文章に魂を込めるには(2/2) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(前回からの続き)

簡潔な事務文書に一点だけウィットを加え、あとは修正前と殆んど代わり映えのしない事務連絡を上司に持ってゆくと、今度は無言でOKサインを出が出ました。

「あ、そういうことか」と納得する私。
それからというもの、各事業所向けの「海外研修旅行参加社員募集」のお知らせは、いつも私が起案する羽目になりました。
たまには私も研修に出してもらえるのかと、バーターを期待したものの忙しくて全然だめでしたが。
その上司とは3年にわたってコンビを組みましたが、あの期間に事務文書の作成については鍛えられたと思います。
おかげで、ブログではこんなグダグダな文章を書いている私ですが、「前略 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます」ではじまり、「記、日時、場所、目的・・・」を挟んで「以上」で終わる木で鼻をくくったような切り口上の文書を作成するときはタイプスピードまでが豹変し、そこにちょっとだけ読む人をニヤリとか、ホロリとさせる一文をあとから付け加えるのが得意になってしまいました。


そのうち、事業所の管理職が本部に会議で集まるようなときにも、脇で会場をつくったり、会議資料を準備したりしている自分のところにきて、「この前の手紙、なかなか面白かったよ」と感想を伝えてきたり、「もう少しこういうニュアンスを含めたほうが、一般社員により伝わると思うよ」とアドヴァイスしてくれたりするようになり、直属の上司から「浪馬クン、オジサマたちにモテモテだねぇ」などと揶揄され、「あー女子社員たちにだったら言うことないのですが」と返す私。
そこに別の上役が割って入ってきて、「浪馬さんは恋文代筆業でも社内でやったらモテるのではないかな?」と言うので、『ラブレター渡す相手がいる時点で私はただのパシリでしょうに。』と内心思いながら、そもそも会社で私は使い走りに過ぎないものの、社内で不倫の証拠メールを「全員に送信」するミスを犯すような時代だからこそ、ラブレター代筆のようなアナログ仕事が商売になったりするときがくるのかもしれないと予感するのでした。

今でも、お寺の役員さんや別のお寺への連絡文書に、「もしも自分が仏教を篤く信仰していたら」と考え、仏さまやお大師さまのニュアンスを含めるように心がけています。
そのためにも、そちらの方面の読書は欠かせませんし、分からない仏教用語が出てきたら極力自分で調べるようにしています。
但し、文章に心を込めるというのは、読む人の立場にたってとか、読者の心を打つような作文が基本ですが、そこにあまりにもおもねりすぎると、今度は自分で自分が何を伝えたかったかが分からなくなります。
事務文書のような決まりきった書式の文章作成は、そのバランスをとることを学ぶよいチャンスになると思います。


そしてここからが、本稿でいちばん言いたかったことなのですが(相変わらず、前置きが長すぎる)、電算機、すなわちパソコンで一筆入魂な文章を作成する際には、注意が必要です。
私が上司と先輩の板挟みになって動けなくなった時、販促品をもらった相手に電話してみようと思いついたのは、パソコンをいじっていたからでも、ネットからアイデアを頂戴していたからでもありません。
それは、一人旅をしていて、天候や現地の祝日を読み違えたなどの関係で、「自分はなぜここに来たのか」わからなくなってしまったようなとき、「そもそも自分の旅の目的は何だったのか」という原点に立ち返る経験があったからです。
そして、人に物事を頼むときは自分に置き換えて想像してみるというアイデアも、やはり旅をして歴史などに触れる際、自分だったらどうすればそうした行動がとりやすいかということを考えてきたからです。
こうしたことは、いくらパソコンでの文書作成術にたけていても、自分で考えて行動し、それを積み重ねた経験がないと、アイデアは浮かびません。


もうひとつ、パソコンでの作文には忘れられがちな問題があります。
もし、出来上がった文章がこのブログのようにパソコンやスマホで閲覧されるのが前提なら気にすることはないかもしれませんが、事務連絡のように、紙に出力されて読まれることを前提とした文章であるなら、草稿はできるだけ紙に書いてから、少なくとも一度は紙にだした文書に手書きで修正を加えるほうがよいと思います。
なぜなら、パソコンで文書を書いたままだと、紙の上に出された文章を読む人の気持ちになりにくいからです。
もちろん、このブログの文章も画面上で読み返して校正を何度も行います(それにしては間違いが多いのはご容赦を)が、紙の上で読まれることを前提とした文章は、やはり何度もプリントアウトして校正しないと、体裁も含めて文章を完成できません。
とくに上述してきたような、曖昧で微妙なニュアンスを文章に付け加えようとする場合、冒頭に書いたような二元論のプログラムで構成されている電子機器は、パソコンであろうと、スマホであろうと、作文が不得手に思えます。
不得手で分かりにくければ、アイデアを思いつきにくく、かつ付加しにくいのです。


ある調査では、キーボードを打つよりも紙に文章を書くほうが、脳のなかで情動に基づく長期記憶をつかさどる前頭葉は刺激されるといいます。
また、書きたいことをあらかじめ紙のメモやカードに手書きしてからパソコンに向うほうが、まとまりのある文章が書けるともいいます。
私が翻訳作業をしていたときも、紙に出力した翻訳文に手書きで修正をする作業は欠かせませんでした。
なぜなら、出来上がった文章を本にしてだすことが最初から決まっていたからです。
本当は、旅の途中にブロンプトンで走っている最中に頭に思い浮かんだ言葉をどんどんメモに書いて残しておきたいのです。
そして、メモと写真から記憶を辿って書くのが理想だと考えています。

その調査では触れられてはいませんでしたが、「読む」という行為に対しても、同様だと私は感じます。
同じ文章でも、ネット上の青空文庫よりも、本物の文庫本のほうが印象に残りやすいのです。
いまは事務連絡文書もペーパーレスになって、既読のサインをつけて返信、回答すれば紙に出さなくても済む会社が一部にはあるのかもしれません。
書籍などもどんどん電子化され、どうしても本で読みたいという人にだけオン・デマンド(個人の要望に応じて)で出版される時代が来るという人もいます。
しかし、柴田翔の『されど、我らが日々』の冒頭ではありませんが、紙の本の持つときの手に感じる重みと、ページをめくって文字を追う際の心の動き、そしてハッとするような文章に出会ったときの、そのセンテンスが光っているようにみえる、あるいは一瞬頭が真っ白になるあの瞬間は、同じ文章を液晶で読んでも感じにくいと思います。
そして、事務連絡にちょっと色を付けるような文章を入れるには、ネットの記事やビジネス書ではなく、小説や詩集を読んでいないと難しいかもしれません。

旅は、夢を売る商売ですから、夢を商うことにロマンではなくビジネスしか感じない人間に、お客さんへの共感性が持てるのかどうか、私には疑問です。

そんなわけで、私はパソコンをはじめとする電子機器への信仰は、とうの昔に捨てました。

電子書籍はどんなにポイントで釣られようとも食いつきません。

ブロンプトンで走っていて思いついて事は、できるだけ早い段階で手帳やメモ書に書き残します。

といいながら、このブログはパソコンで作成しているところが中途半端ですが、今では必要悪だとすら考えています。
今後、かりに完全かつ最終的な(笑)ペーパーレスの時代が来ても、私は紙に書きながら文章を練ったり、紙でできた本を手放したりすることはないと思います。
何でも合理化して得意がる、観念に取っ掛りのないのっぺら人間にはなりたくありませんから。
「電子機器全盛の時代が来るからこそ、紙が大量に消費される社会になる」とかつての私に力説してくれた、当時紙専門の商社に就職したばかりの友だちは、今の時代と私の意見をどんな風に思うだろう、ふとそんなことを考えるのでした。
(おわり)