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メジャーリーガー 上原浩治投手
「雑草魂」
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高校時代は外野手で「プロ野球選手になりたい」と思えないほどの実力不足。
当時の目標は「体育教師になること」だったが、大学受験に失敗した。
浪人として過ごした19歳の夏。
「雑草魂」の下地ができたが、本当の反骨心が芽生えるのは大学4年の時だった。
「(浪人で)1年、遠回りしているので、彼らの活躍はいい励みになった」
「同じ年の(高橋)由伸と(川上)憲伸がプロ1年目でバリバリやっていたので、同じ舞台に立った時には負けたくないというふうに変わった」
とはいえ、予備校通いが実って大学に入学した当時は・・・
「野球4年やってやめよう」
と思っていたという。
野球選手として成長できたのは「周りの環境のお蔭」だった。
「大学の時の監督はすごく野球をやってきた人じゃなかったし、基本的には学生が自分たちで練習メニューを考えて、自主的にトレーニングした」
「学生トレーナーの先輩がプロの現場でバイトしていろいろ吸収したり、僕ら自身が社会人野球のチームと合宿して学んだり」
「それがよかったんですよ」
「誰かに教えられるよりも、自分で研究したほうが吸収がすごいから」
例えば、上原自身が「野手投げ」と表現するフォーム。
ヒョイッと肩に担ぐようにしてからコンパクトに腕を振る独特な投げ方も、自己流だという。
「投げ方なんて研究したことないし、誰からも指導された記憶がない。高校時代はずっと打撃投手で指導されるわけないし、大学やプロでも指導されなかった」
文字通りの「のびのび野球」で急成長した上原は大学3年の時、国際大会で151連勝中だったキューバ打線を相手に快投し、勝ったことで一躍プロ注目の存在となった。
指導者=他人に依存せず、すべての責任を自分で負う生き方は、逆指名で巨人に入団しても変わらなかった。
一年目から登板間は他の投手のようにブルペンで投球練習はやらずに遠投のみで試合に臨み、当時はあまり信じられなかったウェートトレーニングをガンガンやる。
旧態依然としてプロ野球に先んじた調整方法を貫いたが、それは貪欲なまでの向上心によって、さらに磨かれる。
「プロに入った時は、桑田さん、斎藤さん、槙原さんの三本柱がいましたから、食事に連れてってもらって野球の話ばかりしてた」
「フォークの投げ方なんかもいろんな人に話を聞いた」
「村田さんが知り合いだったので、大魔神・佐々木さんに、やっぱり食事を連れて行ってもらい、ボールを持っていって握り方を教わったり・・」
他人に依存はしないが、自分一人で分からないことについて積極的に他人に教えを請う。
ある意味、完璧なほど自己中心主義である。
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高校時代は外野手で「プロ野球選手になりたい」
当時の目標は「体育教師になること」だったが、
浪人として過ごした19歳の夏。
「雑草魂」の下地ができたが、
「(浪人で)1年、遠回りしているので、
「同じ年の(高橋)由伸と(川上)
とはいえ、予備校通いが実って大学に入学した当時は・・・
「野球4年やってやめよう」
と思っていたという。
野球選手として成長できたのは「周りの環境のお蔭」だった。
「大学の時の監督はすごく野球をやってきた人じゃなかったし、
「
「それがよかったんですよ」
「誰かに教えられるよりも、
例えば、上原自身が「野手投げ」と表現するフォーム。
ヒョイッと肩に担ぐようにしてからコンパクトに腕を振る独特な投
「投げ方なんて研究したことないし、
文字通りの「のびのび野球」で急成長した上原は大学3年の時、
指導者=他人に依存せず、すべての責任を自分で負う生き方は、
一年目から登板間は他の投手のようにブルペンで投球練習はやらず
旧態依然としてプロ野球に先んじた調整方法を貫いたが、
「プロに入った時は、桑田さん、斎藤さん、
「フォークの投げ方なんかもいろんな人に話を聞いた」
「村田さんが知り合いだったので、大魔神・佐々木さんに、
他人に依存はしないが、
ある意味、完璧なほど自己中心主義である。
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今やメジャーリーガーの上原選手ですが、高校時代は無名の打撃投手。
その後に、周りから良い影響を受け刺激を受け、雑草魂に火がついた。
そして、自ら新幹線型で成長していった。
雑草魂、CSリレーションズと同じだね。
やはり『何をやるかではなく誰とやるか』です。