Kid ⑦ | LIKE A ROLLING CUISINE

LIKE A ROLLING CUISINE

運命を拓く✨偏屈料理人のブログ
印象派の画家達に憧れ単身パリへ。しかしこんなはずではなかった!?様々な人との出会いや別れ。苦悩と喜びの日々と自身の料理哲学を綴る物語。
誰もが幸せになれないなら僕は料理を作り続けよう。


後編です。

僕の料理の旅はここで一度終止符を打つことになります。6年間を7話にぎゅっと纏めて書いてきました。色んな人に助けてもらったし、救ってもらったけれど、僕はそれでも1人でここに辿り着いたと思っていました。

何なら他人に感謝とかする必要がないとも思っていたし、自分自身ですべて決めてやってきたというよくわからない意地があった。
でもこれからはそうもいかないなと。
自分の才能と運の限界を自分自身が感じないといけない。様々な痛みを伴って僕はやっと自分の人生と自分の料理を切り離すことができた。
もう人生=料理ってカッコつけてもいかない。
もっと上には上がいたし、それを素直に受け入れないといけない。
僕はパリという街で散ったのだった。
一体何故、料理をしているのかよくわからなくなった。



びよーん

って10年後は伸びてますけど。

あの頃は敗北感と、思ったことを思ったようにやり切った感である意味すっきりしていた。


パリで僕が得たものは、芸術なのかな。

そうであると今では思いたい。

フランス料理の中にある芸術。


20歳の頃に最初にミシェルブラスから受けた講義で言われた料理の3ツの柱がこれだった。

「芸術」「愛情」「技術」

何かに迷ったり、躓いたりすると今でも必ずこの言葉に帰ってくるようになっている。

師匠はやっぱりすげぇなと思います。

今でもこれを軸に料理との折り合いを考えている自分がいます。


自信満々で毎日虚勢を張っていたけれど。

多分この中の1つも手に入れてなくて。

パリでボロボロになってようやく芸術という部分を身体に打ち込めた。

それは間違いないなと思います。

こうやって過去を綴っていくと、まだ見落としていた部分や新たに気付くこともあって料理人という職業の女々しい所に触れている。


芸術の流れは加速していた。

それは同時に料理の料理による美味しさからの離脱でもあると思っていた。美しいが旨さから離れていく料理が増えていった。

フェランアドリアがあの当時作り出した表現の自由は、その受け取り方や解釈もまた同じように自由だった。美味しさに比重を置いた料理である必要もないのだが、そもそも料理というもの自体の在り方の問題でもある。ジャーナリストや評論家たちは各々の言い回しで表現していたが問題なのは彼らの評価に世間が流されてしまったことだったのだ。食べ手たちは情報でモノを食う時代へと突入してしまったのだった。


日本でもオンリーワンを語れる料理人は稀有になってしまった。フーディーと呼ばれる優れた食べ手とされる人達がいるが、真に味わいが分かる客なんて全体の1%にも満たない。

これはどの飲食店も抱える小売店より遥かに難しい問題というかジレンマ。どの価格帯でも、どのレベルでも皆んな同じ事を言っている。

99%が詩的な表現に流されてしまっては時代を作ってきた頑固な料理人も浮かばれない。

何が大事なのかを作る側の自分たちが理解していないと何も意味が無くなってしまう。


パリで起こっていたこのムーヴメントの本質的な部分とは新しい価値観の創造であった。

カウンターカルチャーのように思われがちなのだけれども、きちんと食に向き合えるフランス人だからこそ満足感へのプロセスに目を向けられる。

その価値観に賛同する多くの支持者(フォロワー)が居たから、SNSの普及と共に爆発的に広がって(シェア)いった。


師匠たちと。世界基準とは何かを僕に教えてくれた(2013年)


僕は最終的にこの頃は組み合わせという所に行き着いていた。色んな細かいディテール的な部分もあるのだけれど、いかに簡単な組み合わせで爆発的な効果を生むかという所にこの時代の料理を感じていたのである。師匠たちは誰もが思いつきそうで思いつかない組み合わせや発想でお客さんだけでなく、働く僕らをも驚かせていたが。


値段の安い、高いではなく。

単純にこの料理の仕組みをベースに日本に帰って色々なものにはめ込んでみたいなと思っていた。

そこに得意であるナチュラルワインを引っかけて料理人の感性で生まれる新しい味わいの提案をやりたかった。この時代、まだそんなにやれる人は居なかったと思う。先取りするような形で、金儲けしたいという欲がもう少しあったら良かったのかもしれない。でも何者でもなかった自分をそんなに信じられる状態でもなかった。変に謙虚になり過ぎたのだと思う。それは若さという武器を自分で破棄したということだった。

普通はもっと生意気でオラオラしていて、荒削りでいいはずなのだが、既にそうでもなくなっていた。核心的、本質的な部分を常に追求していたからこそ静かに研ぎ澄ますという精神的なゾーンに自分から惹かれてしまったのだろう。

あまりにも早すぎた。何もかも。

一旦立ち止まるしか僕にはわからなかった。

僕のイメージだけが成熟していった。

それを具現化できるだけの力はまだ持ち合わせてなかったのかもしれない。


それから、色々な事が僕を解きほぐしていく。

中でも1番救われたのはアンディーウォーホルのこの言葉だった。


You have to be witling

To get happy about nothing.


無価値なものは進んで楽しまなければならない。


そうだよ。

自分で価値を見出す為に過去があるじゃないかと思えたのだった。日本に帰ってきて、森美術館でやっていたウォーホル展でこの言葉に出会ってかなり救われた部分があった。


松下幸之助さんも似たようなことを著書の中でよく言ってるのですが、要は自分次第みたいな話ですよね。パラダイムシフトが出来なかった自分を分かり易くより深くにスーっと連れ行ってくれたのがこの言葉だった。


今までは、初めて見るような料理とその組み合わせや技法。それも毎日の出来事。

環境やステージが勝手に僕を成長させてくれた。

望まなくても色々な人が寄ってきて褒めてくれた。でもそれは自分の力でもなんでもない。

今こそ自分と向き合う時なのだと思ったし、ここが今の考え方や能力では限界点なのだと思い知った。


営業前にサラとフランキーと(2013年)


フランス料理は

僕が思っていたよりずっとシンプルだった。

これは本当にはっきりとわかった。

だからこそ深さがあり、もちろん浅い部分もたくさんある。美味しさと美しさと強さがある。そんな料理だった。


僕はパリに出るまで自身のジャンルをフランス料理だと言ってこなかったし、そういう風に思われるも嫌だった部分が少なからずあった。

でも今こうして自分はフランス料理の料理人ですと答えることができるのはこの頃に感じた事、見た事、感動した事。そのすべてがベースにあるし、それをフランス料理に着地させたいと思うから。


パリ11区のル・シャトーブリアンに見に行ったものは真っ当なフランス料理だったのだ。

だが、それで良かったし報われた。

このレストランがパリにあってくれたこと。

ここで働けて皆んなと会えたこと。



当時の心境を10年前に書いたものです。

クリエーション出来なくなっていく自分を自分で受け入れられなかったのだろう。

どうした自分?

という感じでかなり焦りました。

でもアーティストのクリエーションする期間ってとても短いから貴重なんですね。

宮崎駿さんの風立ちぬを観て余計にそう思えるようになりました。


今は食材からのインスピレーションが大きい。

何故かというと食材は常に状態が違うから。

本を読んだり、旅行をしたり、映画を観たり、人と会ったり...。そこから料理に還元できることはどんどん少なくなっていった。

無価値なものは進んで楽しまないといけないように。テンションに左右されることが多過ぎるのである。この頃から何に光を見出したらいいのかわからない日々が続いていったのだ。


日本人の友人たちと最終会。各々が今も第一線で頑張っている(2012年)


シンプルがいいのは。

フランス料理らしい気高さを感じるから。

そして素材へのリスペクト。

形も変えないし、自然へのリスペクト。

僕はその中で戦いたいなと思った。


やり方や向き合い方はシェフ達がきちんと教えてくれた。後は僕が自分自身と、自身の料理とどう向き合い付き合っていくのかだった。

そこに自分が在ること。

モノマネだけはしたくないなと。

それは多分きっとシンプルな料理なんだろうなと思い自分の方向性はある程度この頃に見えたのだった。


より追求していくこと。

そして何より自分自身が料理を通じて幸せになること。そう思い、この街を後にした。


現時点での僕のキャリアハイ。

行けるとこまで行った結果。

後悔だらけの旅だったけど、フランス料理をやってきてよかったなと思えたのだった。


ずっと使われる側だった見習い時代から、フランス人をやっと使えるようになった。

認められるということは難しい事だけど、その信頼の先には仕事という奥深いものがあった。

色んなやり方があっていい。

けれども僕には苦労することと、最短距離で行くということが性に合っていたのだろう。


次回からは日本での日々編です。

さらに沼にハマっていきます。