営業終わりのディスコ前アペロ。ここから各自が踊りに行く(2012年)
何が足りなかったんだろう?
僕は踏み止まれなかった理由を探していた。
やっぱりそう甘くは無かった。
でも僕なりにやり切ったという実感はあった。
日本で貯めた100万円も残り少ない。
地方にいる日本人の友人から色んな話を貰ってはいたが、もう僕の小さなプライドがそれをさせない。日本から空を越えて現金1万円が入った手紙が彼女から送られてきた時は本当に滅入ってしまった。
誰かを傷つけても、嘘をついても、何だって目標の為なら飲み込んできたけれど。
もうどうにも進めなくなった。
誰も助けてくれない。
挫折でも無い劣等感に深く落ち込んだ。
その頃シャトーブリアンでは小さな変化が起きていた。どうやら厨房スタッフの皆んなが僕をここで働かせるべきだとシェフのイナキに進言してくれていたらしい。
洗い場のアフリカ人のアマディも頼んでくれた。
僕は料理は99%センスだと思っている。
それは今も変わらない。目に見えない努力だとか人間性だとか、そんな部分は1ミリも味わいには関係ないと思っている。頑張れば成果が出るほどモノ作りの世界は優しくないよ。自分に自惚れず、自分という人間をこの料理の世界の何処に立たせるのか?自分自身で。そんなとこだ。
僕は半分日本に帰るつもりだったが、皆んなが僕を引き止めてくれた。
私が、俺がシェフに言ったんだと厨房の皆んながそれぞれ迎え入れてくれた。君と一緒に働くことはC'est bon(それは良いの意味)なんだと。
ヤマト!
あなたは私たちのエスプリ(精神を意味する言葉)をきちんと理解しているわ。そしてここでの少しのジョークや冗談も。
かのホテルムーリスのヤニックアレノは朝、鏡の前で丁寧に髭を剃っていることだろう。真っさらな丈の長いタブリエとコックコートで正装してデシャップの前へ。
しかし、僕らは無精髭を生やし、中国人街で買った2.5ユーロのTシャツと青の支給されるタブリエ。キッチンに皿を温めるウォーマーも無いからバーナーで皿を炙って温めた。麺棒がないときはモップの柄で生地を伸ばしたっけ。
これが僕たちのガストロノミーへの解答だった。
蓋を開けてみれば世界9位だって。
ほとんど漫画みたいな話だ。
でも世界で1番熱い場所だった。
盾となってくれたのはローマ人のアガタ。かつてのパスカルバルボ(アストランス)の右腕だ(2012年)
ポリシックスが好きだったジョアキム。クリヨン時代のJFPのスーシェフだった。ピェージュも店によく来てくれた(2012年)
アルベール(左)ともまたチームとなった。現在ではポール(右)と2人でル・マキというビストロを18区でやっている。2019年のパリベストビストロに選ばれた。
ここに僕を加えた5人で主に戦っていた。
彼らはすごいメンバーだった。
個々の能力が高いのはもちろんなのだが全員がユーモアに溢れ、自分の個性を仕事にきちんと反映させてみせた。このレストランでの技術的な仕事はある程度経験のある料理人なら務まるだろう。無茶苦茶な職人芸のような事を求められるわけではない。しかし、このレストランで際立った存在感を出せるのかどうかが本当の意味でイケてる料理人なのかどうかだった。僕は試されるように、しかし自分でも自分自身を試していたのだろう。チーム全員がまだ20代だったし、ノリに乗っていた。でも僕たちは会うべくして、このレストランで同じ時期に一緒に働いていたような気がする。それぞれがフランス料理の中に、それぞれの料理の中に求めているものがここには確かに存在していたのだから。
たどり着いたのだ。
自分たちがパリの先頭を走っていることは疑いようがない。サンペレグリノのランキングもフランスで最上位だった。このフランス料理の行く末を自分たちが少しだけ握っているという高揚感。イニシアチブはかつての3ツ星レストラン達にもう無かった。
なんだろう、この感覚は。
時代のド真ん中にやってきた。
やってやろうじゃないか。
いつ以来の心臓の高鳴りだろうか。
今、料理人としてココに立てていることが何よりの証拠なのだから。
日本中の料理人の中で瞬間最大風速的にはベスト5に入っていたと思います。
それくらい僕にとっては大きな出来事でした。
この頃23歳。
ここまでは本当に上手く物語は進んでくれた。
イメージと現実は噛み合っていたから。
半分はハッタリで、半分は運で。
料理人としての20代の多感な短い時期をこのレストランに捧げたことを今でも誇りに思っている。
僕の料理観を大きく変えた凝縮された1年だった。たった1年だけど、もうそれだけで十分といえるほどの収穫があった。
あの時代、フランス料理への期待値は無かった。
僕ら新しい世代ができることは、新しい流れを作るっていうことだった。それは僕ら自身がフランス料理へ新しい期待を抱くという意味を込めて。
パリは才能がある若い料理人で溢れていた。
それはかつてもっと若かった頃に地方で見てきたものと違うものだった。あの頃はこれがフランスの頂点だと思ってやっていたのに、もっと上があった。すごい。
セプティーム、ドーファンと懸命に働いて繋いできた僕にとってはシャトーブリアンでの仕事は天国みたいな場所だった。
もちろんプレッシャーみたいな部分はある。
けれどもドキドキする気持ちが常に優っていたから何も気にならなかった。
厨房に舞い戻った僕。
1番下っ端。
でもそういう感じがしないキッチンでもあった。
皆んなでメニューを考えて、皆んなで仕込みをして、皆んなで仕上げていく。サービスが追いつかないときは料理人も運ぶ。
朝は無く、昼下がりから出勤する。
あの頃は14時出勤でした。
ダラダラ仕込みをするのでは無く、ばばばーんと一気に集中してやっちゃうレストランだった。
でも毎日80名超の予約が待っている。
それは背後にずっと感じている。
オラー。
サリュー。
ボンジュール。
皆それぞれ半開きのシャッターを潜って出勤してくる。だいたいエスプレッソを飲みながら週末ののプレミアリーグの話やランチで食べてきたものの話題で盛り上がってる。30分くらいしたら厨房に移動して今日入荷した食材を皆んなで確認する。で、もう1杯エスプレッソを飲んでからようやく着替える。
シャトーブリアンのメニューは毎日構成は同じ。
アミューズ5品
前菜
魚料理
肉料理
デザート2品
ミニャルディーズ
といったものだ。
ただ、何を出すかは決まっていない。
ここに入荷した食材を加えていって毎日メニューを皆んなで作る。昨日のメニューの裏紙に食材の名前だけを各々が書き込んでいく。僕ら料理人もその日お皿の上に盛り付けるまで、完成は誰にも見えていない。仕事をしながら5人がお互いの動きを見ながら仕込みの順番や食材を加熱したり、生だったりを微調整していく。
本当に毎日がジャズのセッションをしているようだった。もちろんこういう仕事がやりたかったことだったし、それに対応できる程の知識や技術、何より料理人としてのフィーリングはパリにきてからずっと準備してきた。皆んなの足手纏いにならないように、皆んなにやりたい仕事、やりたい料理をやってもらいながら僕も自分の色をだんだんと出していった。今年レアルソシエダでブレイクしたサッカーの久保建英くんじゃないけど、周りができると自分のプレイも急によくなったようになるのだ。
自分が周りの為に、周りが自分の為に、それぞれ仕事をしてくれるから。
しかし、毎日がこれだから成長は爆発的だ。
限界まで目一杯突き抜けようと思った。
夜は短い。あの頃はすぐ朝がやってきた(2013年)
楽しい日々は続いた。
僕はこの頃にフランス料理への1つの仮説を打ち立てた。新しい料理が今日も次から次へと生まれているし、画面をスクロールするだけでそれらと簡単に出会える。でも、どんどんと刺激は薄くなっていく。僕が愚かだったのは、このシャトーブリアンであったり、以前働いていたミシェルブラスでさえ突然変異的に出現したレストランだと思っていたことだ。
そう。
この頃抱いた疑問とその仮説は単純に、それらすべてのレストランやシェフはフランスの食文化の中に偶然ではなく必然的に生まれているものだという事だった。これを考えることによって自分という存在も必然的に今ここで料理をしていると思えるようになった。誰かが蒔いた種を拾ってここまできたのだ。そして僕がまた日本でそれを蒔くのだろう。
独学で成り上がったシェフ達に憧れていたし、自分もそうなりたいと思っていた。
パリに来て、自分の料理はどんどん簡素化されていった。これは今もずっと続いている。
気の遠くなるような作業や手間がかかる料理こそが本物だと思っていたけれど、どうやらそうでもなかった。サスティナブル、エシカル、SDGsかなんか知らんけど、また言葉だけが一人歩きする料理の世界だ。そんなこと言ってる奴が美味しい料理を作れる気がしないのは僕だけか?
どんどん仕事を増やしていって中間管理職みたいなことやってる。側から見ているとほぼほぼ自己満足のように見える。料理人ってそうか?そんな仕事やっけ?そんなんやりたいんやったら最初から官僚にでもなっとけよ。社会から弾かれたから料理人やってるんじゃないの?無理に社会の一部になろうとしなくてもいい。
ロックも料理も水モノよ。だからいいやん。
慌てて自分の存在を軌道修正しようとしてる輩が多過ぎる。やらなければならない事はひとつ。美味しいものを作るということ。それで小さな世界が救われるんならやってやろうと思えるよね。
誰かを救うよりも、自分が救われたい。
これが本当は本音。
そんな他人を思いやれる大人になんて僕はなれないから。だから料理くらいは作らせてもらいたい。
サクレクール寺院の特等席。煮詰まったときはモンマルトルからパリを見渡した(2013年)
うわ。
カッコええわー。ってやつをあんまり今までは見てこなかったんだなと思ってしまって。
そこの部分がパリではすごく感じたところ。
料理に関してプロセスや技術的な部分ではなくて、表現方法やその落とし所に若い僕はすごく打ち抜かれた。実際に生活しながら、街に溶けていくうちになんかこう、物の見え方が変わっていった。お皿の上から放たれるオーラのような雰囲気っていうのかな。そういった目に見えないものへの価値観こそが料理人として階段を上っていくうえでとても重要なものだった。
綺麗な佇まいというのは、汚い部分もきちんと、仕舞われているからそう映る。
料理をやり込めば、やり込むほどにその汚い部分と付き合っていくことになる。そういった人間臭さをどう反映させていくのか。ここでの仕事は言うなれば極上の「サボリ」と「手抜き」からなるものだった。肌に合わない料理人はもう我慢できなくなるだろう。お前ら何やってんだ?と。
でも僕らはこれで料理界に金字塔を打ち建てたのだから実に痛快であった。すべて分かりきった上でのこのスタイルであったから。結果としてカウンターカルチャー的にフットワークの重いレストラン連中の横っ面にパンチを浴びせたのだ。
付き合う人も変わっていった。若い頃はいつでも脱皮できる環境作りを(2012年)