4 札幌地判平成14 年12 月27 日(TKC 判例データベース)
[事実の概要]
本件は、Yが、Xとの間で平成8 年(1996 年)10 月10 日に締結した請負契約に基づきX宅(本件建物)を建築・完成させたとして、Xに対し、請負残代金の請求をしたところ、Xが反訴を提起し、本件建物に入居直後からXおよびその家族に化学物質過敏症が発症したとして、不法行為または債務不履行に基づく損害賠償を請求したものである(予備的反訴請求として、本件建物に建築上の瑕疵があったことを理由に、瑕疵修補に代わる損害賠償も請求している)。
ちなみに、本件建物が完成したのは、平成9 年(1997 年)2 月7 日であり、同日YからXへの引渡しがされている。
なお、Yは、パンフレットにおいて、「自然住宅」・「健康住宅」がテーマであると記載していた。
Xは、自己およびその家族に化学物質過敏症が発症し、それが本件建物に使用されたホルムアルデヒド等との間で因果関係があること、本件請負契約締結にあたり、少なくともホルムアルデヒドがWHO の基準値を超えて放出されるような建物を建築しない合意があったこと、さらに、Yは平成8 年当時、WHO 指針値や化学物質過敏症が問題視されていたことを知っていたはずであるから、WHO 指針を重視し、「健康住宅」を標榜する専門業者として、細心の注意を払ってホルムアルデヒドによる室内汚染を防止すべき注意義務があったのにそれを怠ったことを主張した。
これに対して、Yは、化学物質過敏症自体が確立した疾患として認められていないと主張し、また、Xらの症状と本件建物への入居ないし本件建物に使用されたホルムアルデヒド等との間の因果関係を争うとともに、一般住宅において、天然素材のみで建築することが可能なわけではなく、接着剤等の化学物質を含んだ素材を使わざるを得ず、したがって、一般住宅において、化学物質を発生させない建物を建築することは事実上不可能であったこと、本件請負契約が締結された平成8 年の時点において、ホルムアルデヒドに関しては世界各国がさまざまな基準を設けており、Xが主張するようなWHO の基準は絶対的でなかったこと、Yは、本件請負契約締結の当時、化学物質が建物から不可避的に発生することを認識していたが、Yの建築した建物からどの程度の化学物質が発生し、換気システムを作動した状態でどの程度の化学物質濃度になっているのか、化学物質の濃度と健康被害との間にどのような関係があるのか認識できなかったことを主張して、(WHO の指針値が契約内容となるような黙示の合意の成立を否定するとともに)化学物質過敏症の発症の可能性を予見することが不可能ないし著しく困難であると反論した。
[判旨]
① 判決は、まず、次のように述べて、Xが化学物質過敏症に罹患していたことを認めたものの、その家族(B・C・E)については、これを否定した。
「F医師が診断書を作成した平成9 年12 月16 日の時点では、Xに化学物質過敏症と呼ばれる症状が発症していたと認めるのが相当である。
F医師は、…Xに対して各種検査を実施し、その結果として、眼球運動の異常等化学物質過敏症に特徴的とされる他覚所見が現れており、自己申告である問診以外の客観的な資料をも考慮した上で化学物質過敏症であると診断しており、その診断は相当の根拠に基づいていると認められる。
もっとも、…Xは、買物等のために週に5、6 日は電車を使って自宅から札幌に出てきてデパートやスーパーマーケットに行っていることが認められるし、Xの症状は良い方に向かっている(証人F)のであるから、Xの症状は化学物質の全く発生しない建材のみを使った住宅でしか暮らしていけないほどに重篤であるとはいい難い。
これに対し、Bについては、診断書の診断名こそ、Xと同じであるが、F医師は、証人尋問において、Bに現れた眼球運動障害については、同人の既往症である白内障や加齢による眼球運動障害も加味して、弱い異常と考えた方が良かったと供述していることに加え、…平成元年7 月ころより各種症状を呈してM病院を継続的に受診していることが認められ、その診療録等によれば、Bが、従来より、糖尿病、高血圧、アレルギー性皮膚炎等多様な症状を訴え、本件建物への入居を境に、感冒、気管支炎、アレルギー性鼻炎等の症状が追加されているものの、その後のA労災病院において肺炎と診察され入院治療を受けていることからすると、同症状は肺炎に起因するものと推測されるのであり、しかも、その肺炎が、同病院での入院治療によって治癒していることからすると、前記のF医師の診断にもかかわらず、本件建物入居後のBの症状が、化学物質過敏症に由来するものとは認め難い。
そして、他に、Bに化学物質過敏症が発生していたと認めるに足りる証拠はない。
また、Cには、…多種性化学物質過敏症との診断書が作成されているが、…化学物質過敏症の診断のためには、詳細な問診と検査が必要であるところ、Cについての上記のような診断に至った問診及び臨床検査の経過が明らかではなく、診断書が作成されていることから直ちにCが化学物質過敏症に罹患していると断定することはできない。
さらに、Eについて、化学物質過敏症であるとの診断書が提出されているが、Eは、東京に在住していた者であり、本件建物との関わりは非常に低いと認められるから、仮に化学物質過敏症に罹患しているとしても、本件建物に起因して罹患したものであるとまで認めるに足りる証拠はない。
ところで、このような化学物質過敏症については、医学界においても賛否両論存在し、科学的な証明ができていないとして、『化学物質過敏症』という名称を使用すること自体に対しても批判のあるところである。
しかしながら、このような化学物質過敏症に対して批判的な見解を唱える立場にあっても、『化学物質過敏症』と称されている症状を訴える患者の存在を否定するものではなく、その意図するところは、このような患者を適切に救済するため、その発症機序や原因について、より深く検討すべきであるという点にあるものと解される。
そうすると、これら『化学物質過敏症』とされている症状を訴える患者に対し、化学物質過敏症との診断名を付して、診察・治療を行うことは、医学的な検討について、なお解明すべき点が残されているとはいっても、上記認定を妨げるものではない。」
② 次に、判決は、Xの症状と本件建物への入居との因果関係について、「本件建物に入居したことが、Xの上記症状の発生の一因になっており、化学物質過敏症と呼ばれる症状との間に因果関係があると推認される」としつつ、次のように述べることで、「Xの化学物質過敏症の罹患と本件建物に入居したこととの間には相当因果関係が肯定されるとはいえ、それが唯一の原因ではないというべきである」とした。
「化学物質過敏症の発生機序については、F医師の証人尋問が実施された平成12 年11月21 日の時点においても明確にはされておらず、わが国においては唯一といって良いほどの豊富な臨床経験を有していたK大学病院のF医師らによって、化学物質過敏症の発生には総負荷量が重要であって、過去に化学物質に曝露された経験を有する者や、アレルギー体質の者が比較的罹患しやすい傾向にあることなどの化学物質過敏症についての情報が保有されていたことが認められる。
/そうすると、Xが過去に歯学部に在籍しホルマリン等を扱う機会が多かったこと、Xが青身魚に対するアレルギーや、ほこり、かび及び高温・多湿に対する過敏症を有していたことに照らすと、Xが化学物質過敏症と呼ばれる症状を発症した原因は、本件建物からのホルムアルデヒド等の化学物質のみならず、過去の歯学部在籍中に曝露したホルマリンや従前から保有していた各種アレルギー・過敏症の総和によるものと解するのが相当であり、本件建物から放出される化学物質のみにあるのではないというべきである。」
③ そのうえで、判決は、Yの責任に関して、「本件請負契約の内容として、本件建物からの化学物質の放出量を具体的に定めたこと、あるいは、化学物質が全く発生しないことを定めたとは認めることができない」としながらも、Yが「健康住宅」をテーマとして建築業を営んでおり、そのパンフレットにおいても自然素材をふんだんに使用するなど、化学物質の放出が極めて低く抑えられるものと解される記載がされていること、現在でもホームページ上において、Yの建築する住宅が人や自然に優しい「健康住宅」であることを宣伝しており、Yとの間で請負契約を締結する者は、Yの建築する住宅のデザインや機能性のみならず「健康住宅」に居住することができることに重点を置くものと考えるのが自然であることからすれば、「その顧客に対しては、他の建築業者以上に、健康被害等が生じないよう最大限に注意すべき義務を負うと解するのが相当である」とした。
もっとも、「本件建物からのホルムアルデヒドの放出量は、台所戸棚を除き、概ね0.1ppm 程度以下であったものであるところ、本件請負契約が締結された平成8 年10 月及び本件建物が引渡された平成9 年2 月当時、わが国において、ホルムアルデヒドの放出量について指針となるべき基準はなく、諸外国の例をみても様々で、0.1ppm を基準とする国もあり、それ以上の数値を基準とする国もあるという状態であったものである」し、「わが国においては平成9 年6 月に至って、WHO の基準値に準じた0.08ppm という指針値が厚生省から示されるに至ったが、その数値も健康に対する影響が観察された濃度に安全率を加味したものよりも低い値であるというのである」から、「本件建物において、0.1ppm 程度のホルムアルデヒドを放出することが、平成8年10 月ないし平成9 年2 月当時において違法であり、あるいは契約上の義務に違反すると認めることは困難であり、原告において他の建築業者以上の注意義務を負うべきであったことを考慮しても、上記判断を左右しない」として、Yの注意義務違反を否定した。
④ さらに、本判決は、Xが本件建物に入居することにより化学物資過敏症が発生することについてYには予見可能性がなかったとし、その理由を次の点に求めた。
「Xに化学物質過敏症と呼ばれる症状が発生したのは、本件建物からのホルムアルデヒド等の化学物質のみならず、過去に歯学部に在籍してホルマリン等に接する機会が多かったというXの過去の経歴から、基盤としてのホルムアルデヒドの負荷量が大きかったことや、本件建物入居以前に有していた青身魚に対するアレルギー、その他ほこり、かび及び高温・多湿への過敏症などの、さまざまな身体的・心理的なストレス要因が総和したことに起因するものと考えられるところ、これらの一般的な化学物質過敏症の発生機序についての情報は、豊富な臨床経験を持つF医師の経験に基づいて形成されたものであり、平成8 年10 月ないし平成9 年2 月当時、Yがこれらの情報を得ることは、著しく困難であったと解される。」