ブロンプトンを連れた旅のプロローグ(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(前回からの続き)

旅行が仕事でなくなってからも、、プライベートな旅が日常からイベントに戻ることはありませんでした。
列車車掌とか、フライトアテンダントなどを仕事にしていた人以外にも、たとえば留学や出張、(国際)結婚などで、国内、海外を問わずしょっちゅう飛行機に乗っている人は、飛行機に乗る行為自体が(出入国手続きや税関審査も含め)、イベントでも何でもなく毎度の所作になり、家の近所で駅まで路線バスに乗る行為と大差なくなってしまうのと同じです。
もう旅行会社の社員ではないからといって、いったん職業的な目を持ってしまったら、今さら新幹線や旅客機に乗ることで高揚するなんてこともなくなります。
そう言いながら、列車が動き出し、或いは飛行機が離陸すると窓に張り付いているじゃないかと指摘を受けますが、それは私が車窓(機窓)オタクだからです。
その証拠に、通勤電車であろうが、ビジネス旅行であろうが、車上の人、機上の人になった私の視線は、スマホでも本でもなく、窓の外に注がれている時間が圧倒的に多いのです。
(スマホを見ている人よりは興奮しているかもしれませんがね)


さて、今はブロンプトンによる旧街道尺取虫方式の旅や、山や温泉への自然回帰趣向が私にとってのメイン旅行になっています。
尺取虫方式の旅というのは、同じ街道の先へ先へと、何度も行き帰りする旅を重ねることになりますから、どうしても1回あたりの旅の経済性に気を配ることになります。
旧東海道でも、静岡県西部の掛川を過ぎるあたりまでは、新幹線を使わずに往復は青春18きっぷを利用した鈍行旅でした。
否、前泊をすれば、京都まで新幹線を使わずに、往復の足を東海道本線鈍行にすることが可能です。
甲州街道も、中山道との合流点である下諏訪まで、青春18きっぷは活躍します。
これは中山道や、奥州・日光街道など、関東平野内であれば同じことですし、旧街道以外の、関東から1,2泊程度までの場所で、片道の運賃が2410円を超える場所なら、気軽に使えます。


ということで、青春18きっぷを効率的に使うべく、必然的に朝早い列車に乗って距離を稼いだり、現地においてブロンプトンで走る時間を確保したりすることになります。
すると、いつも通勤するために使っている、朝4時台の列車に乗ることになり、全く同じ時間に起床して、全く同じ時間に家を出て、いつもと同じ電車に乗るということになるのです。
つまり、これから旅に出るという高揚感は殆ど無いまま、いつもと同じ道をブロンプトンで走って、駅での所作や、乗車位置まで同じにしています。
いつもと違うのは、より余計に電車の中で寝られるかな、今日は長く電車に乗るから少しは読書が進むかな、という認識があるくらいです。
これは、いつも利用している横須賀線や東海道線に限らず、旧道旅とスキーにしか利用しない中央本線でも同じです。
甲州街道のように、何度も同じ列車の乗り継ぎで同じ時間帯に先へ、先へと日を変えて乗っていると、その旅のプロローグは同じになり、同じ街道、目的地について経験を積み重ねてゆくにつれ、動作がすっかりお馴染みとなり、まるで通勤、通学と同じような雰囲気になってゆきます。

さらに、朝一番の電車でなく、仕事が終わってから途中まで行って前泊する場合も同じで、通いなれたあの線に乗ってどこそこまで行って泊るという感覚になるのです。
もし私の仕事が忙しく、短い休みしか取れない場合でも、鈍行列車が新幹線や飛行機に、青春18きっぷがチケットレスのネット予約に変わるくらいで、感覚は同じだと思います。
今でもたまに新幹線や飛行機に乗ると、ひとり旅をしていた頃の自分と、仕事であちこちを往き来していたときの自分を同じように思い出し、ああ、また同じことの繰り返しだけれど、この種の旅は、心身のどちらかが壊れるまで続くのだろうと感じます。
否、仮に私の身に何かが起こり、現在のような旅ができない身体になったとしても、こうして文字にすることで、心はいつでも昔行ったあの場所へ自由に行き来することができるのかもしれません。


旅馴れてしまい、通勤や通学と同じような感じで高揚感が無くなってしまったら、ワクワク、ドキドキすることもなくなり、旅がつまらなくなるのではないか?と思われる向きもあるかもしれません。
しかし、通勤と旅行では、同じ路線の同じ景色でも、どこかしら違って見えるものです。
旅で何度も往復利用している路線でも、1か月空けた車窓から眺めていると、あそこが変わった、今年は例年に比べて○○が早い、もう紅葉がはじまっている、など、馴れ親しんだ路線ならではの車窓の楽しみ方があります。
何よりも、その道や沿道の地域に対し、点ではなく線で親近感を感じるわけですから、今度は別の面から観察してみようとか、今回気になった対象について、家へ帰ってから改めて調べ、また改めて来てみてみょうなどと、自らリピーターになってゆく実感があります。
旧街道の旅も、最初はこのブログを書くためだけに2回、3回と同じ場所をブロンプトンで走っていたのが、ゆくたびに新しい発見があるので、季節や時間を変えて再訪するという形に変わってきています。


旅行会社時代、「どうしたらお客さんにリピーターになっていただけるか」というテーマで、ディスティネーション先の業者さんや自治体などとともに会議をしたものですが、その答えは意外なところにあったという感じです。
これは、海外旅行も同じで、もしヨーロッパの旧い街道についてブロンプトンで尺取虫方式の旅ができたなら、その沿道の国の文化やことばについて、より深く理解するきっかけになるのではないかと思っています。
翻って見れば、インバウンド観光客にリピーターになってもらうにも、同じ効果が期待できるのではないでしょうか。
旅がシリーズ化された判じ物のように、この先はどんな景色になっているのだろう、この先をゆけば、どんな文化に出会うのだろうという期待を持たせ続けるような旅になれば、それはライフワークのように日常に溶け込んだ旅となり、仕事に行くのも、旅に出るのも、ちょっと知らない場所をお散歩してみるだけでも、今日一日の挑戦とか冒険、或いは経験なのだと前向きにとらえることができるかもしれません。


ブロンプトンで旅に出かけるとき、私の格好は普段着ですし、身につけている帽子や靴も変わらず、自宅から最寄り駅まで走ってゆくタイミングも全く同じなので、他人が見たら仕事に行くのと区別がつかないとおもいます。
だから、何をどう思って旅に出るのか、仕事に行くのかは他の要因に左右されることなく、全く私の内心の問題になります。
そうやって、いつも通りのプロローグで始まった旅は、行った先ではじめての経験をして、或いは予期せぬアクシデントに見舞われて、その瞬間は驚いたり不安になったりしたとしても、時がたつにつれてやはり思い出のひとつになってゆきます。
そう感じるようになって、仕事に行くのも、お散歩に行くのも、トレーニング目的で家を出るのも、旅に出るのも、皆ブロンプトンをつれて同じスタンスで家から走り出すようになって、逆説的な言い方になりますが、今日の仕事も、旅も、お散歩も、読書も私の人生の大切なひとコマだと思うようになりました。
これは仕事(オフィシャル)と遊び(プライベート)をきっちりと分けていた過去とは全然違う気分です。


イベント化されていた旅行を一度きりではない、自分の生涯の友として取り戻した時、プライベートかオフィシャルか、遊びか仕事かなどの区別はどうでもよくなり、どちらに対しても、その時点その状況でできる限りのことをして、できなかったことはまた後のお楽しみにしてみようと思うようになりました。
仕事でストレスをため込んでは、旅行へ行って羽目を外して憂さを晴らす、そんな旅しか知らなかった自分が、今のようなスタイルになったのは、小さな折りたたみ自転車のおかげだと思います。
同時に、仕事が忙しくて時間が無い、或いは身体が思うように動かなくなって、はてまたお金がないからと旅に出られないとぼやきながら、自由に旅に出ている人に対して「無責任に遊びまわっている」「旅する暇とカネがあるなら、もっと働いて自分によこせ」としか評価できない心身ともに貧しい人たちが可哀相に見えてきました。
そういえば、私の読書という行為にケチをつける人間も、本を読まない自己は棚に上げて、本を読む暇があったらもっと勉強しろ、もっと仕事して金を稼げと、他者批判を繰り返していました。


その手の人間は、そんな風に他者を非難しつづける行為の中に、つまらない、砂を噛むような日常の中に、恨み言を並べながら他人に嫉妬し、自らに唾をしている状況にいつまでも気付けないでいるのでしょう。
他人のことをとやかく言う前に、相手のことなど吹っ飛んでしまほど、自分でのめり込める何かを見つけたら良いのにと思います。
私たちには、休暇と仕事、休日と平日、晴れ(ハレ)の日と褻(ケ)の日があるのではなく、すべての日は均しくハレの中にケを宿し、ケの中にハレを孕んでいるという認識に至ってはじめて、仕事の中にも、旅先でも、家の中にも外にも、自分の中にも、自己と反対の立場に立つ他人の中にも、「光」を見ることができるようになるのではないでしょうか。
私はお馴染みの早朝の道を、駅までブロンプトンで向かいながら、祈ると共に、そんなことを考えるのでした。
(おわり)