体力が持ち直した早苗さんは自宅を離れ、母親の運転する車に乗って放浪の旅に出る。
お供をするのは3匹の犬たちだ。
ゴルフ場や大きな農園を避け、山奥へと向かう。人里離れた森の中で、テント生活を始める母娘。
オーガニックな衣服を身にまとい、無農薬大豆による自家製ミソを使った食事を用意する。まるで縄文時代に先祖帰りしたかのような生活である。
『刑事ジョン・ブック 目撃者』(85)で描かれたアーミッシュたちの暮らしのようでもあるし、フランソワ・トリュフォー監督のSF映画『華氏451』(66)に登場するブックピープルたちが集う森のようでもある。
質素さを極めた、その生活はとても美しい。
化学物資から逃れるために森で暮らすようになった早苗さん親子と対照的に、都会の喧噪の中でサバイバルすることを決意したのは若手プロレスラーの入江茂弘選手だ。
子どもの頃に新築の家から致死量のホルムアルデヒドが検出され、家族全員が化学物質過敏症を患うことになった。
新居を手放して父方の実家に身を寄せたが、周囲からは理解されず厳しい言葉を浴びせられた。
病気を疑った小学校の教師は薬品が並ぶ理科室での授業を強要し、入江選手は洗面器いっぱいの鼻血を流し、学校に行けなくなってしまった。
入江選手の少年期は病気や世間の偏見と闘うことに費やされた。
強い肉体に憧れた入江選手は自分の体を徹底的に鍛え、闘い続けることを意義づけ、プロレスラーという職業を選んだ。
まだリングだけでは食べていけないので居酒屋でアルバイトもしている。
副流煙などと闘いながら、黙々とトレーニングを続ける。
入江選手の入場曲は筋肉少女帯の「タチムカウ~狂い咲く人間の証明~」だ。
都会のど真ん中でベコベコになりながら、何度でも立ち上がる彼もまた美しい。
化学物質のない森の中での生活に笑顔を見せる早苗さんと母親の道子さん。
平穏な一瞬一瞬が愛しいと語る。
2011年に完成しながら一般公開されることがなかった本作。
諸事情から埋もれてしまった映画たちにスポットライトを当てる「お蔵出し映画祭」で第2回グランプリを受賞し、ようやく劇場公開に辿り着いた。
これまでテレビのドキュメンタリー番組や情報番組を手掛けることが多かったベテラン・藤澤勇夫監督が3年半の取材期間を費やして完成させたものだ。藤澤監督によると、早苗さんの体調のよさそうなときを見計らって撮影取材したそうだが、早苗さんはデジカメが発する微量の電磁波にも反応してしまうため、カメラの前で度々苦しげな表情を見せる。
そんな姿も含めて、ありのままの様子を記録することに同意してくれたそうだ。
化学物質過敏症の実態を少しでも多くの人に知ってもらうため、そして同じ病気と闘う人たちと苦しみを分かち合うために。
阿部サダヲ&菅野美穂主演で映画化もされ、すっかり有名になった木村さんの“奇跡のリンゴ”だが、藤澤監督は取材を始めて間もない頃に食べさせてもらったそうだ。
「岩手県生まれなので、リンゴを昔はよく食べていたんですが、ボクが大学に入るくらいになるとリンゴの味が変わってしまい、リンゴが嫌いになった。でも、木村さんが無農薬無肥料で育てたリンゴは味が違った。瑞々しくて甘くて、子どもの頃に食べた懐かしいリンゴの味でしたね」と1941年生まれの藤澤監督は語る。
現在は入手困難となった“奇跡のリンゴ”だが、早苗さんのような病気を患う人たちへ優先的に届くように配慮されているそうだ。
いつの日か“奇跡のリンゴ”がもっと“普通のリンゴ”になればいいと思う。
(文=長野辰次)
runより:今更ですがこの記事は化学物質過敏症を詳しく書いていると感じたので説明の一例として良いのではと思い掲載しました。