化学物質過敏症及びシックハウス症候群に関する法律上の取り扱い及び訴訟等の状況
潮見佳男(京都大学大学院法学研究科教授・民法)先生
Ⅰ はじめに
この10 年ほどの間に、日常生活で接触する建物・製品等に含まれている化学物質による健康被害、とりわけ「化学物質過敏症」については、シックハウス(ないしは、シックビルディング、シックスクール)問題も含め、繰り返されるマスコミ報道、一般市民をも読者対象とする出版物の刊行が積み重なるなか、その社会的認知度が速な高まりをみせている1。
これらに関する損害賠償請求訴訟も提起され、それに対する判決や和解例2も出現し、世間の耳目を集めている3。
ひるがえって、「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」に関する医学面での研究は、ここ10 年間で、議論の大きな進展をみせている。
厚生労働省・国土交通省ほか政府レベルでの取り組みも、同様である。
しかしながら、その一方で、「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」というものがいかなる病態であるのか、発生メカニズムがどのようなものであるのかについては、現在でも、なお見解が分かれている(診断基準についても同様である)。
とりわけ、「化学物質過敏症」については、病態の存在そのものに疑問も示す見解もある。
このような「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」ないし化学物質による健康被害を損害賠償という民事責任との関係で見たとき、そこで問題となっている事例は、従前の損害賠償事例とは異なる特殊性をもつものである。
たとえば、法的紛争の当事者面に着目すれば、「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」の事例では、専門的知識を有しない事業者や一般市民が加害者側に置かれる場合が少なくない。
もっとも、専門的知識を有する事業者が被告とされる事例も、労働災害事例を中心に訴訟の場に登場するようになっている。
また、権利・義務の実体面からみたときには、「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」という病態・発生メカニズムについての理解の多様性とともに、この症状のもつ特徴から、従来の責任論をもってしては、とりわけ、過失の判断について、十分な対応がとりづらい状況が存在している。
本稿では、こうした化学物質による健康被害、とりわけ「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」に罹患したことによる健康被害を理由とする損害賠償問題をとりあげ、この問題が民事責任論、とりわけ民事過失の理論および因果関係の理論にどのような影響を及ぼし、責任の判断構造の展開をもたらすのかを考察するものである。
なお、製造物責任法・新築住宅品質確保法の適用問題については、検討の対象外とする。
1 石川哲=宮田幹夫『化学物質過敏症 ここまできた診断・治療・予防法』(かもがわ出版、1999 年)、柳沢幸雄=石川哲=宮田幹夫『化学物質過敏症』(文藝春秋、2002 年)、国土交通省住宅局建築指導課ほか編『改正建築基準法に対応した建築物のシックハウス対策マニュアル』(工学図書、2003 年)、化学物質過敏症患者の会編『私の化学物質過敏症』(実践社、2003 年)、室内空気質健康影響研究会編『室内空気質と健康影響』(ぎょうせい、2004年)、(社)大阪府建築士会ほか『シックハウスがわかる』(学芸出版社、2004 年)、日本弁護士連合会『化学汚染と次世代へのリスク』(七つ森書房、2004 年)、化学物質過敏症支援センター・シックスクールプロジェクト編『シックスクール』(現代人文社、2004 年)、吉川敏一編『シックハウス症候群とその対策』(オーム社、2005 年)など。
2 判決については、既に公表されているものを中心に後述する。最近の和解例では、2006年9 月11 日の大阪地裁における「ライオンズマンション シックハウス集団訴訟」の和解が有名である。
これらについては、[表4.4.5]の記事リストも参照せよ。
3 公害等調整委員会でも、本稿執筆時点で既に3 件の判断が下されている。
このうち、「杉並区不燃ゴミ中継施設健康被害原因裁定申請事件」については、後述する。
残りの2 件、すなわち、「大和郡山市における化学物質による健康被害原因裁定申請事件」と「津市における化学物質による健康被害原因裁定申請事件」については、いずれも、平成18 年5 月29 日に、公害にかかる被害についての紛争に該当しないとの理由で却下されている。
これらの経緯については、荒井真一「シックハウス症候群等を巡る最近の公害紛争――公害等調整委員会の裁定を中心として」生活と環境51 巻8 号31 頁(2006 年)を参照。