神奈川県立保土ヶ谷高校シックスクール事故の顛末記Ⅰ | 化学物質過敏症 runのブログ

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ランナーけいさんが7日保土ヶ谷高校シックスクール裁判を傍聴してきたそうです。

この裁判の結果次第で今後が大きく左右されると思われます。

裁判の模様は記事更新されるまで待つ事にして保土ヶ谷高校シックスクール事件の新しい記事を掲載します。


・出典;化学物質問題市民研究会
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/index.html

・神奈川県立保土ヶ谷高校シックスクール事故の顛末記Ⅰ
H.Y.(元保土ヶ谷高校教諭・保土ヶ谷高校シックスクール裁判原告)


■シックスクール事故後をどう生きるか

 子ども(人)を育てることは、人間が文化を豊かにしてきた歴史の中で最大の課題であり続けています。

ギリシャの時代から、また孔子の生きた大昔から、人々が背負ってきたものです。

人が人であり続ける限り、一人一人が今後も、先人の教えを噛みしめながら、未来の子どもたちとともに自分自身を磨くことを続けなければならないと思います。
 2004年の保土ヶ谷高校の有機溶剤汚染事故は、高校という教育現場で起きてしまいました。

大阪の高校生の体罰に起因した自死の事件などを通じて、教育の現場に内在している深いブラックボックスを多くの方が認識したと思います。

保土ヶ谷高校のシックスクール事故を通じて、私は以下のことを再認識いたしました。

国、県、市の行政や教育委員会、学校の管理職など組織のなかで権限をもっている立場の方々が、責任の重大性を認識できなかったこと。組織上の弱者にたいして、思いやりと常識の欠如があったこと。

事故が生じた際に、関係者が共に手をつないで、組織上の権限を超えて共に考え、子どもたちを守ろうとする意識が足りなかった方々が多かったことに、残念ながら思いあたりました。
 先日、「保土ヶ谷高校30周年記念誌」を情報公開によって手に入れました。熟読いたしましたが、有機溶剤汚染事故に関する記事はほとんどなく、校長などが数行でふれただけでした。

職員の座談会でも、汚染事故に関しては、全くふれられていませんでした。国会や神奈川県議会で議論され、神奈川県は「室内化学物質対策マニュアル」を2006年3月に作成し、テレビや新聞で報道され、学校が休校になったり、窮屈な仮設の教室で1年以上も授業が行われ、生徒・教職員に健康被害が多数出たにもかかわらず、保土ヶ谷高校の学校史から、ほとんど消し去られてしまったように思います。
 私は、シックスクール事故を経験した高等学校として、日本一の環境教育を実践する高校になって欲しかったのですが、保土ヶ谷高校の選択は、汚染事故の事実を消し去ることであったのは、誠に残念でなりません。

ドイツ連邦共和国第6代大統領ヴァイツゼッカー氏の演説を思い出します。「後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし、過去に目を閉ざす者は、結局のところ、現在にも盲目になります。」(岩波ブックレットNO. 55「荒れ野の40年」より)
 教育の課題は、政治家たちが考えているように簡単には解決しない問題です。

法律を変えれば解決する問題でもなく、人間社会、そして一人一人の永遠の課題です。

私は裁判の原告として、シックスクール事故を多角的な視点から見つめ続けていきたいと思います。

現在の日本の教育現場が抱えている問題のひとつとして、保土ヶ谷高校シックスクール事故と向き合いたいと思います。
 保土ヶ谷高校の多数の生徒が健康被害を受け、全員が不便な教育環境を我慢しながら、立派に学習活動を成し遂げました。

学校の職員として事故当時在籍された生徒の皆さんの立派な態度に、敬意と感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
 生徒諸君の健康被害が最大の心配事です。

個人情報法の運用によって、連絡先もわかりませんし、現在の健康状態も把握することができません。

私自身の健康状態から推測すると、いまだに一人で苦しんでいる方がいるのではないかと、心から危惧いたしております。

裁判を通じて、少しずつシックハウス症候群・化学物質過敏症に関する情報を提供できればと願っています。