旧東海道へブロンプトンをつれて 48.坂下宿から49.土山宿(その5) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

甲賀市土山町内の鈴鹿峠に近い山中交差点(34.905103, 136.331436)から、琵琶湖方面へと土山宿を目指します。

山中交差点のすぐ先、左(南西方向)側に、村のお社である熊野神社への参道をみながら進みます。

280mほど国道の左側歩道をゆくと、1号線の距離標に「東京より435㎞、大津まで50㎞とあります。

歩いてここを通過したときは、琵琶湖の畔にある大津まで50㎞もあるのかと、気が遠くなりました。

東海道本線の距離で言ったら東京駅から藤沢駅の少し手前くらいまであります。

むかしは男の足でも日本橋から戸塚宿までが平均的な一日の旅程で、次の藤沢宿まで行ったら健脚の部類です。

鈴鹿峠さえ越えれば、ゴールはもうすぐだと勝手に想像していたのですが、見通しが甘かったようです。

但し、これがブロンプトンでとなるとずいぶん気が楽です。

50㎞なら、小径車でも真面目に走れば半日で踏破できる距離ですから。

さらに200mほどゆくと、国道上に「国土交通省土山スノーステーション」という看板が表示され、左手に車庫のような建物があります(34.908193, 136.327638)。

これは、除雪車の基地でしょう。

鈴鹿峠はやはり冬場は除雪が必要なほど積雪があるという証拠です。

さらに国道をゆくと、右側に雨量計をはじめとする気象観測装置を認めた後、左側にあるのが浄土宗の十楽寺(34.909214, 136.324409)です。

山中交差点からこのお寺まで780mですが、これだけ進んだだけでも目に見えて積雪量が減ってゆきます。

逆に夏場は、鈴鹿峠から離れれば離れるほど、標高が低くなり暑くなってゆきます。

このお寺のご本尊は、阿弥陀如来坐像としては日本最大級の大きさで、ここから南に山を越えた甲賀市櫟野(いちの)にある櫟野寺(らくやじ=天台宗)の薬師如来坐像と、この先の水口宿北方にある大池寺(だいちじ=臨済宗妙心寺派)の釈迦如来坐像とともに、甲賀三大仏とされています。

十楽寺の480m先、小田川橋と馬子唄橋で山中川を渡った後にあらわれる山中西信号(34.912513, 136.321735)まで来たら、国道を渡って80mほど戻ります。

国道の右(北東)側に、旧道が残っているからです。

国道と旧道の分岐点にはきれいな公衆トイレと清涼飲料水の販売機、それにベンチまであります。

歩いた当時にこんなものがあったらどんなにか助かっただろうと思うのですが。

正面に第二名神高速道路の巨大な橋が谷を跨いでいるものの、国道と旧道の間に数軒の家が並んでいるほかは田んぼという小さな集落を抜け、高速道路の橋脚までくると、旧道は国道に合流します。

ここにあるのが、「第二名神滋賀県起工の碑」(34.916198, 136.317417)です。

旧東海道と国道1号線が重なるこの地で、高速道路を起工した意味は分からないでもないですが、旧道とは不釣り合いなほどにまっすぐ上の高速道路に向って伸びている、真鍮と石を組み合わせたモニュメントは、旧道の墓標というか、征服記念碑に見えなくもありません。

すぐ先には、一里塚と大原道と呼ばれる、上でご紹介した櫟野寺への参詣道の分岐を示す、「いちゐのくわんおん道」と彫られた石柱道標と、とってつけたような馬と馬子の石像が忘れられたように佇んでいます(34.916418, 136.317229)。

旧道を忠実に辿るなら、この地点で国道1号線をふたたび横断して左側歩道へ復帰せねばならないのですが、残念なことに横断歩道など歩行者が安心して渡れるような設備も標識もありませんが、横断禁止の標識もありません。

ここは交通量が少ないのを幸いに、左右をよくみて、車が途切れたタイミングで、上下4車線ある国道1号線を渡ってしまいましょう。

第二名神高速をくぐってすぐ、旧道は左側へ分岐していますが、「関係者以外立入禁止」と表示が出ています。

この先の、道路の側溝や縁石、擁壁を制作している会社の敷地に入り、580m先の猪鼻交差点手前で合流していたようですが、今は社有地の中の資材置き場で行き止まりになっています。

道路の設備を造作する会社が、旧東海道道だった土地を利用したうえで、道そのものを消し去るって、なんだか文化的にデリカシーの無い話だと感じます。

静岡県の三島市塚原新田と、同じく藤枝市の水守、そして愛知県豊橋市の火打坂上と、これで旧道が消されている箇所は4回目ですが、ここは静岡県の2か所同様に、新道の道普請ゆえに旧道を消し去っているという点で、なんだかなと思います。

しかもこの先の旧道が合流していたあたりは、車道だけが掘割のなかをゆく平らな道になっていて、なぜか歩道は左側の山の斜面を上り下りするという、動力のついた車にだけ優しいつくりになっているのでした。

思うに、住んでいる人の少ない過疎地の国道をゆくと、車に優しく人に厳しい道普請が為されているって、経済優先の民主主義がもたらす悪弊のような気がします。

高齢化が進んだ今になって、車道でどんなに大きな事故が起ころうとも、一段上の斜面をゆく歩道を歩く人には何の影響もないというメリットが生まれているのでしょうが。

さて、仕方なしに国道の歩道を走って猪鼻交差点(34.919781, 136.311401)まで来たら、国道を渡りましょう。

正面の県道に入って坂を下り、山中川の橋手前を左折して入ってゆく集落が、猪鼻村と呼ばれた、坂下宿と土山宿の間にある立場です。

鈴鹿峠からずいぶんと土山宿寄りにある立場ですが、これは猪鼻立場と土山宿との間に急坂を擁する峠があったからともいれています。

(今は国道開通によりそれほどの難所でもありません。)

また、ここは草餅と強飯が名物の茶屋が並んでいました。

どちらの方向から来ても峠を越えるのに、力をつけてもらおうということなのでしょう。

立場集落のほぼ中央旧道右手に、臨済宗東福寺派の浄福寺があります(34.920687, 136.311836)。

本尊の薬師如来像は地元近江源氏の流れをくむ佐々木氏の守り神といわれていました。

近江の佐々木荘(安土駅の南、沙沙貴神社のあたり)の出身で、平治の乱(1159年)で平家に敗北した佐々木秀義の子、佐々木定綱は、伊豆に流罪となった源頼朝の家臣として、ともに関東に落ちのび、頼朝挙兵から平氏滅亡までを配下として戦いました。

その子信綱(佐々木信綱1181-1242 同姓同名で石薬師宿に登場した詩人の佐佐木信綱1872-1963とは別人)は1221年の承久の乱で戦功をたて、祖父の秀義が守護職をしていた近江の国の地頭職を取り戻しました。

近江の国の佐々木氏の領地は、長男重綱、次男高信、三男奏綱(宗家)、四男氏信に分け与えられ、これがのちの大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となります。

ここは甲賀郡にあたるので、佐々木氏の流れを汲む六角氏の領地だったと思われます。

今回は少し長くなりそうなので、ここで区切り、次回に続けます。

(つづく)