(3) 被告は,グルタルアルデヒドの暴露による危険性に関する一般的認識と
しては,一過的で軽微な刺激症状などの可能性が認識されていたにすぎず,
被告において原告が化学物質過敏症に罹患することを予見することは不可能であった旨主張する。
確かに,前記認定のとおり,グルタルアルデヒドの暴露によって化学物質
過敏症に罹患するとの指摘がされた「内視鏡の洗浄・消毒に関するガイドラ
イン(第2版)」が発行されたのは平成16年3月であり,原告の症状につき化学物質過敏症との診断がされたのは原告が被告病院を退職した後であって,原告が被告病院に勤務していた当時,原告が化学物質過敏症に罹患し,あるいは罹患するであろうことを認識・予見することは困難であったことは被告の主張するとおりである。
しかしながら,被告の労働者に比較的軽微な症状が出現し,それが被告の
業務に起因する疑いが相当程度あり,その症状が一過性のものかより重篤なものになるのかが定かでない場合,被告において容易に原因を除去し,あるいは軽減する措置を採ることができるときは,そのような措置を講じるべき
義務があるというべきであり,特段の措置を講じることなく,従業員の症状
経過を観察していた場合には,被告は上記義務に違反したというべきである。
しかるに,本件においては,原告の症状が一過性で軽微な刺激症状に止ま
ると判断するに足りる資料があったことは証拠上認められないのであり(現
に原告はその後化学物質過敏症に罹患していることが判明したことは前記のとおりである。),
原告のグルタルアルデヒドの吸入によって発生したと考
えられる刺激症状が一過性のものであるか,より重篤なものになるかは定か
ではなかったのであるから,被告において,容易に原因を除去し,あるいは
軽減する措置を採ることができた場合は,そのような措置を講じるべき義務
があったというべきである。
(4) 前記認定のとおり,ステリハイドやサイデックスの添付文書において,
使用上の注意として,蒸気が眼,呼吸器等の粘膜を刺激するので,眼鏡,マ
スク等の保護具をつけ,吸入しないように注意すること,換気の良いところ
で使用すること,清拭に使用したりしないことなどが記されていた。
しかるに,被告病院の透視室には換気扇がなく,排気口があっても天井付
近に1つあっただけであり,放射線管理区域であったために戸を自由に開放
することができず,換気が十分でなかったのに,被告病院では,看護師に対
して防護マスク(グルタルアルデヒドを吸収できるもの)やゴーグルの着用
を指示せず,透視室では検査後にグルタラール製剤を漬けた雑巾で透視台や床を清拭させていたのである。
防護マスクやゴーグルの着用を原告に指示することは極めて容易であり,それによりグルタルアルデヒドの吸入を減らすことができ,原告の症状は相当程度軽減していた可能性が高く,被告はそのような措置を講じるべき義務に違反したということができる(なお,被告において,平成12年6月12日にD医師が原告を診察・検査した後,原告を速やかにサイデックスを使用しない外科に配置転換したことは適切であったと評価することができるが,それ以前において,そのような措置を講じるか,透視室の検査状況の改善が困難であれば,少なくとも防護マスクやゴーグルの着用を原告に対し指示すべきであったということができる。)。
(5) 被告は,当時のグルタルアルデヒドの暴露による危険性についての認識
からすると,防護マスクやゴーグルの着用については看護師の自主性に委ねるとの対応は極めて常識的なものであった旨主張する。
確かに,当時グルタルアルデヒドの暴露により化学物質過敏症に罹患する
との認識がなかったことは前記のとおりであるが,現に原告がグルタルアル
デヒドの吸入により刺激症状を起こした疑いが相当程度あったのであるか
ら,他の看護師に対してはともかく,原告に対しては防護マスクやゴーグル
の着用を指示すべきであったということができ,何らの指示をしなかったこ
とは使用者として適切さを欠き,安全配慮義務に違反するというべきである。
また,被告は,透視室の入口付近の天井には通風口があり,室内の空気を
吸気し,ダクトを通じて屋上に排気する換気システムが存在していたし,グ
ルタルアルデヒド濃度の測定は0.04ppmから0.20ppmの間で推移していたから換気状態は良好であった旨主張する。しかし,グルタルアルデヒドは空気より比重が重いため,天井の通風口までグルタルアルデヒドが上昇し吸気されるかは疑問であるし,グルタルアルデヒド濃度は米国における基準ではあるが,0.05ppmを推奨する見解もあることに照らせば,かかる測定値が前記判断を左右するものではない。
4 争点(3)(損害額)について
(1) 医療費等10万6132円
前記認定,証拠(甲5ないし9)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,次
のとおりの各病院において症状に応じた治療を受け,北里研究所病院の検査結果等をふまえて関西医大附属病院において化学物質過敏症であるとの診断を受けたことが認められるから,その診察や治療に要した費用(文書料を含む。)の合計は次のとおり10万6132円となる。
ア大阪中央病院3万3340円なお,原告は平成16年3月2日の診療費として3150円(甲5の2)を別途請求するが,この診療費は領収証明書(甲5の1)に含まれており,二重請求となるから認められない。
イ笹川皮膚科2060円
ウ関西医大附属病院2万6050円
エ石村クリニック2万4680円
オ常松診療所2220円
カ北里研究所病院1万7782円
(2) 交通費等5万6619円
証拠(甲32,33)によれば,原告は化学物質過敏症等の診察・治療の
ために各病院に通院し,交通費・宿泊費の合計として少なくとも原告が主張
する5万6619円を要したことが認められる。
(3) 後遺障害逸失利益517万5362円
証拠(甲31,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,化学物質
過敏症に罹患したことにより,医療現場での勤務が到底できない状況にある
が,原告は家事一般を担当していることが認められるから,かかる後遺障害
は,後遺障害等級に照らせば12級に相当する14%の労働能力を喪失した
とみるのが相当である。原告の基礎年収を原告主張どおりの316万240
0円として,症状固定時49歳であったから,労働能力喪失期間18年(対
応するライプニッツ係数は11.6895)で計算すると,次のとおり,517万5362円となる。
(計算式)
3,162,400×0.14×11.6895=5,175,362(円未満切捨て)
(4) 特別対策費等0円
原告は,化学物質過敏症の症状を緩和するため,健康食品,マスク,空気
清浄機等を購入するなど化学物質過敏症対策のための特別な支出を余儀なくされていると主張するが,一部は生活費の範疇に入るものであり,他のもの
についてはこれを基礎づける証拠が提出されておらず,損害として認められ
ない(もっとも,一定程度の費用を要するものということはでき,この点は慰謝料として斟酌した。)。
(5) 通院慰謝料150万円
前記認定の原告の症状や通院期間等からすると,原告の通院慰謝料として
は150万円が相当である。
(6) 後遺障害慰謝料280万円
前記認定の原告の後遺障害の内容・程度等からすると,原告の後遺障害慰
謝料としては280万円が相当である。
(小計963万8113円)
(7) 弁護士費用100万円
本件事案の内容,難易の程度,認容額,審理経過等本件に現れた一切の事
情を考慮すると,本件における弁護士費用は100万円が相当である。
(8) 合計額1063万8113円
したがって,原告の損害額は1063万8113円となる。
5 結論
以上によれば,原告の請求は,被告に対して債務不履行に基づく損害賠償債務として1063万8113円及びこれに対する訴状送達日の翌日である平成16年6月19日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があり,その余の請求は理由がない。
よって,主文のとおり判決する。
大阪地方裁判所第15民事部
裁判長裁判官大島眞一
裁判官平井健一郎
裁判官中村仁子