2)損害の発生
化学物質による健康被害の病像に関して難しい点が多いことは水俣病を想起すればよいだろう。
特に症状が軽微であったり、外部からは容易に判別できないような場合には法的な認定はさらに困難になる。
化学物質過敏症への罹患を理由に訴えを提起するに際してもまず問題となるのが、原告が主張する症状が存在するか、そしてそれが「慢性疾患」や「化学物質過敏症」として認定されるか否かである。
カビキラー判決を契機として示された製造物責任に関する能見善久教授の類型論によれば、化学物質による健康被害は被害の存在を証明することが困難な場合(被害証明困難型)に属する15。
さらにこの困難は、小規模で比較的軽微な被害として、被害者本人以外は認識不能な場合(相対的に被害軽微・被害者以外認識不能・証明困難型)顕著となる16。
実際に化学物質過敏症をめぐる一連の訴訟の中でも被害証明の困難さゆえに損害として認定されない事例が相次いだ。
因果関係や過失については証明責任の緩和が学説上も判例上も試みられているが、被害の存在を推定するものは立法論としても存在しないことが指摘されており17、化学物質過敏症をめぐる訴訟の困難さは解消されない。
前述のジョンソンカビキラー事件第一審判決は、原告の主張した慢性気管支炎は認めなかったものの、使用直後の急性疾患についてはこれを認め、カビキラー使用との因果関係及び製造・販売にあたっての被告の過失も認めて不法行為責任に基づく賠償を命じた。
しかしながら、控訴審においては「原告がカビキラーを使用したことによって生じた症状は、不快感を伴うようなものであるにせよ、こうした製剤を使う際にありがちな一過性の症状を出( マるマ)ものであったとまでは認めがたく、不法行為に基づく損害賠償請求の根拠とし得るほどの健康被害を受けたと認めることはできない」、として原告の主張を全面的に退けた。
原告は控訴審において、慢性気管支炎に罹患したことが認められないとしても、(複合)化学物質過敏症に罹患した旨主張したが、この点について判決は以下のように述べた。
すなわち、化学物質過敏症は、宮田意見によれば原告の主張する症状と「カビキラーの吸引との間の関連を合理的に説明するに当たって考えられる一つの見解であると評することができ」るが、「一部の学者の研究上の仮説であり、未解明の分野であって、その診断基準も確立されておらず、宮田意見は問診だけに頼ったもので、医学的裏付けに乏しく、信頼性に疑問があるという意見もあることが認められる。」
このような判断は初期の判例の特徴である。
すなわち、いわゆる「化学物質過敏症」といわれる症状はあるが、それについての科学的知見は未確立であり、健康被害とは認められないというのである。
そして科学的知見の確立時期は、被告の過失判断にも影響する(後述)。
科学的知見の確立が損害の認定にかかわるのであれば、知見の成熟とともに損害として認められやすくなるはずである。
実際に後述する平成14 年の杉並病原因裁定以降、化学物質過敏症といわれる症状が存在するという事実を否定的に評価する判例はほとんどない18。
例えば前掲札幌地裁平成14 年12 月27 日判決は、「化学物質過敏症」については賛否両論存在し、またその発生機序についてはほとんど解明されていないことを指摘しつつも、「化学物質過敏症」と考えられる症状を否定することはなく、医学的に未解明なことが多いことは損害の事実認定を妨げるものではないとした19。
その後は「化学物質過敏症」という疾病の存在自体が争われることはまれになり、損害についてはもっぱら原告が化学物質過敏症に「罹患しているか否か」が争点となった。
そして、①国際的なガイドライン等に則った専門医の診断、②他原因の不存在、という事実が認定されれば化学物質過敏症への罹患という損害の発生は以前よりは認められやすくなった。
ただし、②他原因としては段々と多様なものが挙げられるようになり、この点は因果関係との関係でも大きな問題となっている(後述)。