3 争点(2)(被告の安全配慮義務違反)について
(1) 使用者は,雇用契約上の付随義務として,労働者に対し,使用者が業務
遂行のために設置すべき場所,施設若しくは器具等の設置管理又は労働者が使用者の指示のもとに遂行する業務の管理に当たって,労働者の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務を負っている。
そこで,前記認定事実に照らして,被告の安全配慮義務違反について検討する(原告及び被告は,予見可能性と結果回避義務違反に分けて主張するが,本件においては両者を峻別することは相当ではないので,以下では両者を合わせて検討する。)。
(2) 医学雑誌や医学研究会において,平成3年ころからグルタルアルデヒド
の医療従事者に対する危険性が指摘されてきた。すなわち,前記認定のとお
り,平成3年にグルタルアルデヒド取扱者に皮膚炎,鼻刺激症状などが生じ
たとの報告がされ,平成7年には山口県下でグルタルアルデヒドを使用する
112名の医療従事者に対するアンケート調査結果では,約86.6%が眼刺激を,約82.1%が鼻刺激を経験し,皮膚炎,頭痛,流涙,咽頭痛,悪心,鼻炎などの副作用の訴えもあり,グルタルアルデヒドを床・壁の清拭消毒に使用していた場合では22名中全員が眼・鼻刺激を経験し,その他の副
作用も生じていたとの報告がされていた。
平成11年1月まで被告病院において使用していたステリハイドの添付文書には,「グルタラールの蒸気は眼,呼吸器等の粘膜を刺激するので,眼鏡やマスク等の保護具をつけ,吸入または接触しないように注意すること,外国において換気が不十分な部屋では適正な換気状態の部屋に比べて空気中のグルタラール濃度が高いとの報告があり,換気状態の良い部屋でグルタラールを取り扱うことが望ましいこと,グルタラールを取り扱う医療従事者を対象としたアンケート調査では,眼,鼻の刺激,頭痛,皮膚炎等の症状が報告され,外国において,グルタラール取扱者は非取扱者に比べて,眼,鼻,喉の刺激症状,頭痛,皮膚症状等の発現頻度が高いとの報告があること」等の説明がされていた。
平成9年11月に開催された第39回日本消化器内視鏡技師研究会において,「グルタルアルデヒドの飛散により目や皮膚から,蒸気吸入により気道から侵入し,医療従事者に対し様々な副作用が生じ問題となっているが,我が国では基準がなく安易に使用されているのが現状であり,消毒を確実に行いながらも,スタッフの健康を損なわない環境を確保していく必要がある」旨の報告がされ,平成10年11月に開催された第41回日本消化器内視鏡技師研究会においては,複数の病院において内視鏡室のグルタルアルデヒド濃度が測定され,環境整備のための空気清浄器による換気,消毒専用室の設置,グルタルアルデヒド保護用のマスク,手袋,ガウンの着用などの方策に関する報告がされた。
平成11年1月から被告病院で使用を開始したサイデックスの添付文書に
は,ステリハイドの添付文書と同様の説明がされおり,同年2月に丸石製薬
が作成した「グルタラール製剤使用上の留意点」と題する文書には,「グル
タラール蒸気の暴露を防ぐためには,直接蒸気を排出する局所強制換気システムの使用が最も効果的であるが,その導入が困難な場合には,窓の開放や換気扇の作動などにより室内空気の十分な換気を行うこと,換気装置はグルタラール蒸気発生場所からできる限り近い位置に設置し,換気を行ってもグルタラールの臭いや刺激を感じる場合には活性炭等を使用したグルタラールを吸収できるマスクを着用すること,薬液の眼への直接付着を防止し,蒸気の暴露を防止するため,密着性がよく,使いやすいゴーグル等を着用すること,密閉性の高い蓋付きの浸漬槽を用い,使用中は蓋をすること,器具を浸漬及び取り出す際には薬液及び蒸気が飛散しやく,特に内視鏡消毒時の手技においては著明であるから,防護具を着用し,作業は丁寧にすばやく行うこと」等の指摘がされていた。
以上の事実経過からすると,平成7年ころからグルタルアルデヒドの医療
従事者に対する危険性が具体的に指摘されており,原告が被告病院検査科に配置されていた当時,医療従事者がグルタルアルデヒドの蒸気により眼,鼻などの刺激症状という副作用が生じることが認識されていたということがで
きる。
そして,原告は,平成10年6月2日に当時被告病院の衛生管理者であっ
たE医師に対し,鼻粘膜と咽頭粘膜の刺激を訴え,同医師よりステリハイド
吸入による刺激が考えられる旨診断され,その後も咽頭痛が継続し,被告病
院において診察・治療を受けていたのであるから,長時間グルタルアルデヒ
ドを吸入する可能性のある透視室に勤務していた原告の業務内容からする
と,被告において,原告の刺激症状が透視室内での洗浄消毒作業に起因するものと認識することは十分に可能であったということができる。