国士舘大学の入学試験を終えてきました。
まあ、ひと段落というか初陣をおさめたというか、そんなところでしょうか。
所感としては結構楽だったように感じます。二科目受験で、出席は09:00、試験終了も13:00と、半日で終わってくれました。面白かったことと言えば、英語の最後の問題で
A「ねえ、俺ができることって何かな?」
B「あん? 手を組んで神にでも祈ってろよ」
ってな感じのが出て、「なんだこれ俺のことかよ。ハハッ、ワロエンジョーク跳ばしてくれるぜ」って思ったことくらいですかね。
今晩、テレビを見てたら体罰に関して様々な考え方を持たせてくれるような、いい特集を組んでる番組がありました。
体罰は許されるのか、許されないのか。許される場合はどのような境界線を引けばいいのか等等。
そこで目をひいたのが、江戸時代には体罰が無かった。少なくとも寺子屋や私塾で指導者が手を上げるようなことはなかったということです。ほんの数十年前には体罰なんていうのは当たり前だったのに、決してそれが日本の文化や伝統などと深くつながりを持っていなかったことに個人的には大きな衝撃を受けました。
一人の年配のコメンテーターが番組内で「自分の高校の部活(柔道部)では、決して体罰は行われていなかったが、いい成績をちゃんと積み上げていた。おそらく体罰というのは戦争の養育の影響なのではないか」と言っていたのも、正直驚きでした。
個人的にも、この人の主張には共感を覚えます。実際体罰がある部活と言うのは、言ってみれば自分のチームの中に明確な敵がいるのと同じような感覚があります。それに小学、中学、高校で受けた体罰は、教師に対して虐められているような、抵抗しようの無い恐怖感も大いにありました。
まだ高校は卒業していませんが、今ではすでにそれが精神的トラウマなのでしょう、教師に対してはどれだけ大きな声で話せと言われても、気管からもれるようなシューシューとした発音でしか会話をすることはできません。
一人の親友はあるときこのようなことを言っていました。一字一句覚えています。彼女はこんなことを、真面目な口調で語っていました。
「体罰なんてものはな、結局指導者が自分の指導力が無いことを自白してるようなものなんだよ。教師は生徒を将棋の駒に育て上げるんじゃない。人間として育てなきゃいけないんだ」
・・・・・・まあ、口調が男らしいのは、彼女のアイデンティティですし、サバサバとしたところは結構好感が持てるんですが。
ともかく、当時の僕にこの論はちょっと残酷にも感じました。指導力の無い教師は当然いる。いやむしろ指導力のある教師のほうが珍しいのだから、そんなことを言っては大半の教師が解雇されることになってしまう。有能な人間がみな教師なら、ひいては教育者なら、この国は寺子屋のなくなった明治時代以降の人間が世を動かすようになっても反映は続くはずだと。
ならば、今後はどうするべきなのか?
最近になってうすぼんやりと考えていたことがやっと発露したような気がします。
指導力の向上を目指すなら、一度大衆教育の原点にたちかえってみてはどうなのでしょうか?
寺子屋・私塾は何故体罰の必要が無かったのか? それでいて何故明治期の爆発的なまでの繁栄を支えられる人材が教育させられたのか?
そこで固まった考えというのが、以下のことです。たかが高校生の愚論です。読んだらすぐ忘れていただいて結構です。
指導力とは、もしかしなくても、指導者の思想や教育哲学が、どれだけ高次元なものに至っているのか? ということの代名詞のような存在なのではないか? そして江戸時代の指導者はその志を多くの人々の広めるため、指導力に関して日々熟考していたのではないか?
そしてそれはきっと、世代が違い、思考力も決して十分ではない、感受性が豊かな生徒達に向かって、強制的に押し付けるような、時に彼らの心や体を殺してしまうようなことは絶対にはずだ。
ならば、いまこそ今日の指導者は原点に立ち返り、どのような指導をするのが生徒の発展に最大限の貢献ができるのかということを内省していただきたいと、強く思う。
僕もすでに、高校では落ちこぼれの烙印を押されました。飲酒・喫煙・酒の密造で停学を2度経験しています。すでに首の皮一枚です。
そういった人間は、おそらく気付かないうちに多くの心を殺してきたことでしょう。人は「冷静沈着」と僕のことを評します。ちがうのです。僕は刺激を与えられても反応が出来なくなっただけなのです。教師という生物の一部に潜む悪魔が(おそらく)好き好んで僕をむさぼったことで、僕はこういう人間になってしまいました。
だから、もう僕のような半分死んだような人間を作らないためにも、指導者の方々にはもう一度と言わず何度も何度も内省して生徒のことを考えてください。親友の言葉を借りますが、教室にいる子供達はあなた方の駒ではありません。一人の人間になろうとしている幼虫またはさなぎです。
世間的に悪いことをしたからといって、事実だけを見ず、その背景をちゃんと理解してあげてください。死んだ目を持つ子供をこれ以上増やさないでください。
言いたいことは山ほど、それこそ一冊の本になりそうなほどありますが、そうすると伝えたいことが伝わらなくなり、ただの罵詈雑言の羅列になること請け合いですので、このあたりで切り上げることとします。ただ、わがままを言わせてもらって一言付け加えるなら
いつだったか It それと呼ばれた子 という作品が一世を風靡しましたが、私から言わせれば、教師はいつだって学び舎の生徒達を It としてしか見ていません。一人一人に注意を払えとは言いませんが、せめて非常にもろい乾燥したスポンジのような存在が子供なのだということは、肝に銘じていただきたく存じます。
長々を書き連ねて、時間を取らせてしまいました。申し訳ありませんでした。