青果など食料品を商う店が多く、旅人に加え商人で賑わっていたといいます。


日本海側から京の都へ鮮魚を運ぶ街道は、鯖に塩をふって木箱に入れて運ぶ割合がもっとも多かったことから、俗に鯖街道と呼ばれ、西から周山(しゅうざん)街道、雲ケ畑街道、針畑越から鞍馬街道、若桜街道、そして琵琶湖の西岸を南下する西近江路と複数あるのですが、もとは鯖街道といえば、小浜から水坂峠を越えて保坂、朽木と過ぎ、安曇川を遡って花折峠を越え、三千院で有名な大原から出町柳へ出てくる若狭(若桜とも)街道のことを指したようです。
京都へ行くと、ついつい碁盤の目の中に興味がいってしまいますが、ブロンプトンでの峠越えが楽しくなってきた今日、こうした古い物流の道を自転車で辿ってみると、山の街道沿いに商人宿などがあったり、昔から鯖寿司を出し続ける店があったりと、面白いかもしれません。
但し、季節は春から秋までに限った方がよさそうです。
冬は通行止めになるほどの積雪量ですから。


そのまま三条通りを西へ行くと、すぐに東大路通(ひがしおおじどおり)と交差する、東山三条交差点です。
この東大路通が、いわゆる京都盆地の東端を南北に貫く大動脈で、ここ東山三条交差点から北へ行くと、京都大学のある吉田を抜けて百万遍から修学院、逆に南下すると八坂神社、大谷本廟、智積院などを左に見ながら、東福寺付近で西へ方向を変え、九条通りに接続しています。
自転車用のレーンはついているものの、交通量が多いうえに、路線バス、観光バスともに多く、週末など渋滞が激しく、小径の折りたたみ自転車で走るにはちょっと辛いものがあります。
ゆえにブロンプトンの場合は、北は鴨川左岸の川端通との間にある、柳小路通や鞠小路通、南は祇園で有名な花見小路を通った方が無難かもしれません。
これまで旧東海道を辿ってきて、ゴールの京都は三重県や滋賀県の田舎よりずっと大都会ですし、京都盆地は東西よりも南北移動の方が、迂回するバイパスが無いために、大通りが渋滞すると、これら小路にまで車が入ってきます。
つまり、自転車で京都を巡るには、地形や交通状況を勘案してかなり戦略的にコース取りをしないと目的地にたどり着けないうえに、その目的地もテーマや時代に合わせて取捨選択せねばならず、かなり旅のプロ泣かせの街でもあります。
修学旅行など、少子化ゆえに小グループで回るかたちに変わってきていますが、中高生がそのプランを立てるのは、かなり厳しいものがあると思います。


東山三条交差点を過ぎ、80m先の路地を左に入ったすぐのところにあるのが大将軍(たいしょうぐん)神社です。
素戔嗚(スサノオ)尊を主祭神として、桓武天皇が平安京を造営した際に、大内裏(=天皇在所=宮城)鎮護の目的で都の四方に配した同神社のうちの、東南角のものです。
三条口のそばで邪霊の侵入を防ぐという目的から重要視されていましたが、応仁の乱で荒廃し現在は東三條社という名前で再建されています。
つまり、ここが平安京の東南角だったということです。
三条通りに戻り、西に進みます。
東山三条交差点から左に花見小路通を分ける信号付きの交差点を過ぎます。
ここを左折して南下すると、祇園のメインストリートです。
京都の花街というと真っ先に浮かぶのが祇園ですが、五花街の残り4つを言えますか?
花見小路通を南に行って、四条通手前の左側が祇園東、そして右側と四条通の向こう側が祇園甲部、さらに南へ行って花見小路通りが尽きるところで右折し、鴨川べりにでてさらに南下したところに宮川町。
そして三条から四条にかけての鴨川右(西)岸沿いに細長く存在するのが先斗(ぽんと)町。
ひとつだけ離れて、碁盤の目の北西、北野天満宮の東にあるのが上七軒と、これで合計5つです。
昔は後述する色街とあわせ、もっとあったようです。


花街は遊郭の別称でもある通り、もとは芸者屋、遊女屋と呼ばれる今で言ったら女性派遣業を営む置屋と、料亭、待合茶屋(たんに「茶屋」とも)の三業が集まっているから、三業地とも呼ばれていました。
そして、かつては芸妓と娼妓の両方がいたものの、今は芸妓遊びのできる店が集まっている場所を指します。
芸者と遊女の違いは、前者は芸を売るのに対し、後者は色を売る、つまり性をひさぐということで明確に区別できるのですが、芸者の芸の中にはかなり下ネタ的なものもかつてはあって、それが誤解のもとだったといいます。
それに、芸者さんだって旦那衆との恋愛は自由ですから、情を通じることもあったでしょう。
行き当たりばったりのことを不見転(みずてん)というのですが、もうひとつ意味があって、お金の為なら誰とでも寝る芸者さんのことを指す隠語です。
旧海軍の対米戦決定の際の海相で、当時首相兼陸相の東條英機氏の腰巾着、男妾と呼ばれた方がいます。
その人が終戦後の東京裁判において巧みな弁舌で死刑を逃れ、終身刑判決を受けたものの仮釈放され、その後海上自衛隊の壮行会に出席し際、先日ご紹介した井上成美氏は、「不見転めが、恥を知れ」と激怒した話が残っています。
「ふーん、不見転って言葉、そういう使い方するんだ」と感心し、その後80代の方に「私は情にほだされると誰にでもついていってしまう不見転です」と話したら、「あんた、ミズテンなんて言葉よく知っているな。本当は芸者遊びしたことあるんだろ」とからかわれてしまいました。


三条通りに戻ります。
東山三条交差点から420mで京阪三条交差点です。
その下には、京都市営地下鉄東西線の三条京阪駅があります。
もとはこの駅はただの三条駅、または京津三条駅と呼ばれていました。
今でもお隣の京阪本線の駅はただの「三条駅」です。
それが市営地下鉄になって今の名前に変わったのです。
その手前左側、今は別のホテルになりましたが、ここには京都では老舗の修学旅行旅館がありました。
旅行会社に入って1年目、先輩社員とはじめて修学旅行の添乗に行った時に宿泊したのもここでした。
かなりやんちゃな公立中学の修学旅行だったのですが、夜中の2時に雨樋を伝って三階から脱走した男子生徒がいて、真夜中の京都の街を逃げる彼を追って、革靴で橋の向こうまで走る羽目になりました。
向こうは中学生でスリッパを両手に持って裸足で走っているのですが、なかなか追いつきません。
やっと捕まえたら悪気なく「すみません」と謝ってきます。
先輩は「自分たちに謝らなくていいから、先生に謝ってください」といって先生のところへ連れていったら、開口一番「お前のために夜中に走り回った添乗員さんに謝りなさい」。
謝罪するくらいなら最初から脱走するなと言いたいところですが、色々やってみたい年頃なのでしょうね。
小学生の頃から独りで旅してきた私は「自分ひとりで旅をすれば、旅館からわざわざ脱走する必要もなくなるよ」と内心で思っておりました。


三条通り右(北)側、三条京阪駅の駅ビルの脇に山門があるのが、浄土宗の檀王法林(だんのうほうりん)寺です。
正式名称は「栴檀王院 無上法林寺」といい、その意味は「栴檀香木の法の林に入る者は、悉く芳香に薫じられて道信者となり、菩提の種を成就する」ということで、身分に分け隔てなく浄土教の信者は訪れて口称念仏ができたそうです。
とくに人徳のあった2世住職に因み、近隣の人は「だんのうさん」と呼んでいます。
このお寺は、江戸前期に陸奥の国出身の袋中(たいちゅう)という学僧が創建しました。
彼は仏法を学びたいと大陸(この時代は明)に渡ろうと企図しますが、この時代は秀吉の朝鮮出兵によって敵の後ろ盾であった明と日本は国交断絶の状態で、琉球まで行って便船を求めたものの叶わず、こちらに帰ってきてから開いたのがこのお寺です。
上述の通り、親しみやすいお寺だったようで、最初は小さかった境内も、信者の寄進により少しずつ広がって今の形になりました。
檀王法林寺と逆の三条通り左側、川端通りとの角にあるのが、ご存知高山彦九郎像です。
高山彦九郎は江戸後期の尊王思想家で、上野国新田郡(今の群馬県太田市)に生まれた彼は、北は津軽から南は鹿児島まで、各地を何度にも分けて旅をして様々な人と交わり、それを旅日記にしたためていました。
彼自身は寛政の改革を行った松平定信から尊王思想の芽として目をつけられ、幕府の監視下に置かれたのち、九州の久留米で自刃して果てますが、残した日記が吉田松陰をはじめとする幕末の志士たちに影響を与え、倒幕につながったといいます。
この像はその見てくれから「土下座」と呼ばれていますが、皇居に向って拝跪している姿です。


そして三条大橋交差点で川端通りをこえると、いよいよ旧東海道の終点、三条大橋で鴨川を渡ります。
日本橋を出てから歩きでのべ22日、DANさんとブロンプトンで走ってのべ11日を要し、三条大橋にたどり着いたわけですが、新幹線でゆけば2時間半くらいで行ける距離を、何日かけてじっくり行くのは、ある意味とても贅沢な旅でした。
このブログも、2012年の9月(https://ameblo.jp/cum-sancto-spritu/entry-12511121584.html?frm=theme)に日本橋を発ってから京都三条大橋にたどり着くまでに10年もの間、肩肘張らない道中記を目指した結果、脱線や道草が多くなってしまいましたが、私は目で見た感想、実際に会った人とのやり取りを大切にしたかったので、こんなペースで書き続けてちゃんとゴールできた自分に驚いているところです。
歩きや自転車以上に遅々として進まない筆に、辛抱強くお着き合いくださった皆さま、ありがとうございました。
街道案内はいったんこれでおしまいにしたいとおもいます。
このシリーズは次回以降、まだ残っている点描に、ゴールの三条大橋の説明と、完歩、完走したときのまとめの所感等を書いてゆきたいと思います。