Ⅱ 裁判例で扱われた「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」
1 緒論
「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」にかかる問題がわが国で裁判例として登場してきたのは、ここ10 年ほどのことである。以下では、既に公表されている裁判例をとりあげ、化学物質による健康被害につきどのような主張がされ、また争点が形成され、裁判所の判断が下されたのかを整理する4。
*先行する業績として、秋野卓生「シックハウス訴訟にまつわる法的問題点」NBL757 号32 頁以下(2003 年)、原正和「化学物質過敏症と予見可能性」労働法律旬報1626 号18頁以下(2006 年)がある。
2 東京高判平成6 年7 月6 日判時1511 号72 頁(ジョンソン・カビキラー事件)
[事実の概要]
本件は、(控訴審段階においてであるが)「化学物質過敏症」の概念が裁判例で最初に登場した事案である。Yの製造・販売する家庭用カビ取り剤「カビキラー」は、次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウム、界面活性剤などを成分とするカビ取り剤であり、Xが使用した「カビキラー」は、噴霧式のものであった。
Xは、昭和57 年(1982 年)10 月ころから昭和59 年(1984 年)3 月ころまでの間、「カビキラー」を風呂場で反復継続して使用したため、噴霧時に、口、喉、鼻、眼、皮膚から「カビキラー」の飛沫を大量に浴び、「カビキラー」に含まれている次亜塩素酸ナトリウム、水酸化ナトリウムを吸引し、その結果、慢性的に咳、咽頭部の焼けただれるような痛みや裂けるような苦しみ、呼吸困難、胸痛といった症状を伴う慢性気管支炎ないしはアレルギー疾患等に陥ったことを理由に、予備的には、「カビキラー」の使用直後に急性気管支炎に陥ったことを理由に、Yに対して損害賠償請求をした(本件は、製造物責任法の及ばない事件である)。
第1 審判決(東京地判平成3 年3 月28 日判時1381 号21 頁)では、急性疾患についてのみ「カビキラー」の使用との因果関係が認められ、Yの過失についても、「カビキラーの容器は噴霧式であり、そのため薬液の一部が空気中に飛散、拡散し、使用者が薬液の一部を吸入するおそれがあること、カビキラーの成分である次亜塩素酸ナトリウムや水酸化ナトリウムは人の気道に傷害を与える有害な物質であること、また、カビキラーは、日用雑貨品として大量に販売され、一般人が日常的に使用するものであることに鑑みると、Yは、カビキラーの製造、販売に当たり、人の生命、身体、傾向に被害を及ぼさないよう注意すべき義務を負っている」とし、その違反を認めるとともに、予見可能性の点でも、「Yは、カビキラーの製造、販売に際し、カビキラーが場合によりひとの気道に対して傷害を生ずるなどの健康被害を与えるおそれのたることを予見することは可能であった」とされた。
これに対する控訴審で、Xは、追加的に、「仮にXが慢性気管支炎に罹患したことが認められないとしても、Xはカビキラーの使用により、(複合)化学物質過敏症に罹患した」と主張した。
そして、化学物質過敏症は、Yにはアメリカ合衆国の親会社を通じて予見または予見可能であったし、そうでなくても、カビキラーの製造・販売にあたっては、最高水準の調査・研究をすることによって万が一にも人体に被害を及ぼさないようにし、もし人体に無害であることは確実でないと疑われる場合は販売しないなどして、人体の被害の発生を予防・回避する義務を有していたし、その義務の一環として、アメリカ合衆国をはじめとする諸外国の文献や医学会の研究発表等を調査する義務があったと主張した。
かかる義務を尽くしておれば、「アメリカ合衆国の医学界においては化学物質過敏症と名付けられた疾患が一般化していることは容易に知り得たはずであり、Yは、化学物質過敏症を予見することは十分可能であった」としたのである。
[判旨]
① 本判決は、まず、Xの症状が「カビキラー」の使用による化学物質過敏症であるとする点について、次のように述べて、これを否定した。
以下は、化学物質過敏症に関する裁判所の判断が最初に本格的に示された判示部分である。
「化学物質過敏症は、一部の学者の研究上の仮説であり、未解明の分野であって、その診断基準も確立されておらず、M意見は問診だけに頼ったもので、医学的裏付けに乏しく、信頼性に疑問があるという意見もあることが認められる。
そして、化学物質過敏症の診断基準が確立されていないこと、及びM証人がXの症状を本件カビキラーの使用によると判断したのは主として問診の結果によるものであることは、M証人も認めているところである(同証人の証言によると、血液検査の結果による客観的な診断方法はまだ確立されておらず、研究段階であるという。
そして、これまでに得られた研究結果に基づく限り、Xの血液検査の結果は、必ずしも期待した結果を示さず、精神安定剤の使用を前提にしない限り、化学物質過敏症と診断するにはかえって矛盾する部分もあることも認めている。)。」
② 他方で、本判決は、「Xの前記症状は、これまでに明らかにされている医学的知識に基づく特定の病名で統一的に理解することはできないというほかないが、明確な病名で呼ばれる疾患とはいえなくても、Xの前記症状のうちで健康被害といえる程度の症状が認められ、その症状とカビキラーの使用との間に因果関係が認められるなら、Xの損害賠償請求の一部を認容する余地がある」とした。
しかしながら、Xに慢性気管支炎等の慢性的症状が生じたとは認められないうえに、Xが「カビキラー」を使用することによって生じた急性の症状も、こうした製剤を使う際にありがちな一過性の症状を出るものであったとまでは認め難いとして、第1 審判決が一部認容したXの請求を棄却した。