旧街道にもってゆく地図(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

わたしは子どもの頃から時刻表オタクであるとともに、地図オタクでした。
双方とも、一日中眺めていても飽きることはなく、見ているだけでは物足りなくなって、旅に出たくなる書籍の筆頭でもありました。
高校生くらいになると、国土地理院発行の通称「五万図」(五万分の1)や、より詳しい二万五千分の一地図を購入しては、眺めていて行きたくなった山にオフロードバイクで出かけていました。
今は何年も通行止めになっている埼玉・長野県境に跨る中津川林道や、とっくの昔に一般車通行止めになってしまった南アルプススーパー林道と野呂川林道を燃えるような秋の紅葉シーズンに泥まみれになりながら通り抜けた経験は、今でも自分のなかでは勲章です。

(一般的な道路地図ですが、A4で大型です)
その後、仕事で旅行に行っても、その旅がずっとバスに乗りっぱなしであったとしても、帰ってきたら行った場所の道路地図をだしてきて、反芻しながら地図上をもう一度たどったものです。
そうすることによって、今してきた旅がより立体的に見えるし、今回は行けなかったけれど、途中標識で見かけた街へ次回行くとしたら、どんなプランを立てたら良いかなど、興味は尽きないのでした。
本来であれば、仕事であれ、プライベートであれ、行く場所の詳しい地図を持参すべきだったのでしょう。
たとえば、登山をする人が地図とコンパスを携行するように。
しかし、その当時の分県地図や道路地図というものは、広域かつ詳細になればなるほど、版は大型で分厚いのでした。
また上述した五万図のような一枚ぺらの地図は、サイズが46×58㎝と大きいのでたたんで持ち運ぶわけですが、現地で何度も出し入れし、開いたり閉じたりしていると、必ずと言っていいほど折り目から破れてゆくのでした。

(家にあった昭和50年の5万図)
まだナビゲーションなど無い時代、大型本サイズの地図は車に積むのも大変だし、運転手が方向音痴かつ助手席に座る人が地図を読めないとドライブは悲惨なものになりました。
しかし、土地勘のない人が地図だけを頼りに今いる場所とこれから向かう場所、そして経路を判断するのは、どんどん先へ進んで状況が変わってしまう車の中で、無謀というものです。
バブル期のスキー場往復など、相当経験を積んでいても、今のようにネット情報がないので、目の前の渋滞の長さや原因がわからず、スキーバスのあとをついてゆくのが一番早いなんて言われていました。

いまから15年近く前になる2007年、旧東海道を踏破したときに私が持っていたのは、道路地図を大量に白黒コピーした紙に、マーカーペンで旧道を書き込んだ紙束でした。
情報源は、今井金吾著「今昔東海道独案内」(1994 JTBパブリッシング)です。
この本は2色刷りで旧東海道が国土地理院発行の2万5千分の1地図の上にプロット(描画)されているのですが、いかせん元の地図が古くて、発行から10年以上たった当時は、バイパスの開通や区画整理など、道路状況が変わっているところがたくさんあったのです。
書籍は絶版になっていて、程度の良い本をアマゾンでやっと手に入れたところでしたし、ハードカバーの厚い本持ち歩いて、いちいち頁をめくるくわけにも参りません。
また、この本と現在の地図または位置を照らし合わせようにも、当時はスマートホンやタブレットPCなど、現地で地図を眺めるツールも無ければ、ガラケーの小さな画面で地図を見るのは顕微鏡で住宅地図を眺めるような感覚で、結局本屋さんで最新の地図を購入してコピーするしかなかったのです。

(いくら字が大きくて小型の地図でも、2万分の1、4万分の1ではあまり役に立ちません)
コピーした地図も持ち運びしにくいうえに、外で何度も出し入れしていると、ボロボロになってしまうので、その日に歩くであろう分しか持ち歩けませんでした。
それでも、悪名高き静岡県藤枝市水守地区のように、旧東海道の痕跡が区画整理によって徹底的に拭い去られている場所は、行ったり来たりを繰り返し、愛知県豊橋市大岩町のように、道が店舗の駐車場に取り込まれてしまっている場所は、分岐に気付かず直進して何キロもロスしてしまうという失態を演じました。
当然のことながら、自動車用の「道路地図」ですから、箱根や鈴鹿など山の方にゆくと縮尺が小さくて詳細が分かりません。
その時代はネットで国土地理院の「ウオッちず」も見れなかったし、グーグルのストリートビューも無かったから、事前に予習することもできず、現地に行ってからここだろうなと見当をつけていました。

あの頃の私は、コピーの束を抱え、ブロンプトンに跨ったまま、道端で考え込んでいることが多かったと思いますが、それも今では予期思い出です。

(こういう地図は、読み物としては面白いのですが・・・)
結局、正確に辿るのが精一杯で、沿道にある史跡、名跡などは説明板の内容をコンデジに収めて後から見るくらいが関の山、大半のそれらはスルー(通過)でした。
だから、ある程度は日本史に知識のある自分でも、あとから歴史小説や郷土史解説書などを読んで、あそこが歴史の舞台だったとか、あの戦にはそのような背景があったのかと知るようになりました。
有名な桶狭間の戦いでも、史跡公園となっている場所とは別に、現在において今川義元が陣を張り襲撃を受けたとされる場所は、従来言われていたような窪地ではない丘陵上で、敵が攻めてくる鳴海方向の見通しがきき、きちんと警戒していれば織田方が攻めてくるのを見通せる場所で、現地に行ってみれば、従来の歴史との齟齬は各自で考えねばならないのでした。

よく「○○史観」という言葉を持ち出す人がいますが、どんな歴史であっても真実は多面的なわけですから、E.H.カー先生が仰るように、「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」限り、下手であっても、独り善がりと言われようとも、その人なりの過去と現在のキャッチボールをすればよいのです。

(木下藤吉郎=豊臣秀吉が生れたとされる場所 名古屋市内)
また、旧道は季節によって、一日のうちでも何時にそこを通るかによって、かなり様子が違います。
箱根も牧の原も鈴鹿も、夏と冬では全然違うし、それ以外の街中でもたまたま日の出や日没に走ると光線の加減なのか、真昼に走るよりも印象に残り易いのです。
当然、名所、史跡も、季節ごと、時間毎で違った顔を見せるので、1回行ったら終わりというわけにはゆきません。
上記の桶狭間だって、合戦が起きたのは旧暦の5月19日で、今の暦に治せば6月中旬ですから、かなり暑かったはずです。
ところが、旧東海道の旅を春先に日本橋からはじめると、暑い夏は静岡県東部で、秋から冬にかけて愛知県に入る為、桶狭間の古戦場を通過するのはだいたい真冬になってしまいます。
だから、清州から熱田神宮、そして桶狭間と、当時の信長のたどった進撃路を自転車で辿ろうとしたら、青春18きっぷの時期は外れていても、梅雨の真っ只中でも6月中旬に名古屋に泊まって、走ってみるしかありません。
それを他の史跡や寺社にも当てはめていったら、何万通りもの旅ができるし、何度同じ場所に行っても、様々な発見があると思います。
聖書のことを、「汲めども尽きせぬ真理の泉」と評する言葉があるのですが、それになぞらえれば旧街道はさながら「汲めど尽きせぬ歴史の泉」といったところでしょうか。

(信長が戦傷祈願したとされる熱田神宮)
ところが、上記のように大型の道路地図をコピーしただけは細かな史跡や寺社はわかりません。
もちろん、神社やお寺はきちんと載っているものの、どれが「見るべき名所」だか分からないのです。
こうした観光名所等がプロットされた地図というのは、観光ガイドブックやその手のムックに付属した地図、趣味の地図に限られていたからです。
それらは読み物としては面白いのかもしれませんが、携行して実用に耐えるものではありません。
冒頭に書いたように大型ですし、尺が小さく(つまりは広範囲にわたっているけれど詳細ではない)当然に有名ではない、小さな対象は掲載されていません。
但し、オートバイ乗りの間では例外がありました。
それは、同じく道路地図ではあるものの、史跡や眺望の良いポイントなどがひと口メモとして地図上に書き込んであるのです。

しかし、これもオートバイ用なので、小型であっても縮尺は14万分の1で、歩行者や自転車にとってはとても詳細地図とはいえないのでした。


(ツーリングマップル。雨の中見るし、無理に鞄に押し込むから皴だらけです)

もし、旧道を地図で辿ろうと思ったら、最低でも2万5千分の1、できれば1万分の1という詳細な縮尺地図が必要です。

2002年から2003年にかけて、「街の達人 でっか字東京23区便利情報地図」「同 横浜・川崎 神奈川県」(昭文社)という小型の地図が出版されました。

これは、23区すべてが一万図に収まるという画期的な地図で、都区内における昔からの道や、自転車が走り易い道が手に取るようにわかる商品でした。

しかもA5判で小さなバックにも入ります。

続巻として都下の「多摩」や「全神奈川」「埼玉」「千葉」が出たのが2007年ですから、かなり時間をかけてつくっている印象です。

今は同シリーズは東京なら7千分の1、大阪や神戸に至っては5千分の1まで詳細になっていますし、札幌、仙台、新潟、広島、福岡など、地方都市も刊行されていますが、A4判ですから携行はできません。

コンパクトな地図のなかでも特に重宝したのは、23区版のみでしたが、同じ昭文社さんの「街っぷる 東京23区」で、この本は縮尺は1万分の1のまま、さらに小さいB6判で、紙も軽量化してさらに携帯性をもたせていました。

残念ながら、その後のグーグルマップを筆頭とするスマホの地図に押されて絶版になってしまいました。

(このくらい小さくないと、自転車では携行できません)

ここまで読んで、地図に興味のない方は、私がなぜそこまで紙の地図にこだわるか、不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。

今はスマホに目的地を登録すれば、人工知能が自動で、しかも車か、自転車か、歩きか迄分けたうえで、最も合理的な経路を示してくれます。

しかし、時刻表もそうなのですが、そのようなオートマチックな読み方をすればするほど、地図を見る目は失われてゆくと思います。

ここで何度も書いていますが、旧道というのは昔から使われている道ですから、歩行者や自転車(かつては荷車など)にとって、合理的なのです。

対して、新しい道は動力付きの乗り物を前提に普請されていて、その歩道などは法律で定められているから隅に添え物程度についているだけで、長距離を歩いたり走ったりするようには造られていません。

それに対し、旧街道をはじめとするむかし道には、かつての顔が残っていたり、小さな道しるべ代わりの道祖神や、歴史ある名跡がたくさんあります。

そのうち、地図の中に道路毎の成立年代データが埋め込まれれば、AIでも旧道で検索してくれるようになるのかもしれませんが、今のところは地形図や古地図と比較しながらこうした詳細な道路地図で、特定するしか方法がありません。

しかし、こうしたアナログ的な理解こそがその土地ごとの歴史を探ることであり、旅の楽しみでもあるのです。

(昔使っていた分県地図。詳細図は役立つものの、全域の3万図は自転車には大まかすぎます)

なお、一部の配達の人たちがやるように、ハンドルバーにアタッチメントをつけて、スマートホンをナビ代わりにして自転車に乗るのは、よほど画面を観るタイミングを注意していない限り、もの凄く危険です。

車もそうですが、走行中に画面を注視したり、スマホを操作するのは自殺行為に近いと思います。

スマホのナビだからこそ、信号待ちの間にAIが指定した経路を頭の中に叩き込んで、走り出したら地図は一切見ない覚悟で記憶を頼りに走るのが本来の使い方で、そういう意味では紙の本も電子データも大差ないのです。

それをゲーム感覚で画面を見つめながら走るから何かと衝突するわけで、下手をすれば2度と自転車はおろか歩けない身体になるかもしれないのに、そういう乗り方を続ける人たちは理解できません。

それに、怪我をするタイミングや打ちどころによっては、長期的に脳をやられる可能性もあります。

そういう理由から、わたしも一時はガーミンを使っていましたが、今は中止しています。

「注意一秒怪我一生」と言われるように、ここは便利さに身をゆだねてはならないところだと思います。

ということで、詳細がわかる程度の縮尺、かつそこに名所旧跡が載っており、さらに携帯に便利な地図というのは、私が旧道歩きを始めたころは、殆ど皆無でした。

(その2へつづく)