バルザック『ゴリオ爺さん』を読む | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

物語も中盤、登場人物のひとりが脱獄囚の大泥棒だと判明して、長編小説の「転」が訪れたあたりで、知り合いが『100万回死んだねこ 覚え違いタイトル集』(福井県立図書館編 講談社刊)という本を持ってきてくれて、中をチラ見したら案の定『ゴリラ爺さん』がありました。
娘たちへの愛情が深いという点では「ゴリラ爺…」もあながち外れてはいませんが、自分の財産をすべて彼女たちに気前よく渡してしまう点からは『おごりの爺さん』に見えるし、若い学生にそのうちの一人との結婚を強く推すあたりからは、『ゴリ押し爺さん』と呼べなくもありません。


冗談はさておき、本作品の著者、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)1799年にフランス中部のトゥールに生まれました。
幼少期は叔母に預けれ、母の愛情に飢えた日々をおくったそうで、それがのちの女性遍歴(それも多くは貴族階級の年上女性)につながったと紹介されています。
15歳の時に父の仕事の関係でパリに引っ越し、法科大学に入った彼を公証人にしたい両親に反発、小説家になるべく創作活動を開始します。
バルザックという独特の響きと、肖像画に描かれたその風貌から、子どもの頃の私は彼をロシア人だと思っていたのですが、彼の作品が次の19世紀のトルストイやドストエフスキーといったロシア文学における写実主義に多大な影響を与えたことは間違いなさそうです。
(読んでみると、たしかに作風や文体は似ています)


『月と六ペンス』を書いたサマセット・モームが世界の十大小説に挙げている中に、バルザックの『ゴリオ爺さん』があったので、中学生の私はハーマン・メルビルの『白鯨』やエミリー・ブロンテの『嵐が丘』とともに、この小説に挑戦したのですが、この3冊のうち、『ゴリオ爺さん』だけは途中で投げ出していました。
モヴィ・ディックを追いかけるエイハブ船長とか、あの暗いDV夫のヒースクリフのこと記憶に残っているのに、この小説だけは何も覚えていません。
読んだ人から、娘たちに徹底的に搾取され、それが原因で精神的に病質を得て、最期の臨終は孤独に死んでゆく爺さんの話と聞いて、中学生の私には理解不能だと思ってしまったのです。


しかし、考えて見れば同時期に『アンナ・カレーニナ』を読んでいたのだから、もうあの貴族社会のドロドロとした愛憎劇はごめんだと愛想をつかしてしまったのかもしれません。
それが今回もう一度読みなおそうと思ったのは、池田晶子氏がエッセイの中で『死と生きる―獄中哲学対話』という本について、「それまでまともに本を読んだこともないはずの相手の死刑囚が、まるでゴリオ爺さんのような言葉を手紙に書いてよこす」という感想を述べていたからです。
はて?
ゴリオ爺さんって利用されるだけされて、最期は用済みとばかりに捨てられた爺様ではなかったか、それが死刑囚とどう関係が…。
でも、そんな細かい理由でも長編小説を読むという動機になります。
だから、内容が分からなくて途中で投げ出しても良いから、背伸びしてでも若いうちに小説を読んだ方が良いと思います。
今回は昔挫折した新潮文庫版(平岡篤頼訳 1972年)ではなく、光文社古典新訳文庫版(中村佳子訳 2016年)を選びました。
光文社古典新訳文庫版って、栞の裏表に登場人物名簿が印刷されていて、長い翻訳小説を読む時には便利です。


ところで、むかし大学の講義中に社会科学系の先生が「文学なんて研究する奴は女々しい」と馬鹿にしていましたが、大学に入るまでに本、とくに小説を読む習慣をつけられなかったひとは、人文社会系の本を読むことは難しいのではないかと思います。
文字の本を読む分には、小説であれ、社会科学系の論文であれ、分からないなりに筋を追ったり、登場人物の内面を想像したり、この後の展開を推理したりという作業は変わらないし、そういう訓練を受けずに来ていきなり難しい内容の文章を読んだり書いたりしようとするのは、それこそ無茶だと思いますから。
翻訳の時だって、英文の小説を読みなれていない私は、受験のための英文読解と英訳は殆ど役に立たず、簡単なお伽話で良いから英語の話を英語で理解したいと感じました。
(とても時間が無かったため、できませんでしたが)


それはさておき、彼の代表作である本作は、36歳の時の作品で、『人間喜劇』と題された長短様々な小説群のうちに収められ、原題は”Le Père Goriot”、フランス語で” le Père”は父親ですから、ド直訳すると「ゴリオ父さん」とか「ゴリオ親父」くらいの意味合いではないでしょうか。
小説中で登場時には二人の娘が嫁いだ後で高齢になっているので、爺さんには違いないのでしょうが。
そしてお話は、パリのヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通り(パンテオンからセーヌ川へ向かって伸びる曲がりくねった小径、現在のモンターニュ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りか?)に佇む、ヴォルケール館という下宿屋に住まう人々の紹介からはじまります。
時は19世紀前半のパリ。
フランス革命の結果としての第一共和政のあと、ナポレオンによる第一帝政が倒れ、王権が復活した(復古王政)ころのお話です。
最初の方に、「この物語を最後まで読めば読者は涙せずにはいられない」とあり、益々喜劇なのか悲劇なのかわからなくなってきます。


そしてこの物語の主人公であるはずのゴリオさんは冒頭は完全に脇役で、ヴェジェーヌ・ド・ラスティニャックという、貴族階級ながら地方出身の貧しい学生(おそらくは作者の分身)を軸に物語が進みます。
若くて野心家の彼は、従姉で既に華やかなパリ社交界にデビューしているボーセアン子爵夫人に取り入って、裕福で容姿が美しい姉妹(アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人とデルフィーヌ・ド・ニュッシンゲン男爵夫人=この姉妹こそがゴリオの娘たち)に近付こうとします。
姉の夫(領主)、妹の夫(銀行家)とは別に、姉妹はそれぞれ愛人がいて、その愛人がまたギャンブラーだったり、婚約者がいたりと、今の世から比べれば乱れに乱れたというか、お金を背景にした愛欲が複雑にからむというか、読者は目いっぱい想像を膨らませねばなりませんが、とにかく貴族にとっては最後の華やかな時期だったのでしょう。


当時のヨーロッパは産業革命の影響もあり、貴族と平民の間には緊張が増し、とくにフランスにおいては識字率が飛躍的に向上し、小説というジャンルが社会に浸透してゆく時代に重なっていたそうです。
ジャーナリズムという言葉が産まれたのも、新聞小説ができたのもこの時代ということで、バルザックは貧乏人とお金持ち、名も無い庶民と貴族、正直と打算的な生き方、男と女、若者と老人など、対照的な人間を、外面と内面両方から、尊敬と皮肉を込めて、冷静に書いています。
おそらくは、階級間の軋轢に文学もまた巻き込まれていったのでしょう。
作者はあらゆる方面からもどちらかへ偏ったりしないよう、注意を払ったのではないかと読めました。
内容もギリシャ神話の神々や、聖書の登場人物などが比喩的に登場してくるので、これは平民の中学生には歯が立たないわけだと妙に納得してしまいました。
たとえばタンタロス(ギリシャ神話に登場する王。ヨーロッパでは欲しいものが目の前にあるのに手が届かない苦しみをあらわす代名詞的存在)の話なんて、久しぶりに注釈に出てきたので、「ああ、そんな物語があったっけ」と、お話の筋とは全く関係の無いところで懐かしくなってしまいました。


話をあらずじに戻すと、この姉妹はことあるごとに仕事を引退しておんぼろ下宿屋で年金生活をおくっているゴリオ爺さんに競って取り入り、お金があるうちはお金を、それがなくなると今度は借金までさせて、奪ったお金を湯水のごとく自分や愛人に使います。
そのくせ父親が訪ねてきてもロクに会おうともせず、冷たくあしらいます。
こうした状況を下宿の人たちは半ば同情し、半ば呆れて観察しているのですが、とくに学生のラスティニャックは、かたや若者らしい義憤をもってゴリオに同情しながら、かたや田舎の家族に金策をしてまで、着飾ってはったりをかまし、従姉をテコに、お金と欲望が入り乱れる社交界に確固たる地歩を築こうとする自分との間で煩悶します。
やがて、下宿人のうち謎の資産家で皮肉屋だった男が大泥棒で脱獄囚だったと知れ渡るあたりから、小説は俄然話が動き出し、ここからゴリオ爺さんの真の事情が明らかにされ、その子どもである姉妹も、華やかな裏に隠された馬脚が露わになってゆきます。


そんな中で、貴族として、有力な女性と結びついて社交界にのしてゆくのか、自分に満更でもない、兄の死によって金持ちの後継者に躍り出た女性と恵まれた結婚をするかの選択肢に迫られたラスティニャックは前者を選び、ゴリオ爺さんが工面した二世帯アパートで、暮らすべく、姉妹のうちの妹、ニュッシンゲン男爵夫人と打算的な相思相愛関係になります。
結局、お金や遺産のことで諍いをする姉妹によってゴリオ爺さんは卒中で倒れ、精神を錯乱させながら、愛する娘たちに来てくれと哀願したり、逆に捨てたなと呪ったりとうわ言を繰り返す中、ラスティニャックは友だちと二人で懸命の看病をします。
この辺りが作品の山場で、それまでわき役だったはずのゴリオ爺さんが、ラスティニャックの心を通して主役におどり出てきます。
死に際のゴリオ爺さんは、まるで旧約聖書に出てくるヨブのようですが、結局姉妹たちは父親の死に目にも会おうとせず、葬式にも顔を出さず、葬儀から埋葬までをラスティニャックがなけなしのお金をはたいて済ませ、彼が丘の上からセーヌ川を見下ろしながら、「今度はおれが相手だ」と社交界に宣戦布告をするところで話が終わっています。


なるほど、いちばん赤裸々だったゴリオ爺さんが主人公で、若者は堕落に引き摺り込まれながらも、若さゆえの書生気質をふり絞って、主人公のかたき討ちをするつもりなのだと納得しましたが、「父親は、最終的にはこのように捨てられることで、次世代への肥やしになる」というメッセージが透けて見えるようで、なんだか切なくなってしまいました。
けれども、お金か愛情かを人生において問い続けたい人には、忘れられない小説になるのではないでしょうか。
今だって、いや、現代はもっと別な角度から、この小説と同じテーマを私たちが問いかけられているのではないでしょうか。
読むにあたっての注意点ですが、全4章のうち、2章の終わりまでは登場人物にも謎が多くて推理小説のようですし、それでいて話のテンポも随分と遅いので、半分を過ぎるまでは投げ出したい気持ちをこらえて、我慢して読むと良いと思います。