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実家のベランダと浴室でしか、息ができない

 スージーは自然豊かなカリフォルニア北部で育った。

1970年代のほとんどをベイエリアで過ごし、アルバイトと恋人との旅行に明け暮れていた。

 当時、カリフォルニアではエイズが猛威をふるいはじめ、スージーも次々と友人を亡くしたという。

 一方、スージー自身も原因不明の呼吸器と胃腸への不調を感じていた。
だが、医者たちは「ただの神経症だ」と診断し、それは彼女をひどく傷つけた。

スージーの症状は次第に悪化した。
 特にタバコの煙を吸ったり、電線を見たりしたときは立っていることさえできなかった。

いたたまれなくなったスージーは両親の家に逃げ込み、自分が生きていける場所を必死に探した。
そして、両親の家のベランダと浴室以外では、自分は呼吸することすら辛いということを悟った。
その頃スージーの母親は、娘に飲ませるために雨水を溜めていたという。

スージーは車イス生活を始めた。

そして、障害者政策の博士号を取得するためにサンフランシスコに戻り、環境病の研究情報を紹介するニュースレターを発行しはじめた。
それは米国中の「対全世界過敏症」の人々に秘密裏に読まれるようになり、やがて彼らのネットワークが形成された。

あるときスージーは、読者の1人から「私の住んでいる場所は、私が何とか住めるほど空気が澄んでいる」という連絡をもらった。

1994年、彼の言葉を信じてスージーはスノーフレークに移住した。

スノーフレークにはすでに何人かの住民がいて、小さなコミュニティができていた。
 彼らはスージーを受け入れ、父親と共同出資して彼女の住む家を建ててくれた。

スージーが彼女にとって「小さな、安全な城」を手に入れた頃、デブの人生は危機的な状況に陥っていた。

スージーと同じような症状に苦しんでいた彼女は当初、自分がエイズに感染しているのだと考えた。

だがそうではないとわかったとき、周囲の人間は手の平を返したように冷たくなった。

その態度から、「病気じゃないなら甘えるな」と思っていることがありありと伝わってきたという。

 子供の頃のデブはたくましかった。
 幼い頃、ミシガン湖の近くに住んでいた彼女は、船に乗ることとスポーツが好きな活発な少女だった。
ミシガン工科大学を卒業したあと、航空機会社の故障解析部門において、女性で唯一の治金技術者として9年間働いた。

 妊娠後も亜鉛とカドミウムを吸い込みながら働き続けたところ、だんだん彼女の体は異常をきたした。
 耐えられる匂いは、同僚のコロンと髭剃り後のローションだけになり、頻繁に吐くようになった。

 出産後、育児のために仕事を辞めた彼女は、カビの生えた煙たい暖炉のある家に住んだ。
 鼻腔に火をつけられたような痛みを感じ、それはまるで、斧で切りつけられるような偏頭痛へと変わった。
 体重は34キロにまで減った。拒食症だった。

 娘が16歳になったとき、デブの我慢は限界に達し、彼女は家を出てトラックで生活する放浪者となった。

金属はプラスチックやドライウォールと違い、化学物質を放出しないので安全だと感じられたのだ。

スージーと同様にデブもクチコミでスノーフレークの存在を知り、移住を決めた。
そしてここで、住民のヘルパーをする代わりに食料を分けてもらいながら生活していた。

あるとき、依頼者の服を煮沸消毒する仕事をしているときにスージーに出会い、2人はルームメートになった。

デブはスージーのために「安全で清潔な食べ物」を作った。一緒に笑い、お互いを守り合った。
デブが娘に7年間会っていないと打ち明けたときも、スージーは温かく、冷静にそれを受け入れた。

67歳になってようやく、当初予想していたのとは別の方法ではあるが、スージーの博士号は役立っていた。
 彼女はスノーフレークのセラピストでもあり、「環境病」の提唱者であり、送迎サービスまで担当していた。

そして、常人なら理解できないようなことが原因で病気を患う人々の話を聞き、それを信じた。
スージーの家には毎晩寝たきりだったり、孤独だったりする人から最低5本は電話がかかってくる。
 彼女はそれに嫌な顔ひとつせず、相手が話したいだけ付き合った。

そして彼女は「いまの病気はひどく痛むだけで、命を奪うことはない」と優しくアドバイスした。

政府から障がい者支援を受けるため、膨大な書類作業に取り組んでいる人々のサポートもしている。

 住民の誰もがスージーを慕っており、彼女の話をするときに目に涙を浮かべる人さえいた。

「あなたの昔の男の話なんて、聞いてない!」

スノーフレークの住人は“静養”のためにこの地に移住してきた。そのためここでは、病気が「存在意義」のような役割を果たしている。

 「ノーミーズ」とは、化学物質や電磁波によって、耐えがたき痛みを経験していない一般人を指す蔑称だ。
マエと私は、街で会うすべての人に、かつて彼らを傷つけ、見捨て、誤診した人たちと同じレベルと見なされてつまはじきにされた。

だが、幸運なことに私は気分が悪くなりはじめていた。

スノーフレークに来て2日目の朝、口に入ったマエの髪と頭痛のせいで目が覚めた。

頭痛はやがて吐き気になり、インフルエンザのような症状まで出て、私の心は暗く沈んでいった。

 私がスノーフレークについて取材したいと思ったのは、「病気を患う人々が平和を求めて人里離れた荒野に避難する」という事実に深く共感できたからだ。

2年前、私はひどいうつ病を発症し、2週間ほど精神病院へ入院した。
 薬や治療により現実に引き戻されたが、そのとき「すべてのものを捨て去りたい」という強い衝動に駆られたのを覚えている。

そしていま、精神病院でもらった「病気を治すためにやることリスト」(寝る、食べる、薬を飲む)を実行したことで、少なくとも自分の生活をコントロールすることはできるようになっていた。

だが、その夜キッチンで、スージーとデブは、私たちを「もう、信用できない」と言い出した。
 前の晩にマエと私がカメラのバッテリーを充電したところ、それが発する電磁波のせいでスージーが眠れなかったのだという。

 「でもスージー、あなたのいびきで私は眠れなかったのよ!」私は言った。
 「何てことを言うの! あなたは彼女を傷つけているのよ!」とデブが応酬した。

スージーとデブは、私とマエが他のジャーナリストたちのように、彼女たちの病気を「バカげた妄想」として扱い、笑いものにしないという証拠がほしかったのだ

「私を騙すことはできないわよ」
そう言って、デブはそれを証明するあるエピソードを話してくれた。

 「娘が10歳ぐらいのころ、食料品店で彼女とその友達を見失ってしまったの。
 見つけたとき、すぐ匂いでわかったわ。娘たちは否定したけど、店にあった香水を試していたんだとね。
2人ともにやにやしているから、車から降りるように言ってやったわ!」
デブはどこか誇らしげだった。

 「車から降りろと言ったの……?」私は聞いた。
 私の問いに、一転してデブは困惑した表情を浮かべた。

 「え、ええ、そうよ。家までは5kmもなかったし……」

 最終的には引き返して2人を車に乗せたというが、私はデブの娘に同情を禁じえなかった。

せっかく友達が遊びにきてくれたのに、母親に置き去りにされるなんて……。

マエと私も、デブの娘のように見捨てられて、追い出されるのではないかと心配になった。

デブは、信頼にもとづいた取材を進めるにあたり、「環境病について臨床的妥当性のある明確な情報と肯定的な内容のみを読者に向けて書くこと」を約束するように求めた。

 「そんな約束はできないわ」マエは言った。

アルミニウム箔張りの部屋が、沈黙に包まれた。

それまでほぼ無感情であったデブは、泣きそうになっていた。

スノーフレークについて記事を書くチャンスが失われつつある──私は咳払いをし、この険悪な雰囲気を何とかするために“秘密”を打ち明けることにした。

 「本当は黙っておくつもりだったけど……」

 私は自分の病気のことをスージーとデブに打ち明けた。

そして、病気になっても誰も信じてくれないことがどんな感じか、少しは分かると伝えた。

 私は4~5年前から髪が抜けはじめ、後頭部に焼けるような強烈な痛みを感じて氷枕を使っていたことや、常に吐き気を感じてたくさん泣いたことなどを話した。

スージーとデブが「下痢」の症状がでるとを何度も言っていたので、それにも同調してみた。

 場の空気はみごとに和らいだ。

 医者に「体に異常はないから、精神科医へ行け」と言われたことも話すと、2人は同情するような笑顔すら浮かべた。
そしてスージーは、私が当時どんな状況にあったかを尋ねた。

そこで、ジェームズという男性を追ってニューヨークに渡り、同棲をはじめたが1ヵ月で別れたことを告白した。

だがスージーは、貯金も底をついたうえに仕事まで失ったというエピソードのあたりで「男の話なんか聞いてない! もっと物理的な状況を聞いてるのよ!」と、話をさえぎった。

すると私の頭に突如、そのとき住んでいたアパートが思い浮かんだ。

そのアパートはドライクリーニング店の風下にあり、店の通気口のそばには鶏の屠殺場のような洗剤の匂いが立ち込めていたものだった。

それを聞いて、スージーとデブはハイタッチをした。
 私が当時置かれていた状況は、環境病を引き起こす典型的な状況と酷似していたからだ。

 「屠殺場の清掃には、ものすごい数の化学薬品が使われているのよ。
その場所を去ると、症状は軽くなった?」
デブは生き生きしながら言った。

 「いいえ、でも医者からグルテンをとらないようにいわれたので、それに従ったら症状が軽くなったわ」

 「グルテン! 私もそうだったのよ! 私も自分の環境病の原因はグルテンかもしれないと思っていたの。これがダメな人が意外に多いのよ」
 今度はスージーが嬉しそうに言った。

 私がグルテンは気休めで、精神的なものだと思うと言うと、2人は明らかにがっかりとし、決まりの悪そうな表情になった。

 「グルテンを避けたら、おもらしすることはなくなったの。それに確かに、環境を変えることで症状が和らいだかもしれない。でも頭の焼けるような感覚は、皮膚科で抗うつ剤を処方されるまで無くならなかったわ。だからといって、環境病が架空のものだったと言ってるわけじゃないのよ」

スージーとデブの気分を再び害することを恐れて、私はまくしたてた。
すると興奮したせいか、私はなぜかものすごい爆音をたてて、おならをしてしまった。

マエは驚き、そしてゲラゲラと笑いだした。

スージーはただ肩をすくめ、デブはまるで何も聞こえなかったフリをした。
 化学物質では悩まされるのに、人体から自然現象で放出されるものなら、彼女たちの健康には害がないようだ。

どうにか信頼を回復できたところで、いま感じている頭痛についても打ち明けた。

スージーは急いで鎮痛剤を探しだし、デブは、「それも通常の世界でため込んだ毒素を私の体が吐き出そうとしている、環境病の症状の一種だ」と説明してくれた。

 不調を打ち明けたとたん、2人の間で私の株は急上昇したようだ。
 「どうぞ」と、デブは水の入ったマグカップを差し出し、スージーは私の手のひらに鎮痛剤をのせてくれた。

これまで、まるで伝染病患者のように忌み嫌われていたのに、急に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるようになったことが嬉しくなって、つい2人を抱きしめたくなった。
スージーは憮然と受け入れてくれたが、デブには「まだ臭すぎる」という理由で丁重に断られた。

だがデブは、マエに撮影を許可してくれた。
死にたい気持ちは“伝染”する

 スージーとデブを含め、スノーフレークの住民のほとんどは障がい者手当を受けている。だが、行政は彼女たちに甘い顔をしない。
 誰からも認知されていない病気で苦しんでいる者が、「障がい者」としての保護を求めるのは並大抵のことではないのだ。

また、たとえ申請が通り、いくばくかの手当がもらえるようになったとしても「こんな病気はでっちあげだ」といわれていつ手当の支給が停止されてもおかしくない。

 住人たちはみな、「働きたい」「働いていた時代が恋しい」と私に繰り返した。
そしてアイデンティティがなく、自分自身の価値が見いだせないのだとも語った。

 住人の多くは、デブのように化学技術者として働いていた。頭がよくて飽きっぽい彼らは、他人から怠け者や乞食だと誤解されるのを心配していた。

 私は彼らの働きたいという気持ちも、でも病気のせいで働けないという事実も両方信じることにした。住人たちは皆、1日中寝たきりで病気による激しい痛みに目を固くつぶりながら耐えていたからだ。

 砂漠で石を集めているとき、スージーは自殺した友人について話してくれた。

 「ここにいる人たちは、自殺する人が多いの。
うつでもなんでもなかったのよ。ただ、もう生き続けることができなかったのね。
だから友人は、食べることを止めて、飢えて死んだの」

スージーによれば、ここで年に平均2人は自殺するそうだ。それはきっと、「もう生きていけない」という気持ちが、“伝染”するからだと私は指摘した。

 「死体は、私たちの手で埋葬するの」
スージーは言った。
それを聞いて私は、「お気の毒に」としか言えなかった。

 私たちが話した人々の多くは、最終的には彼らの病気を信じてくれる医者に会うことができた。
かつて通常の世界で、屈辱的な検査と、どんなに苦しみを訴えても救急治療室に入れてもらえなかった彼らにとって、医療専門家は敵だった。

だが状況は変わった。
いまではほとんどの医師が、東洋科学やマンツーマンの治療を用いた統合医療を実践している。

 環境病は、身体的な現象だという態度をとるかぎり、スノーフレークの住人は満足し、率先して会話をしてくれた。

しかし、その病が精神的なものであると言うと、それがどれだけ遠回しな表現であっても彼らは激怒した。

 何年間も疑いの目と戦いながら過ごしてきた者にとって、会ってまもない部外者に異常者扱いされることほど、嫌なことはないのだろう。
だから、怒りをぶつけられても、私は彼らを責める気にはなれなかった。

 取材後、自分の書いたメモを読み直していると、そこには「話を聞いた人々は、何らかの深刻なPTSDがあるのではないか」と殴り書きされていた。

 原因としては重い病気を患ったことや、エイズのような国を揺るがす危機的な状況を経験したことが考えられる。性的暴行について言及した人もいた。

 抗精神病薬を飲んでいるのかと聞いたとき、スージーは少女のような甲高い声を上げ、「あなたに関係ないでしょう!」と叫んだ。だが、発作を抑える薬を飲んでいると教えてくれた。

スージーが何を飲んでいるのかを知りたくていくつか薬の名前を挙げると、私が服用していたものと同じものだった。

「ハグしていい?」「絶対イヤ」

スノーフレークでの最終日の朝、デブは車道で私を止め、私がどれだけ弱っているかを説明した。

うつ病の病歴やスノーフレークに来てからというもの悩まされている頭痛、2週間早く始まった月経などがそれを証明しているというのだ。

 「かかりつけの医者にも連絡してみたけど、ただのストレスだと言ってるわ」と私は答えた。

だがデブは首を振った。
 「あなたは環境病にかかっているのよ。私にはわかる」

ためらいがちな声で、デブは、実は環境病をテストする客観的で科学的な方法があり、それはいますぐに実施できると言った。
とても簡単な検査だが、記事には書かないでほしいという。

 「詳しいことが書けないなら、かえって怪しまれるわよ」
 私は何とか彼女を説得しようとした。

 「私たちのことを頭がおかしいと思うでしょうね」と、デブ。
 「デブ、私はそうよ」
 「キャサリン、それはちがうわ」

 検査を終えた後、暗い車内で眼鏡を探している彼女をドアの前で待った。
 私はすでに自分の服を着ていたので家のなかに入れてもらえず、通常の世界の洋服から発散される匂いでデブの耳は腫れていた。

いよいよ出発というときになって、デブは、「環境病を診断するのに使った装置が、正常に動かなかったようなので後日、連絡する」と言った。
 私は電話番号とメールアドレスを残した。

 別れのときが近づくとしん何だかしんみりしていまい、私はデブに尋ねた。
 「さよならのハグをしていい?」
 「その服では、絶対イヤ」と彼女は無慈悲に答えた。

 通常の世界まで車を走らせる間、スージーは言った。