神奈川県立保土ヶ谷高校シックスクール事故の顛末記 Ⅳ | 化学物質過敏症 runのブログ

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・出典;化学物質問題市民研究会
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・神奈川県立保土ヶ谷高校シックスクール事故の顛末記 Ⅳ
H.Y.(元保土ヶ谷高校教諭・保土ヶ谷高校シックスクール裁判原告)

2005年6月16日~8月24日】
 この時期は、改修工事の施工方法が具体化してきた重大な時期でした。安全な教室を取り戻さなければならないという使命感と、第2回保護者説明会で、県対策委員長が約束したことが、教育財務課の職員に伝わっていないことなど、期待を裏切られることもあり、緊迫した日々が続きました。

校内対策委員会では、保護者も含めて、23時まで議論し、肉体的にも精神的にも追い詰められていました。

 事故被害者の当事者として、有機溶剤汚染事故の詳細を記録し安全対策を提案してきた芸術科の職員は、県対策委員会では、発言も認められませんでした。

4月に着任した管理職は、芸術科職員から2004年9月以降の事故経過の話を聞こうとしませんでした。保護者の中には、管理職の対応に不信感をつのらせ、学校の対応に絶望された方もありました。

私はそれぞれの方から、立ち会いを求められ、管理職や県対策委員長との交渉に同席し、意見を述べました。それでも10数名ほどの職員の大きな支援で、可能な限りの力を尽くすことができたと感じています。
 

汚染事故現場の教室では、窓を全開して、換気が行われました。

窓から、有機溶剤が放散され続けている状態で、事故現場以外の教室は本当に安全だったのか、今でも疑問を感じています。

安全確認のためのVOC検査は、窓を閉め切って行われたのです。

事故現場から放散された有機溶剤は、空気より比重が重いので、階下の教室内に窓から侵入する可能性がありました。

事故から9年経過した現在でも、教室や廊下の窓を開けるたびに、事故当時のことを思い出します。

教室は安全だったのかと!