ふと、小学校のときの記憶を思い出した。
僕の小学校にはオニグルミの大きな木(木に名前の札がついていた)が裏庭にある山に生えていて、僕を虐めるというか、からかう人間は決まってこのオニグルミの実か、その実が落ちてこない季節には石や銀杏や泥ダンゴといったものを投げつけられたという記憶を。
当時の僕は(今でも十分にその素質を持っていると思うが)、非情に根の暗く、また変に大人びて色んなものを皮肉に感じたり、体育祭など何かの行事があれば、その裏にあるわけの分からない仕組みやありもしない陰謀に敏感になりすぎていた。
当然、そんな子供が周りの同年代の子供に受け入れられないのはある種当たり前と言うもので、その日の昼休みもいつものように硬く、無数のオニグルミの実を投げつけられていた。果皮のついたオニグルミは梅の実のようだったが、時間がたってその果皮が取れたそれは、丸く荒削りしたような木材に似ていた。
休みが終わってもその仕打ちにべそをかいて、そのくせ誰にも見られたくないという変な意地を張って、そのオニグルミの大木に寄り添うようにしてうずくまっていた。そんな自分の足元に、果皮の取れた、いつも投げられるオニグルミの実が落ちていた。
べつに「この実さえなければ」などといった、木の実に責任を擦り付けるような心はもっていなかった。
ただ、この実の中には一体何が入っているのかという興味が沸いてきていた。
オニグルミというのだからクルミの仲間なのだろう。だが、給食に学校のクルミでつくったなんとかという料理は一度も見た事が無い。気になる、気になる、気になる・・・・・・。
結局、どこからもってきたのか分からない、漬物石のようなアスファルトの欠片を振り上げ、叩き割ってみることにした。するとどうだろう、綺麗に割れたクルミの殻の中には自分の見た事のある、あのクルミが入っていたのだ。
正直、初めて見たときは自分の眼を疑った。あんな茶色い丸い殻の中から、白くて形のいびつなクルミの実が出てきたのだ。当時小学生だった僕は、そんな小さなことからまだ見ぬ世界の大きさをまざまざと実感した。
そして、またそのすぐあとに世界の広さにまた驚嘆する。
その、割れた殻の中からのぞいている白いクルミの実を食べようと思って、小口じゃ分からない、全部丸ごと口に入れてしまえと、ためらいも無く殻からほじくり出した実を食べてしまったのだ。今思うと、なんだか幼少のルフィの感覚が分かるような気もする。
結果からいうと、自分の知っているクルミよりも水分を多く含み、味気なく風味だけが強いその実をとてつもなくおいしいと感じてしまった。味付けも何もされていないクルミから、今まで足りなかった何かを一気に満たされたような気がしたのだ。
そんな一連の体験をしている中で僕の虐めに対する憎悪や昼休みが終わっていることなどはきれいさっぱり忘れてしまって、結局帰りのホームルームが始まるチャイムに気付くまでずっとオニグルミを探して割って食べるという動作を続けていた。
その日以来、僕はオニグルミを当てられることだけに関しては全く痛みを感じなくなった。知ることによって、むしろこのいじめっ子たちは決して自分のような体験は出来ないのだと知って、無上の優越感さえ感じてしまったりもしていた。
またそれを機にして、これは何だこれは一体どういったものなのかというような、強い好奇心とさらに深い思索の奥地へといざなわれることになった。
その結果として、今では自分の精神年齢がどこからどこまでになり、どんな種類の人間に分類されるのかさっぱりわからなくなってしまった。
僕は、あの日が懐かしい。
教師にはこっぴどく叱られらたが、あの時間のことを僕は決して忘れない。おそらくあれがきっと僕が僕になった瞬間だと、今になって思うから。
一言
最近自分でドリップしたコーヒー飲んでないなぁ