医原病とは?:3 | 化学物質過敏症 runのブログ

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日本[編集]

太平洋戦争中、日本では腸チフス・パラチフスのワクチンは軍隊などでも接種され死亡などの事故が起きていたが、そのような事故は軍隊の不名誉として隠蔽された[12]。

1940年代後半には、種痘は実施後に脳炎を起こす事例が頻発することが医師の間では広く知られるようになり、「種痘後脳炎」と呼ばれた。

その被害規模は無視できない数にのぼり、1947年と1948年の強力痘苗だけに限定しても、犠牲者はおよそ600人と推計されており、天然痘のこの2年間の患者数405人を超えてしまっていた[13]。

日本においては、種痘事故や腸チフスの事故が多数発生していたころ、その事故数についての集計表は厚生省の机の引き出しの奥にしまわれ「絶対に公表しない、一番関係の深い人たちだけが見る」ことになっていたと厚生省防疫課にいた職員が後に語った[14][15]。

1948年、京都でのジフテリア予防接種の時にジフテリア毒素により大規模な医療事故が起き、横隔膜麻痺、咽頭麻痺、心不全等の中毒症状が現れ、死亡者68名という結果になった。

同年、島根県でも類似のジフテリア予防接種医療事故が起き15名が死亡した[16]。

1949年から1950年ごろ、日本では結核の治療法として肋膜外剥離合成樹脂球充填術がさかんに用いられたが化膿を引き起こし摘出されることが多く、後年高齢期を迎えるころには低肺機能となった人が多い[17]。

1956年、東京大学法学部長の尾高朝雄が「ペニシリンショック」で死亡するという事故が起き、報道機関で大きく取り上げられた。

この事故をきっかけとしてペニシリンによるショック死は実はすでに100名に及んでいたことが明らかになり社会問題としても扱われることになった[18]。

日本では1948年の「予防接種法」以降、強制接種や集団接種が拡大していったが、その強制接種や集団接種が安全な方法で行われていなかった。

一例を挙げれば1964年に茨城県で行われた集団接種では、不十分な問診、複数の人に対して針を変えずに接種、マスクをせずに接種、不正確な量の注入、などのやり方が行われていたらしい[19]。

複数の人に対して針を替えずに接種をする行為が蔓延していたことが日本でC型肝炎が多発した原因である[20]、と考えられている。

こうした医原病の概念や知識は、医学教育では断片的には教えられるものの、あまりまとまった形で積極的・集中的には教育されていない[21]。

そういった状況の中、良心的な医師は模索するような形で医原病防止の努力をしている現状がある。

個別の呼称[編集]

現在の日本の医学界では、ある症状や疾患が医療行為が原因で生じたことを明示しつつそれを呼ぶ場合は、「医原性○○○○」のように、症状・疾患名の前に「医原性」という言葉を配置していることも多い。