料理観 | LIKE A ROLLING CUISINE

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運命を拓く✨偏屈料理人のブログ
印象派の画家達に憧れ単身パリへ。しかしこんなはずではなかった!?様々な人との出会いや別れ。苦悩と喜びの日々と自身の料理哲学を綴る物語。
誰もが幸せになれないなら僕は料理を作り続けよう。


もうしばらく書いてないし、昔話で止まっていたし、そろそろ書こうかな。

今を書いてみようかなと思います。
料理観というやつです。




とあるバンドが解散するような時によく言いますよね。音楽性(観)の違いでって。
よく分かります。

ファッションにも当てはまったり。
ダサいとかカッコいいがあるのもファッション性(観)があるからだと思います。
面白いのはダサい人もある側から見たらカッコよかったりすること。そもそもカッコいいと思っていることがダサかったりすること。

皆んなそれぞれ好みもセンスも違うわけで、こういうズレがあるのは当たり前だし面白い。
人間だもので片付けられないほどに世の矛盾にも似ています。

料理人にもこのような料理観というのが存在します。先日とあるシェフとワインを飲みながらこういった事について語ったりしたのですが、実に深く面白い内容でした。これもお互いの料理観が近いからこそ夜が深まる訳で、お客さんとシェフの関係性もそうです。お客さんがシェフのレベルについて行けていない。なんていうことは無いのです。それ相応のお客さんがそのシェフには集まり、それこそが料理観が形成する一種のコミニティーのようなものなのです。だから推しシェフを聞くとその人の料理観がわかる。

観っていうのは単純にいうと、物の見方や捉え方の事ですよね。見るよりも、深く本質的なところを観るような意味合いがあります(たぶん)。

料理の世界もイケてる、イケてない。
ダサい、カッコいいみたいなものがもちろん存在します。これは料理人が料理観を持って仕事をしている、料理というものを見ている限り無くなることはありません。当然、流行りやある種の宗派のようなものも生まれてきます。
見た目だけでなく、味わいや、考え方(哲学)、在り方にまでそれは言及するのです。

一般的に料理の世界にもピラミッドを作るとしたら、数の論理で単純に価格で分けてしまうと綺麗なピラミッドの形になるのかと。これは料理に代価がある以上そうなりますよね。
客単価900円の町中華を食べる人が1人10万円の会員制高級レストランに行くことはほぼあり得ませんが、その逆はあるわけです。
ただ、食に対して豊かな心を持っているお客さんはどちらの店にも存在します。
ここに食の面白さがあると僕は思っています。

値段って単純にグレードの違いです。
それぞれに掛かっている金額の違い。
食材、食器、内装、家賃、人件費...etc
付加価値が加わればさらに値段は上がります。
飛行機も似ていますね。
同じ距離を運んでくれるけれど、そのサービス内容が全然違う。

皆んな心を満たす為に代価を支払っている。
料理屋さんはお腹も心も満たす場所。
素晴らしいお店というのはピラミッドのどの階層にも存在します。それは優れた料理観を持つ料理人がどの階層にもいるからです。
なので料理観というのはフラットで、どの料理人にも与えられるある種の自由な価値観です。

この世界に入った時、僕は何より早くピラミッドの上のほうに行きたいと思った。
分かりやすくフランスのミシュランの3ツ星に。
ピラミッドの頂を見たいという気持ちと自分を自分自身で試したいという両方の気持ちで。
最高峰とは何か?

そこで思ったのは、自分を持っていないといけないということ。言い方を変えれば料理の世界では戦っていけないということ。
レベルが上がれば上がるほどに自分を持っていないとそこに居ることさえできない。これはひとつの型のようなものだし、僕のアイデンティティ、日本人であるということもそうかもしれない。
自分を特徴付ける何かが仕事の中に存在しないとスペシャルな料理人にはなれないのだと。

色んな国の人と働いたし、色んな料理人をみた。
そこで大切になってくるのがやはり料理観なのだった。DNAみたいなもので、その人の料理観にその人の情報が詰まっている。

そんな人たちが集まってひとつのディナーをやるって本当にエキサイティングなことだ。
奇跡みたいな毎日がそこにはある。
世界にもそんなレストランは数えるほどしかない。だからそういった所で経験を積むことはとても貴重なことなのだ。

では、先程にも触れたスペシャルな料理人の料理は何が違うのかということです。
もうずっと若い頃はこれが何なのか言葉にするのが難しかったけど、今思うのは洗練されているか否かということだと考えています。

分かっていることを分かっているか。
分からないということを分かっているか。
これに尽きると思います。

すべての事に意味があってやれているのか。
理由があるのか。作為があるのか。

これができる人がスペシャルな料理人。
その為には自分を高め様々な方法で自分自身の能力を養っていかないといけない。肥やしもたっぷりと必要。皆んなそうやってやるんだけど、分からないということを分かっていない料理人が多いので結局その人たちはそこで能力の頭打ちとなる。自己満足やマスターベーションに走るのもそういった部分から。そういう時期があっていいとは思うのですが、逸脱できるかどうか。
でも、できる人は勝手にそれを自分自身でやってしまう。何が足りないか、何が必要かが自分でわかっているから。

そこに加わってくるのが料理観です。
料理を見る目。
世界観っていうのも多分この中に吸収される。もっと概念的な料理人としての料理とは?の部分。

手が凝ったもの、そうでないもの。
どういった仕立てにしても料理観の素晴らしい料理人の仕事や料理は隠しきれない品位がある。
人に例えるなら育ちのようなものかもしれない。
あの人は品があるとか、育ちがいいとかっていうじゃないですか。まさにそれ。
皇族の方なんて一般に混じると多分隠しきれないくらい雰囲気違うはずなんですよ。
人生たまにそういう人に出会うじゃないですか。

最近は高い値段を取る高級レストランでも品位に欠ける料理をよくスマホの画面で散見される。
なんか、お花とか乗っていて綺麗で、凝ったプレゼンテーションで提供されるんでしょうけど。
シェフに素養が無ければ結局はそうなる。

これはかなり独断と偏見なのですが、絵を描くのが苦手なシェフにスーパーなシェフはいないんですよ。やっぱり料理を素描できないんで。

この白紙に直線を描いてくださいって。
結局は書く直線しかできない奴は料理無理なんですよ。それを料理が好きだからってやってる奴が現代はむちゃくちゃ多い気がします。
デッサン(素描)ってフランス語で線を引くという意味です。この線を引くという方法でどこまでの芸術性を表現できるのか?

料理でいうところのシンプルな料理でどこまでの料理観を表現できるのか?
昔、テレビで帝国ホテルの故村上信夫料理長が卵焼きを作るシーンがありました。
味見をしたアシスタントのNHKのアナウンサーがおぉーっと唸ったのが妙に僕は印象的でした。
今だから分かるのは味を超えた何かを彼は感じたのだなと思うのです。それが料理観だと。
これは食べる方にも作る方にもそういった素養があったから生まれたひとつの素描です。

僕はミシュランの1ツ星、2ツ星、3ツ星ってそういうことだと勝手に思っています。
どのランクのシェフとも仕事をやってきたけどやっぱりその料理観には大きな差があった。
星のついていない最高峰のお店ももちろんある。
サービスも大事、ソムリエも大事。
ただ僕らは料理人だ。
シェフの料理観がすべてを決めるのだ。

そんなことをほろ酔いの帰り道に考えていた。
時間にして10分くらい。
文章にすると2時間かかる。
そしてやっとすっきりする。

もう春ですよ。
来月で36歳になります。