今日も野球ネタ。
ーーーーー
広島東洋カープ 黒田博樹投手
誰よりも厳しかったのは、実の母だった。
↓
↓
↓
黒田博樹は、大阪府で生まれた。
父は、元プロ野球選手、母は砲丸投げの選手というアスリート一家。
幼いころから野球に親しみ、「楽しかった」中学校までの野球を経て、元木大介、種田仁らが入れ替わりで卒業した関西きっての名門・上宮高校へ進学、野球部の門をたたく。
「甲子園に行きたい」
名門校に入った際の高揚感と淡い期待はしかし、もろくも崩れ去る。
入部した選手との実力の差は歴然。
練習は苛烈を極めた。
特に厳しかった夏の練習の記憶はいまでも黒田の脳裏から離れない。
打たれれば、草むしりと走り込みの日々。
あるとき、課題であるコントロールが改善されず、監督がいいというまで走り込みを命じられた。
黒田の記憶では4日間。
ボールを使った練習は一切できず、ただ黙々と外野を走り続ける。
体力的に限界を感じ始めていたとき、チームメイトの母親がこっそり連れ帰り、食事を与え、風呂に入れてくれたこともあった。
けれど、この話すらハッピーエンドに終わらない。
きっかけは、その母親が、黒田家も不安だろうとかけてくれた一本の電話だった。
「博樹くん、うちで預かって、食事とお風呂を取らせて、監督に気づかれないように朝までに合宿所に帰しますから・・・」
すると母親はこう返した。
「ありがとうございます。でも結構です。タクシーで構いませんので、すぐにでも合宿所に帰して走らせてください」
黒田は今でもあの時の驚きと、気まずそうな友人の母親の顔が忘れられないという。
「あの時は、なんて母親だと思いました。とにかく強烈な母親でしたね。祖母の葬式があった時も、当然高校を休むわけですが、終わったらすぐに、お前はすぐに学校に帰って走ってこい、ですからね」
家とグランドでのスパルタな日々。
それでもまだ。本業の野球で結果が出ていれば「地獄」の記憶としてとどまることはなかったのかもしれない。
しかし現実は「生き地獄」だった。
黒田は補欠だったのだ。
「公式戦で投げた記憶はないです。でもそれは監督に嫌われているかということではなく、単純に実力がレギュラーにはほど遠かった、ということです」
当時の黒田は3番手投手。
公式戦で投げた記憶はないのに、練習や練習試合では何千球と投げた。
エースが投げ過ぎて消耗しないためだった。
「いまでこそ、上宮での経験と母親の厳しさがありがたいと思えますけど、当時は本当に地獄でしたね」
転機は大学だった。
「関西の大学に進学し、楽しい野球をしよう」
と思っていた黒田は・・・
「レベルの高い関東の野球にもう一度挑戦してみて、ダメだったらいいじゃないか」
という父親の勧めもあり、専修大学へ進学、野球を続けることになる。
当時、東都リーグ2部だった専修大学には、のちに広島東洋カープのチームメイトとなる小林幹英がひとつ上の先輩として、絶対的な実力を誇っていた。
「ものすごい球を投げている幹英さんを見て、目標というかライバルのような存在ができたことが大きかったですね」
「それまであまりに日々がきつくてそんなこと考える余裕がなかったですから・・」
思わぬ発見もあった。
「高校の時よりも野球を身近に感じられた」
と言うとおり
「あの上宮で3年間やったんだ」
というプライドと、自身の叶わなかった甲子園に出場したチームメイトたちに負けたくない、という反骨心が沸々と湧いてきたのだ。
========
黒田投手は、上宮高校の苦しかった経験から・・・
「マウンドは戦場」
「この試合で野球人生が終わってもいい」
という覚悟で試合に臨み、勝利を掴みとってきました。
座右の銘が
「苦しまずして栄光なし」
By黒田博樹
誰よりも厳しかったのは、実の母だった。
↓
↓
↓
黒田博樹は、大阪府で生まれた。
父は、元プロ野球選手、
幼いころから野球に親しみ、「楽しかった」
「甲子園に行きたい」
名門校に入った際の高揚感と淡い期待はしかし、
入部した選手との実力の差は歴然。
練習は苛烈を極めた。
特に厳しかった夏の練習の記憶はいまでも黒田の脳裏から離れない
打たれれば、草むしりと走り込みの日々。
あるとき、課題であるコントロールが改善されず、
黒田の記憶では4日間。
ボールを使った練習は一切できず、ただ黙々と外野を走り続ける。
体力的に限界を感じ始めていたとき、
けれど、この話すらハッピーエンドに終わらない。
きっかけは、その母親が、
「博樹くん、うちで預かって、食事とお風呂を取らせて、
すると母親はこう返した。
「ありがとうございます。でも結構です。
黒田は今でもあの時の驚きと、
「あの時は、なんて母親だと思いました。
家とグランドでのスパルタな日々。
それでもまだ。本業の野球で結果が出ていれば「地獄」
しかし現実は「生き地獄」だった。
黒田は補欠だったのだ。
「公式戦で投げた記憶はないです。
当時の黒田は3番手投手。
公式戦で投げた記憶はないのに、
エースが投げ過ぎて消耗しないためだった。
「いまでこそ、
転機は大学だった。
「関西の大学に進学し、楽しい野球をしよう」
と思っていた黒田は・・・
「レベルの高い関東の野球にもう一度挑戦してみて、
という父親の勧めもあり、専修大学へ進学、
当時、東都リーグ2部だった専修大学には、
「ものすごい球を投げている幹英さんを見て、
「
思わぬ発見もあった。
「高校の時よりも野球を身近に感じられた」
と言うとおり
「あの上宮で3年間やったんだ」
というプライドと、
========
黒田投手は、上宮高校の苦しかった経験から・・・
「マウンドは戦場」
「この試合で野球人生が終わってもいい」
という覚悟で試合に臨み、勝利を掴みとってきました。
座右の銘が
「苦しまずして栄光なし」
By黒田博樹
ーーーーーー
ニューヨークヤンキースの年棒21億円を蹴って、4億円で広島に戻ってきた黒田投手。
成功を導いたその努力もさる事ながら、良い影響を与えた母親がかなり素晴らしいですね。
モンスターペアレントと言われる親や、甘やかし放題の親が多い中、すごいです。
よっぽど子供を信じていたんでしょうね。
子を持つ親として、自分に置き換えると学べます。