LIKE A ROLLING CUISINE

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運命を拓く✨偏屈料理人のブログ
印象派の画家達に憧れ単身パリへ。しかしこんなはずではなかった!?様々な人との出会いや別れ。苦悩と喜びの日々と自身の料理哲学を綴る物語。
誰もが幸せになれないなら僕は料理を作り続けよう。


「それはフランス料理では無かった。」

ガストロノミーの終着点はおそらく西洋には無いものだと思っている。

ここまで来て、敢えてもう棄て去らないといけない。

でも、ずっと考えていたことだ。

ようやく腑に落ちた。

 

実際に仏にも渡り、西洋の文化や歴史から多くのことを学びました。
憧れや感動はあっても、それを捉える私のまなざしは日本人によるものでした。


ある日、美術館で見た山下清さんが描いたパリの空は驚くほど青くうつくしい空だった。

これには正直はっとさせられた。

私は辛いことの方が多かったのでこんなにきれいな空に映ったことは無かったからだ。

いつも曇っていて、澱んでいて、スカっとしなかった。
何故、天才にはこんなにも鮮明に映るのだろうか。たまたま晴れていたにしても鮮やか過ぎる。


たとえばゴッホやモネが描いた日本の絵もそう。
彼らが描いた日本の絵は、もしかしたら本当の日本ではないのかもしれない。でも彼らが見た日本というのがそこには確実に存在しているというのが事実としてある。


我々がビートルズを聞いて良いなと思う部分と西洋の人が良いなと思う部分の一致しているところと日本人だけが感じるところがある。その微妙で実は大きな隔たりが我々日本の料理人にはビジュアルや佇まいとなり浮かび上がってくる。

これは抗えないものだし、その部分を自身の料理の中に混在させることが、味わいの面でもビジュアルの面でも、研鑽を重ねるにつれだんだんと苦しくなっていった。しかしそうした時間を経て、食べるという人間の根源的な行為に料理という概念が生まれ、そこに人々が芸術性や美しさを見出す理由を再認識するに至った。

南阿蘇を舞台にした新しいプロジェクトは2年前に始まった。

 

南阿蘇で滾った僕の中にある日本人のDNA。
今まで自身の料理哲学の内にあった無数の点であった思想や疑念を1つずつ繋いで核心に迫る必要があった。
今、頭の中でモヤモヤしているものの正体がまったく新しい料理であることを示唆していたからだ。

 

いつかやりたかったけど形にならなかった料理。
そうした料理の多くはこのモヤモヤをクリアにできないが為にテーブルに乗ることはなかった。

 

まず始めたのは日本の歴史についての勉強。
神道・仏教から始まり、現代史に至るまで。
一般的なものから、逆説までも幅広く書物を読み日本人についてを掘った。

これは自分自身を知ることでもあった。

日本各地のキーとなる神社や寺にも積極的に足を運んだ。
ここが今回の料理でのベースになると踏んでいたからだ。

阿蘇には実際に遺跡もたくさんあり、縄文~弥生時代を匂わせるものが多々ある。

邪馬台国の九州説もあり、日本の根源を感じ、ある程度手つかずで現代に姿を残している。
歴史の中で衣食住が文化的に根を広げ、食は日本料理となっていく。
そうした中で浮かんで見えてきたのは人間の美に関しての普遍的な進化だった。

 

ここが何故か僕が料理の中で最終的に行き詰っていた原因であったと理解できた。
視界が一気に開けていく。

 

この地点からはじめたいのは、新しい現代的日本料理。


現存するローカルガストロノミーの上位互換をやりたいのではなく、まったくの別角度から今の日本のガストロノミーへの対抗軸と前提をずらすような料理と戦略をずっとこの2年間練り上げてきました。

これは本当に楽しく、胸の高鳴りが止まない作業でした。

前者を否定したり批判したりするものではなく、再解釈でもない。

それは明らかな思想ベースであり、非西洋的なビジュアルで原始的なイメージだった。

太古の人々が今の人間の感性や哲学を持っていたなら完成させていたのかもしれないし、僕がそこへタイムスリップしてそこであるもので作ったかのようなものとなった。洗練され、グラフィックで、デザイン的な料理となっていくシーンに敢えて逆張りできる。

 

今の日本のローカルガストロノミーは地方における食や文化、歴史の再解釈と再評価に過ぎない。

地方の活性化や第一次産業の普及には繋がるのだが、料理に関してはただの西洋料理の延長線上にある表現である。

ものすごく客観的に見るとそういうものだと思っている。

 

現代の料理人は良い食材を集め、良い調理器具を揃え、情報に溢れていて、自身の比較対象をたくさん持っている。

しかし私の知る限り、この15年で真新しい革新的な料理は出てこなかった。

 

今回、新たに始めるプロジェクトのコンセプトと決め事を一通り作り上げた後、自分の頭の中にある料理哲学と世界観、試しに作ったコース概要を生成AIにすべて読み込ませた。その上で、この世界観で日本における〇〇と〇〇を超えるローカルガストロノミーを打ち出すことは可能か?と問いました。

 

その昔、パリで日本人に「あなたは何料理がやりたいの?」と聞かれたことがあった。

その時は答えることができなかったが、今思い返してみれば当時も今もジャンルとして存在していない料理だったから答えようがなかった。

それが今、十分に可能になり鮮明に描けるまでに至った。

 

ここまで連れてきてくれた周りの人たちのサポートに感謝しつつ、阿蘇という日本が宿る地で新しいチャレンジを行いたいと思います。このレストランの以前・以後という語られ方を後にされるようになれば素晴らしいことです。

 

そして、ずっと僕のフランス料理のファンでいてくれたお客様にも感謝しています。

もうこれで降ります。ずっと苦しかったし、最後はとても窮屈だった。
白いお皿と、とびきりシンプルな料理に西洋人と同じ美を見られていたのなら、この旅は本望でした。

僕は日本人が見た日本に次なる料理の未来を創造します。

 


春が来た。
と思えばすぐ寒くなりました。

東京から新幹線で帰っています。
少し気分的にも、頭の中もすっきりしてきました。雨がやけに心地よかった。もう3月だった。
上野公園で旧友とコーヒーを飲みながら、落ちる雨に昔話を聞かせていた。

自分の中でひとつ区切りというか、ようやくそうした決心ができる所まで来ました。

3月の全イベントをもって、僕はフレンチシェフという看板を下ろすことにしました。

フランス料理人のプライドを持って料理を作ってきたつもりです。それは譲れなかった。曖昧にしようとも思わなかったし、そうであることに拘りたかった。

僕はそれはシンプルな料理にこそあると思い、そうした仕立ての料理を長らく続けてきました。
本物の食材が放つ香りや風味を全面に押し出した真っ直ぐで真っさらな料理を。

料理人として、

手を極力加えずにシンプルな料理を提供するというのは一種の美学です。
それは食材を作ってくれた生産者や魚や野花を育んでくれた大地(テロワール)そのものへのリスペクトの精神でもある。でもこれはどこかフランス的な要素でもあるのです。日本人的な美意識がここに入り混じったものが簡単に言うと僕の料理だったのだと思います。

働きたかったレストランは25歳までにすべて働けた。もっともっと修行していてもよかったかもしれないけれど、ミシュラン3ツ星、料理の世界のファイルステージも経験した。そこで部門シェフも勝ち取った。ただ、もう一個上に上がるのは当時は運と実力が少し足りなかったのかもしれない。日本のU25世代の料理人の中ではブチ抜いていたであろう。そういう自覚はあった。

フランスから帰国すること3回。
その度に今後のステージと展望を僕はいつも描けずにいた。やはりその時点で負けだ。
やりたい事をやりきって終わる。

そういった自分が心のどこかに取り残されていたのだろう。僕は彼を救わないといけない。彼が報われるようにしないといけない。
そう思い、フランス料理という灯りは決して消さずに自分の料理へといつか変わる日まで日本でやっていこうと誓った。いったいそれがいつまでやればいいのかも分からない。自分で始めたこの料理を自分自身で終わらせる日が来るまで。

料理をやっていたのは、料理をすることを通して人を幸せにして、自分自身もそれで幸せになりたかったから。


それはこれまでの経験をポジティブに捉えた結論でもあり、僕がこの先に進むための自分で立てた大義名分であった。


そう自分で思い。自分に言い聞かせないとこのまま破滅してしまいそうで怖かった。

でもこれでいいのか?
とずっと僕に問いかけてくるもう1人の自分がいた。いつも何処かで冷めた目をしてこっちを見ている。

彼は僕の中の料理の悪魔だ。
本当に追い詰められた時にパっと出てきて、さっと料理を作って帰ってしまったりする。
そういうもう1人の悪魔と付き合いながら、抑制しながら日本での日々があった。




知らせは急に来た。

友人から折り行って話がしたいと連絡があった。
それは単刀直入にシェフをやってほしいというものであった。

どうやら彼女が携わっている新しいプロジェクトが熊本県にあるらしい。新しいオーベルジュ式のラグジュアリーホテルを建設するにあたってシェフを選定していると。

即断即決でした。
いいよ。と

まず1番最初に考えたのはどんな料理?です。
パっと思い浮かんだのは、かつて20歳の頃に修行
したフランス・ラギオール村の3ツ星ミシェルブラスの料理でした。

あぁ、またアレをやるのか...。
それとも戻っちゃうということなのか?

かれこれ、あれから16年。
あの頃以降はずっと都会で料理をしていた。

運営・企画サイドから、とにかくすぐ熊本へ飛んでくれないかと打診されましたので、一度現地へ行くことになりました。超急展開。
オファーがあってから約2週間ぐらいの出来事でした。

熊本空港にクリエイティブディレクターが自ら迎えに来てくださり、車中で細かな説明を受けながら僕の熊本編はスタートしたのでありました。
この時、恐らく自分はもうフランス料理に戻ることはできないのだろうという覚悟はある程度感じていました。

舞台は南阿蘇村です。
阿蘇くじゅう国立公園の外輪山のちょうど内側に位置する丘の上。
もう本当に若い頃の情景に酷似していて、ゾゾっとしました。そのまんまやんか。

でも少し違ったのは、そこに暮らす人たちの精神性の違いでした。ラギオール、オーブラック高原と同じように牛や馬がその辺りにいて、ブルーピリオドの野花があったり。水源地もある。
ある程度の視察を終え、空港に戻る前に最後に中心部の千里ヶ丘まで登りました。
ピンと直感的に身体が感じたのは、昔ここに国があったのではないか?という漠然としたふわぁーっとした感覚。

昨夏に旅行で出雲大社に行ったのですが、その時感じたものと同じような感覚でした。
人々の何かしらの信仰がその土地を文化的に残し、現代に繋げてきているのだろうと。
これは仏教的な要素は無く、日本人の中にある神道に基づいたもので必ずあると僕は感じた。

しばらく丘を流れる風に当たっていた。
そこに居ることで、何か目に見えないものと繋がっている感覚にこの身が置かれていた。

決して人生が偶然でないのであれば、

これだ。
と思いました。

フランス料理を辞める日が来ました。
やっと彼を迎えに行ってもいい。
今がそういう時だった。

やっとトリコロールの服を脱いで、自分の料理と歩き出す日が来た。
あの日、どうしても燃やし切れなかった残りの魂を再び燃やしてやろうと前を向いた。

僕がこれからやりたい事は新しい日本料理を作るということ。誰かが見れば、それはフランス料理じゃない?と言われるかもしれない。
もちろんフランス料理の精神は自分の中に残っていくだろう。でもフランス料理の枠組みの中ではこれ以上表現できない部分がこれからやりたい事にはきっとある。そう思った。
だからもう看板を下そう。
日本人として日本を想い、そこから生まれてきた料理で世界に何かを発していこうと。

今やっていることは日本についての勉強。
日本人が持つ美意識、自然観。その精神性。
これらの根源でもある神社や神の存在についてまずは掘り進んでいます。小学校以来の日本史の勉強です。マジです。

今まで知らなかった日本。
この事に少しでも触れたい。
現時点では漠然としたイメージだけが頭の中にあるけれど、文章に起こせるほどにはっきりとさせたいなと思う。

和食の料理人たちが歯軋りするような世界観で新たな流れを作りたいのです。

日本の素晴らしい文化と残された自然な食材は根こそぎ奪いに来る海外のポップアップレストランではなくて、我々日本の料理人たちで正しく発信していかないといけないと強く思っている。

料理は本当に素晴らしいです。

こんな僕にも誰かを幸せにできるってことを教えてくれました。そして、僕自身に幸せを握らせてくれました。

誰かに言われて始めたことじゃない。
自分でやろうと思って始めたことだから続けてこれた。

最近、パリに渡ったつばさから毎日の営業での出来事がメッセージで届きます。

本当に楽しくてしょうがないんだろうなと、見ていて微笑ましくなります。

僕が若い料理人に言えることは、もっと好きになっていいということ。

それは料理に対してもそうだし、他人や自分自身に対しても。

その気持ちが結局は自分の料理に宿る。

理を料ることではない。
もっと自分本位でもいい。
時に恥ずかしくて、もどかしいくらい何かを好きな気持ちが料理になる。

逆から計算して、お客さんの事を思ってやらなくてもいいと思うのだ。
もうどうしよう。
このカブむちゃくちゃ旨そうなんだけど。

えい!

と皿に置いてしまう気持ちを僕は大切にしたいのです。

そこに理由が無いように、何かよくわからない愛しさが料理の正体のような気がしています。

この名前を付けてくれた父に感謝しています。

Yamato Imanishi


カレンちゃんはこう言いました。

ヤマトくん、神戸に蜃気楼を作ったのです。



「パリでのできごと」


楽しかった計8回のディナー。

毎回2日間満席で本当に良いイベントだったね。

イベントの事をずっとブログに書こうと思っていたけど、結局4回終わってからの記事になってしまいました。


でもやり切ったから書けることもあるよね。

ほんで思うのは、俺フケたなぁーってこと。

めんどくさい奴にどんどん近づいてるというかもうなってる。


こんな一年間を彼女とたまーに料理できたことでかなり僕は救われました。


そんな書きかけで止まっていた文章でしたが、イベントの方が先に復活したのです。


ということで再開。


ステージは花隈のマンションから北野のカフェへ大移動。


今回は火も無く、冷蔵庫も無く。

そんな環境は慣れっこなのでヘコたれません。

POP UP慣れしてるんで!


カレンちゃんは相変わらず神戸の街でワインを注いでいる。楽しくワインを注げるソムリエールだ。良い意味でラフなので、レストランじゃない空間が作れる。そこがいいなと思います。

絵になるカッコ良さがあるなー。


この街には皆んなのベンチマークとなる店が無い。寂しい所はそこだよなあ。

昔は良い時代があったのだろうが。

突き抜けない居心地が良い店が並ぶシーンになってしまった。そこに拘りを感じないのだ。

まぁ東京も似たようなものではあるけど。


皆んなは嘘を言っている。

いや、嘘ではなく知らないことを知っていると言っている。


結局、本物が無いのは作り手も食べ手も本物を知らないからに過ぎない。

何にしてもそう。


僕はフランス料理が流行らない街というのは個人的に文化レベルが薄まっているからだと思っています。

人と人との関わりや繋がりが実は弱いのです。

文化ってそういうものの上にあるものだと有名な脚本家の人が言っていました。

昔より確実にココが下がっているのです。


イタリア料理はMangiare 食べること Cantare 歌うこと Amore 愛し合うこと。

という言葉にもあるように食べることの上に文化が成り立っている。僕の中でフランス料理は芸術的な側面もあるように、フランスという文化の上に料理があると思う。逆なんです。


意外と神戸という街は洋食が輸入されてきた土地ということもあるし、喫茶店もそう。

昔から食が文化的なものを形成してきたのですが、それが年月をかけて少しずつ薄まってきた。

僕の大好きなシェフがワインを飲むとよく言っているけど、繋ぐ世代の料理人が次の世代にうまくバトンを渡せなかったのだろう。今は企業や大学が誘致され、その街の景観を変えていく。


悪気は無い。

でも生粋の神戸っ子ではない。

僕もよそからやってきてフランス料理をバラ撒いた。何をバラ撒いたのか、何に中指を立てているのか。だが。あまり意味を見出せはしなかった。

料理を作れど、ワインを注げど、来るのは大阪、京都、東京のお客さんばかりだった。


このイベントをやってよかったのは僕の料理を食べたことがなかったお客さんに、食べれなくなったお客さんにそれぞれ新しいテーブルを用意できたこと。そしてリピートしてくれる人が多いことも続けられた要因です。

ここはカレンちゃんに本当に感謝よね。


やはりビビっときた人にはきちんと伝わるらしい。これはホントに。嘘じゃない。


神戸らしいフランス料理というのは未だよく分からない。何が正解であるのかは。

明石の魚も、但馬の牛も、西区の野菜も。

使うほどに良さを見出せない。

即ち、僕がこの土地で料理をする理由を見出せない。だから地の食材に拘るのをやめて、自分が本当に美味しいと思う食材と信頼できる生産者から買うことにした。日本のどこにいても今ではそれができる。理由が無い人に意義のあるものは作れないと思うからだ。


神戸の食材だけで地産地消、3ツ星は作れないというのが僕の率直な感想。

色々なアプローチを試みる店はある。

その殆どは何も知らない料理人だ。

それも寂しいかな。


そんな色んな事も含めて。

何かやろ!

ってことで2人で立ち上げたイベント。

僕が唯一神戸で料理できる機会でもあるのだ。


おまかせコースのお店が増えたこの街で自由なフランス料理と背伸びしないワインのペアリング。

これはすごく良かったし、やっていて楽しかったです。マイノリティだからこそのこういった僕らの抵抗や表現。


神戸を離れるまでにあと何回かやれたらいいな。