旧甲州街道にブロンプトンをつれて 0.日本橋~1.内藤新宿(その7) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(西念寺)

トモエそろばん本社の南130mにあるのが、浄土宗の西念寺です。
開基は半蔵門でお馴染みの服部半蔵正成(1542-1597)が、徳川家康の江戸入府後、前々回にご紹介した紀尾井町清水谷公園付近に安養院として創建したのがはじまりです。
安養院は江戸城拡張工事により1634年に現在地に移転しました。
安養院も移転して改まった西念寺も、家康の長子信康を供養するための寺院です。
正成は忍者でお馴染み伊賀衆の棟梁として有名ですが、主君家康の長男である信康が同盟関係にあった織田信長に謀反の嫌疑をかけられて自刃に追いやられた際、検使として切腹の場となった二俣城へ遣わされました。
介錯を命じられた侍が直前で出奔してしまったため、正成が代わりを命じられたものの、やはり「主君の子は斬れぬ」と落涙しながら倒れ伏してしまったため、さらに代役が命じられて討ち果たされたという逸話があります。
徳川信康の切腹には、母の築山殿とともに武田方への内通を疑われた、優秀なので生かしておくと天下統一の妨げになると信長が嫉妬した、父である家康と対立していたなど諸説ありますが、いずれにせよ若い頃から家康の側近(馬廻衆)として活躍した正成としては、忸怩たる思いであったと察せられます。
その正成も没後この寺に葬られました。

(服部半蔵の墓)


半蔵門のあたりでも触れましたが、旧甲州街道は江戸幕府にとって非常口と避難路の役割を担っていたため、半蔵門から西は水害で通行止めにならぬよう武蔵野台地から江戸城へと尾根筋を忠実にたどっています。
地形図を俯瞰すると、東京の台地は西から東に向けて大きな亀が両前足と顎を開いて獲物に向かうような形をしており、亀の目にあたるのが千代田城なら、甲州街道はその裏から脊椎へと続く視神経のように位置しています。
四ツ谷から新宿へ向かう際、カーブが続き、若干登坂になっているのはこの理由からで、両側は谷へ向かう斜面です。
赤坂見附から迎賓館と東宮御所の間を抜け、この甲州街道の南側に入り込んでいる谷間は茗荷谷と呼ばれたらしく、お寺や神社が集中しています。
西念寺より140m北西には真言宗豊山派の愛染院があります。
ここは内藤新宿の開設に努めた高松喜六(?-1713)や、江戸時代の国学者、塙保己一(1746-1821)のお墓があります。
高松喜六はもともと浅草の名主でしたが、宿場開設を幕府に願い出て甲州街道沿いの名主になりました。
つまり彼が願い出なかったら今の新宿は無かったかもしれません。

(愛染院)
愛染院の北西、東福院坂を挟んであるのが新義真言宗の東福院です。
ここには豆腐地蔵とよばれるお地蔵さんがあります。
昔この付近にぼったくりの豆腐屋さんがあり、そこへ毎晩豆腐を買いに来るお坊さんがいて、主人がお金を確かめると樒(しきみ=根、茎、実に猛毒があり、ゆえに虫が付かず、葉は密教の護摩供養の際に用いられる)の葉にかわっているということがあり、さては狸か狐の仕業かと、ある夜に後をつけて左手を切り捨てたところ、血痕が東福院の地蔵まで続いており、よくみると左手を欠いていた。
豆腐屋はこれまでの商売を反省し、以降はまっとうな商売に励みながらこの地蔵に奉仕したということで、このお地蔵さまは「悪銭身に付かず」という事実を、身をもって示したかったのかもしれません。

(東福院の門を入って右側にある豆腐地蔵)
この話をきいて、昔読んだある聖職者の子ども時代の話を思い出しました。
彼が8歳の時、ある催し物で「金貨漁り」と題する手品をみたそうです。
空中には目に見えない速さで金貨が渦巻いていると念じると、手品師の老人は宙に手を伸ばすたびに金貨を掴み取るというもので、それを見て驚いた彼は「ぜひあの人に弟子入りしたい」と父親に頼んだのだそうです。
すると父親は出番の終わった老人の控える楽屋に息子の手を引いてゆき、「我が子があなたに弟子入り志願しておりまして」と告げました。
するとこの老人は腰をかがめて両手を子どもの肩に置き、白髪髭を寄せながら、重々しい口調でこう言ったそうです。
「いいかね、坊や、よくお聞き。
もしわしがほんとうに宙から金貨を掴み取ることができるなら、だれにも見せないで、部屋に閉じこもって、朝から晩まで金貨をせっせと集めるだろうよ」
優しさの中に厳粛な悟りを含んだようなその表情と声音に、金銭はまじめに働いてはじめて得られるものだという教訓と、働きを伴わずに積まれた金というものへの後年の軽蔑を植え付けてくれたと、この少年は大人になってから感謝しています。

この話、火葬…じゃなかった仮想通貨に狂奔する人の教訓になりませんかね。

仮想空間には目に見えないカネがビュンビュン飛び交っているといって、チャンスを逃すなと投資を煽る人たちは、この手品師ほどには正直ではないのでしょう。

池田晶子氏も本に書いていましたよ。

仮想空間で金持ちになって、何をしようとしているのかと。

(ちかくにお豆腐屋さんが…本文とは関係ありません)
「汗水垂らして得た金でなければ下品だ」という考えを捨てて、投資を資産の作り方と割り切って、財産形成について考えない人は、これからの世の中を生き残ってゆけないという意見があります。

政府も貯蓄より投資を推奨する時代です。
私は新自由主義がどうこう、投資の射幸性がどうこうではなく、そういう弱肉強食的な考えは、却って世界を分裂に導くと思います。
バブル真っ只中の大学時代に、経済学の先生が言っていたのは、「地球の資源には限りがあるように、お金を株や投資に回したからといって、世界全体の富が自然に増えるわけではない。
だから、誰かがカネを他にまわして利益を得ているということは、他の誰かが損とは言わないまでも、割を喰っていることだということを肝に銘じておいた方がよい。」と述べていました。
彼は質問時間に「今どの銘柄(の株)が買いですか?」と訊いた学生に対し、「いいですか、経済学を研究しているから投資に強いというのが真理なら、この瞬間も私はここ(教壇)に立っていません。」と上述の老手品師と同じようなことを言っていました。
『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著したジョン・メイナード・ケインズが最も嫌っていたのは、働かずに年金を投資にまわし、運用益だけで生活している当時の老人たちだったと伝記に書いてありました。
時代は繰り返すと申しますが、それでもやはり、「儲けたもの勝ち」なのでしょうか。

(東福院坂の下の方をみると、茗荷谷を挟んで階段がみえます)

(この階段、好きな人にはたまらないですよね。次回ご案内します)
ところで、東福院坂について下の方に目をやると、谷を挟んでお向かいにどこかで見たような神社脇の階段が見えています。
ここで坂を下ると登り返さねばならないので、ここは旧甲州街道に戻って西へ向かいましょう。
東福院坂上から160m西へ旧甲州街道(新宿通り)を進むと、津之守坂(つのかみざか)入口信号です。
津之守坂は、尾根筋から北方向へ下る坂を指し、その名の由来はこの坂の上部西側に、尾張徳川家の分家である美濃高須藩初代藩主、松平義行が上屋敷を構えたからといいます(摂津の守=津之守)。
義行から数えて10代目藩主の義建(よしたつ)の次男が、島崎藤村の『夜明け前』にも登場する幕末の尾張藩主徳川慶勝(とくがわ よしかつ1824-1883)で、五男が一橋徳川家を継いだ徳川茂徳(とくがわ もちなが1831-1884)、七男が会津松平家に養子に出て蛤御門の変や会津戦争で有名になった松平容保(まつだいら かたもり1836-1893)、そして彼と同じく戊辰戦争において最後まで西軍に抵抗した桑名藩主松平定敬(まつだいら さだあき1847-1908)は八男です。
四人は優秀で高須四兄弟と呼ばれていました。
このうち徳川慶勝は正室の子として、徳川茂徳と松平容保は、それぞれが別の側室の子として、ここ四谷の美濃高須藩上屋敷で生まれています。

(祥山寺)
津之守坂とは通りを挟んで反対の南側へ下る円通寺坂の途中、左側にあるのが臨済宗瑞渓山派の祥山寺で、ここは前述した服部半蔵配下の伊賀衆菩提寺で、伊賀組忍者供養塔としての忍者地蔵があります。
祥山寺から20m下った右側にあるのが、坂の名前にもなった日蓮宗円通寺で、1640年に小湊誕生寺の僧侶、日探によって開山されました。
このお寺のご本尊である三面大黒天像は、日蓮の作と伝えられています。
さらに40m坂をくだった左側にあるのが浄土宗法蔵寺で、ここは三河国の福釜松平家が、いまの安城市福釜町にあった同名のお寺を移して開きました。
円通寺坂はこの付近ではもっとも谷間の奥深くに位置し、迎賓館裏の南元町交差点から登ってくるのには緩くて、自転車ならいちばん楽に登れるとおもいます。
津之守交差点から新宿通りを70mほど西へ向かい、そこから北へ飲食店街のなかをゆく車力門通りを130m進むと、新宿区立荒木公園のところで道はクランクしているのですが、この公園の手前にあるのが金丸稲荷神社です。
ここが前述した美濃高須藩上屋敷の守り神でした。

(金丸稲荷神社)
次回は津之守坂入口交差点から、新宿通りを西へ向かいます。