秋も紅葉が終わる頃。
再びまた1歩を踏み出そうとしていた。
これは料理というよりも、どちらかというと味わいについてもって追求したいという思いだった。
フランスでやれなかった事をやるべきは今だった。それは僕の中では割と確信めいていて、日本でしか手に入らないような食材を使うということだったのだ。
皆んな帰国組はいつの時代になってもアレが無い、コレが無いと言うけれども。そもそもそういう思考がナンセンスで魚だって肉だって日本の方が美味しいのだから何故それで勝負しないんだろう?積極的にならないのだろう?とずっと思っていた。
実際に今の若い世代は日本に積極的だ。
食材に調味料に器まで。
本質思考だから。
ひと昔前の世代はフランスという服を着ないと料理を作れなかった。未だにそういうお客さんもいたりもする。えぇと、まぁやっぱりイメージの問題か。
僕も渡仏する前はアレがコレがだったけれど、いざ行って生活して仕事をしていく中で日本の食材の豊かさに気が付いていた。実際に向こうで、あーアレがあればなぁと思うことも多々あったのだ
僕が初心に立ち帰れたのは間違いなく日本の食材の素晴らしさからだった。自然っていうところにずっとフォーカスして料理をやってきたはずなのに、本当の意味で自然を自分の料理に落とし込めていないことに気が付いた。まだ底があるなと思って新しい境地にのめり込むことができたのだ。
人生においての料理のスタンスみたいな部分は自分の中である程度はできていたので概念的な部分でもっと輪郭から自分の料理を作りたい。
その終着点を見たい。
そう思って...
好みのシンプルはそのままに。
逆に手をかけない、やり過ぎない、そのまんまという方向性と可能性に踏み切って。
そのすべてに作為を持って表現するという。
僕にはそういう料理がやりたいなと思ったのだ。
自分にとってのオンリーワンは、今日ここに自分が居ないと作れない料理を作ること。
以前までは自分にしかできない仕事をしたり、作れない料理を作ることをイメージしていたけど、もっと具体的に今日、今ここでとライブ感のある料理と料理人にならないといけない。
それは常に食材と共に。
同時にリアルタイムな食材と向き合いたかった。
雨の日に同じように雨に濡れた野菜と。
今は調味料をはじめ、野菜や肉や魚に至るまでを生産者から直接買って彼らと繋がるようにしている。僕の料理のスタイルは季節や旬といったものではなく、もっと短い瞬間的で断片的なものに依存していくものだ。
それは抽象的なものではなく、野菜の形であったり色であったり...海老が赤くなった様子であったり。料理人として心躍るその時々を料理に表現していくということである。
僕は自分の料理の根幹となる食材の旅に長い時間をかけて歩いていって、今ここにいる。
僕にお野菜を提供してくれている石原農園さん。
彼のお野菜を使いはじめて全ての概念が変わった。かれこれ6年くらいのお付き合いになります。自然農法での野菜作りを行なっているのですが、当時は農法や栽培にまったく無知だった自分には目から鱗でした。自然農法のお野菜を食べることで味わいについての謎が解き明かされ、一気に視界が開けました。24時間、365日の同じ時間軸の野菜を使うことが何より重要だった。肥料で誤魔化された味わいは最終的にシンプルな料理とズレていくのだ。
僕の料理がシンプルになっていく中で味わいの核になったのは他でも無い「塩」そのものでした。
今では自分を育ててもらった故郷の海の天日塩を使っています。太陽光と風だけで自然に蒸発させたナチュラルな塩です。塩釜で熱して蒸発させる塩と違って味が歪なのが好きです。
エレキギターでいうファズの音だと思っている。
自分の人間としてのルーツをこの塩に感じていて、自分の何かを料理に投影する際にこの塩でなければと思っています。
お魚は定置網漁をされている九石大敷さんから。
同級生に紹介してもらった漁師さん。
もうずっと魚はここしか使っていない。
同じ海で獲れた魚と塩をリンクさせることで僕なりの還元を表現している。船上で締められる魚は魚屋さんのソレとはワケが違う。いくらいい魚を活かして港に持って帰っても出ない味が魚の中にある。魚屋にしても、ワインのインポーターにしても、自分の商品の良いところしか言わないでしょう。それには裏側が必ずある。
健康で安全な美味しい牛を提供してくれている谷本牧場の谷本聖くん。彼の登場で僕の料理観はよりシンプルに本質的なものに向かっていった。
レバーやハツのような内臓が美味しいと思えるようになったのは彼の牛肉があってこそ。
皆んなと付き合っていく中でわかったのは、こうして欲しいというわけではないということ。
任せられる。託される感じだった。
僕が美味しくしてやろう。みたいな感覚はあまり自分には無くって、どちらかというとあまり手をかけずに出したいのだ。それが僕の彼ら生産者へのリスペクトの気持ちと表現である。
食材にこだわるってことは僕はそういうことだと思っている。そのままで美味しい素材を使えるのは本当に幸せなこと。でも1番難しい。
自分をその味わいの中で表現することが。
今ではそこに楽しさを感じている。
娘が生まれてフッ切れたことがある。
ダラっと生きないということ。
もうしばらく攻めていこうと思っていた。
色んな意味でもっとヒリヒリしたかった。
ギリギリが好き。イライラが好き。
そういう部分では、
住む場所を変える。
付き合う人を変える。
時間配分を変える。
というものをかなりガラっとやった。
何かの本で読んだ3原則です。
人生で迷ったらいつもこれをやることにしている。
住居も仕事も毎日の過ごし方もたくさん変えた。
そうした中で見えてくるものは自分はもう若くないということだった。やってきたことを成熟させるフェーズに達していて、そういう環境が次に必要となっていた。
表現する場所と時間を作る代わりに生活に折り合いをつけないといけない。
そして、僕が次に選んだ場所は何故か餃子屋だったのです。小さい頃、僕の得意料理のひとつがチャーハンでした。ずっとコレをやってみたいなというのがあって、すぐ餃子屋に就職しました。
そこには迷いが無かった。
東京やら大阪やら海外も、色んな場所から様々なオファーを頂いたのですが餃子屋でした。
餃子は1日300人前。
個数にすると約1800個。
大きな中華鍋ではチャーハンを振りながら。
デシャップに飛び込んでくる伝票の数とスピード感は3ツ星レストランでも見た事ないような破壊力でもうカオス(笑)
世界のトップレストランの一角から中華チェーンへのステップアップ。僕にとっては初めてのことなのでアップなんですね。
いや、日本のチェーン店はやっぱりすごいな。
これはムチャクチャ勉強になった。
仕組みの作り方とやり方。
1年くらいすると関西では1番早く仕事ができるようになった。ある程度できるようになって自惚れていた自分にはこれは良い薬であった。
高性能マシンの料理人はどこにでもいるんだと。
ただ何をやっているかの違いだけ。
と、同時に日本の食育レベルの低下も気になった。いくら外食産業のレベルが向上しても、賃金が上がらない。労働環境が良くならないのは日本における食育にもどこか原因があるのではないかと疑問に感じるようになった。
なんでもやってみる。
がこんなにしっくりきたことはなかったから。
意味が無い事にどれだけ意味を探せるか。
風向きは多少なりと追い風へとなっていった。
僕は仕事と引き換えに時間を手にした。
思いつく限り色んな場所に足を運んで今のようにイベントを開催していった。
レストランではないストリートでの出稽古。
これがずっとやりたかった料理的な旅。
火口もカセットコンロ。
洗浄機も無い。
最低限の設備でも1人で多い時は70〜80名のお客さんを相手にしていった。
イベント慣れしていくと、オーガナイズする能力や手の速さは自分でも驚くほどレベルアップしていった。作りたい料理が溢れてくる。
まだまだやれるぞ。
生み出していけるぞって。
そうした中でかつての旧友と再会する。
すぐに意気投合した。
気が付いたら店を一緒にやっているほどに。
僕は家族を連れて大阪から神戸へと居を移した。
楽しい2年間であった。
お店を維持させていく、成長させていくことの難しさも改めて感じさせられた。
料理の中に込めた魂や精神の行き場がやがて無くなっていく。シェフが2人いるということはきっとそういうことなんだろう。これは難題。
何より大切なのは込めたメッセージなのだから。
それが料理人におけるパッションとアイデンティティだ。僕は良いものを作ろうと頑張るときはやはり協調性が無いらしい。
すごくお客さんを見て料理をする癖がついてしまったなと思う。思い切って自分の料理を作ることを何となく放棄していた気もする。
光と影。
影を封印してしまった僕の料理があった。
本当にちょっとしたことなんだけども。
ちょっとしたことは大きく最後を変える。
言葉や数値に置き換えられるようなことをやっているわけではないんだ。
かと言って感覚のようなものでもない、不確かな曖昧なニュアンスの中に本物は潜んでいる。
瞬きもできないような夏が来ると思っていた。
気がつけば時が過ぎているような気がしていた。
でもそんな事はない。
現実はいつも1秒ずつだ。
それは食材に教えられたことでもある。
約束された時間を破ってはいけない。
自然の法則に従い、過度なショートカットをしない。今思えば人生の中でもそんな場面がいくつかあったのかもしれない。その都度に最短に最速でと意識し過ぎたのは自分なのかもしれないと、この歳になってようやく思うことでもある。
味わえなかったから。
何の味かもわからないような時期があった。
完成ばかりを意識するあまりにそのプロセスを軽視してしまう。結局は料理人もそのひとつずつのパーツに気を張るようになる。
春が遠かった。
今、そして僕は何をする?何処へ向かう?
もう少し目を向けてみたいのは世界。
ちょっと意固地になっていたから、もっと明るく前向きに変わっていくであろう料理に期待して。
まだそんなに凝り固まる歳でもないのかな?をずっと繰り返しているけれど、確信を持たずに探求することもまた一考。
変わりたいというよりも。
その何かをきっと掴みたいのだろうと思う。
最近は料理を食べてくれた人が自分の料理を真似して同じものを作ってみたと言ってくれる。
これはとても嬉しい。
そんな日常的な料理でありたかった。
もう何処へ行っても料理を作れる。
自分らしいひと皿を。
誰かに作れそうで作られない。
そんなひと皿を。
ピース。
びよーん
って10年後は伸びてますけど。
あの頃は敗北感と、思ったことを思ったようにやり切った感である意味すっきりしていた。
パリで僕が得たものは、芸術なのかな。
そうであると今では思いたい。
フランス料理の中にある芸術。
20歳の頃に最初にミシェルブラスから受けた講義で言われた料理の3ツの柱がこれだった。
「芸術」「愛情」「技術」
何かに迷ったり、躓いたりすると今でも必ずこの言葉に帰ってくるようになっている。
師匠はやっぱりすげぇなと思います。
今でもこれを軸に料理との折り合いを考えている自分がいます。
自信満々で毎日虚勢を張っていたけれど。
多分この中の1つも手に入れてなくて。
パリでボロボロになってようやく芸術という部分を身体に打ち込めた。
それは間違いないなと思います。
こうやって過去を綴っていくと、まだ見落としていた部分や新たに気付くこともあって料理人という職業の女々しい所に触れている。
芸術の流れは加速していた。
それは同時に料理の料理による美味しさからの離脱でもあると思っていた。美しいが旨さから離れていく料理が増えていった。
フェランアドリアがあの当時作り出した表現の自由は、その受け取り方や解釈もまた同じように自由だった。美味しさに比重を置いた料理である必要もないのだが、そもそも料理というもの自体の在り方の問題でもある。ジャーナリストや評論家たちは各々の言い回しで表現していたが問題なのは彼らの評価に世間が流されてしまったことだったのだ。食べ手たちは情報でモノを食う時代へと突入してしまったのだった。
日本でもオンリーワンを語れる料理人は稀有になってしまった。フーディーと呼ばれる優れた食べ手とされる人達がいるが、真に味わいが分かる客なんて全体の1%にも満たない。
これはどの飲食店も抱える小売店より遥かに難しい問題というかジレンマ。どの価格帯でも、どのレベルでも皆んな同じ事を言っている。
99%が詩的な表現に流されてしまっては時代を作ってきた頑固な料理人も浮かばれない。
何が大事なのかを作る側の自分たちが理解していないと何も意味が無くなってしまう。
パリで起こっていたこのムーヴメントの本質的な部分とは新しい価値観の創造であった。
カウンターカルチャーのように思われがちなのだけれども、きちんと食に向き合えるフランス人だからこそ満足感へのプロセスに目を向けられる。
その価値観に賛同する多くの支持者(フォロワー)が居たから、SNSの普及と共に爆発的に広がって(シェア)いった。
師匠たちと。世界基準とは何かを僕に教えてくれた(2013年)
僕は最終的にこの頃は組み合わせという所に行き着いていた。色んな細かいディテール的な部分もあるのだけれど、いかに簡単な組み合わせで爆発的な効果を生むかという所にこの時代の料理を感じていたのである。師匠たちは誰もが思いつきそうで思いつかない組み合わせや発想でお客さんだけでなく、働く僕らをも驚かせていたが。
値段の安い、高いではなく。
単純にこの料理の仕組みをベースに日本に帰って色々なものにはめ込んでみたいなと思っていた。
そこに得意であるナチュラルワインを引っかけて料理人の感性で生まれる新しい味わいの提案をやりたかった。この時代、まだそんなにやれる人は居なかったと思う。先取りするような形で、金儲けしたいという欲がもう少しあったら良かったのかもしれない。でも何者でもなかった自分をそんなに信じられる状態でもなかった。変に謙虚になり過ぎたのだと思う。それは若さという武器を自分で破棄したということだった。
普通はもっと生意気でオラオラしていて、荒削りでいいはずなのだが、既にそうでもなくなっていた。核心的、本質的な部分を常に追求していたからこそ静かに研ぎ澄ますという精神的なゾーンに自分から惹かれてしまったのだろう。
あまりにも早すぎた。何もかも。
一旦立ち止まるしか僕にはわからなかった。
僕のイメージだけが成熟していった。
それを具現化できるだけの力はまだ持ち合わせてなかったのかもしれない。
それから、色々な事が僕を解きほぐしていく。
中でも1番救われたのはアンディーウォーホルのこの言葉だった。
You have to be witling
To get happy about nothing.
無価値なものは進んで楽しまなければならない。
そうだよ。
自分で価値を見出す為に過去があるじゃないかと思えたのだった。日本に帰ってきて、森美術館でやっていたウォーホル展でこの言葉に出会ってかなり救われた部分があった。
松下幸之助さんも似たようなことを著書の中でよく言ってるのですが、要は自分次第みたいな話ですよね。パラダイムシフトが出来なかった自分を分かり易くより深くにスーっと連れ行ってくれたのがこの言葉だった。
今までは、初めて見るような料理とその組み合わせや技法。それも毎日の出来事。
環境やステージが勝手に僕を成長させてくれた。
望まなくても色々な人が寄ってきて褒めてくれた。でもそれは自分の力でもなんでもない。
今こそ自分と向き合う時なのだと思ったし、ここが今の考え方や能力では限界点なのだと思い知った。
営業前にサラとフランキーと(2013年)
フランス料理は
僕が思っていたよりずっとシンプルだった。
これは本当にはっきりとわかった。
だからこそ深さがあり、もちろん浅い部分もたくさんある。美味しさと美しさと強さがある。そんな料理だった。
僕はパリに出るまで自身のジャンルをフランス料理だと言ってこなかったし、そういう風に思われるも嫌だった部分が少なからずあった。
でも今こうして自分はフランス料理の料理人ですと答えることができるのはこの頃に感じた事、見た事、感動した事。そのすべてがベースにあるし、それをフランス料理に着地させたいと思うから。
パリ11区のル・シャトーブリアンに見に行ったものは真っ当なフランス料理だったのだ。
だが、それで良かったし報われた。
このレストランがパリにあってくれたこと。
ここで働けて皆んなと会えたこと。
当時の心境を10年前に書いたものです。
クリエーション出来なくなっていく自分を自分で受け入れられなかったのだろう。
どうした自分?
という感じでかなり焦りました。
でもアーティストのクリエーションする期間ってとても短いから貴重なんですね。
宮崎駿さんの風立ちぬを観て余計にそう思えるようになりました。
今は食材からのインスピレーションが大きい。
何故かというと食材は常に状態が違うから。
本を読んだり、旅行をしたり、映画を観たり、人と会ったり...。そこから料理に還元できることはどんどん少なくなっていった。
無価値なものは進んで楽しまないといけないように。テンションに左右されることが多過ぎるのである。この頃から何に光を見出したらいいのかわからない日々が続いていったのだ。
日本人の友人たちと最終会。各々が今も第一線で頑張っている(2012年)
シンプルがいいのは。
フランス料理らしい気高さを感じるから。
そして素材へのリスペクト。
形も変えないし、自然へのリスペクト。
僕はその中で戦いたいなと思った。
やり方や向き合い方はシェフ達がきちんと教えてくれた。後は僕が自分自身と、自身の料理とどう向き合い付き合っていくのかだった。
そこに自分が在ること。
モノマネだけはしたくないなと。
それは多分きっとシンプルな料理なんだろうなと思い自分の方向性はある程度この頃に見えたのだった。
より追求していくこと。
そして何より自分自身が料理を通じて幸せになること。そう思い、この街を後にした。
現時点での僕のキャリアハイ。
行けるとこまで行った結果。
後悔だらけの旅だったけど、フランス料理をやってきてよかったなと思えたのだった。
ずっと使われる側だった見習い時代から、フランス人をやっと使えるようになった。
認められるということは難しい事だけど、その信頼の先には仕事という奥深いものがあった。
色んなやり方があっていい。
けれども僕には苦労することと、最短距離で行くということが性に合っていたのだろう。
次回からは日本での日々編です。
さらに沼にハマっていきます。