・Ⅹ.批判に対する回答
予防原則は、環境や健康問題と長期の持続可能性に関する新しい思考方法である。
予防原則は、害を許したり制限したりする方法の基本的変化を、私たちに喚起している。
これらの一部は、政府当局と汚染を引き起こしたものに大きな脅威を与え、強力な抵抗を引き起こすと思われる。
予防に対する批判に先手を打つことや、彼らの批判にどのように答えるかを知ることは重要である。
予防原則は健全な科学に基づいていない。
健全な科学は定義の問題である。
「健全な科学」の通常の理解では、リスクアセスメントと費用便益を強調する。
これらは、どうして危険が起こるのかとか、どうしてそれに人々が被ばくするのか、社会は喜んで危険に耐えるというような多くの仮定を必要としながら、価値に重きを置いた方法である。
実際に、原因と影響は非常に不確実なため、人間の健康と環境に関するあらゆる決定は、価値に重きを置き、政治的である。
予防原則はこのことを認識し、決定をするための基本を変えることを提唱する。
予防は、そうすることが不必要であるなら、人間や環境を害に曝すべきではないという原則に基づいている。
予防は、科学の不確実さを暴露し、科学の限界を認めるので、リスクアセスメントより完全である。
これは「より健全な」種類の科学である。
予防は非科学を求めないが、どのように人的活動が人間の健康や環境に影響するかをよりよく理解するために、一層科学的である。
しかし、よりよく理解する必要は、自分たちや将来の世代を守るために、今行動するのを妨げない。
これは感情的であり、非合理だ。
私たちは人間であるから、体内に有毒物質を持って生まれた赤ん坊に関して考えることは、私たちの感情をゆさぶる。将来の世代を世話することは感情的な衝撃である。
これらの感情は不合理ではないが、私たちが生き延びる基本である。
予防は正義の基本であり、だれも自分の健康や環境に害を与える恐れとともに生活すべきではない。
健康に関する意志決定は中立的価値ではない。
それは政治的であり、感情的、合理的である。予防をとらないことは、不合理に思える。
私たちは破産するだろう。これは余りにも金がかかる。
予防は、健康の改善やよりクリーンな産業工程や製品を通じて、長い目で見れば繁栄を増加させるだろうと信じる、もっと多くの理由がある。
環境損害や汚染による治療や汚染抑制・改善に要する費用の急騰は、予防原則を主張している場合、ほとんど見積に含められない。
予防原則の要求に対してはじめは抗議したにもかかわらず、産業は危険を避けるために学習し、取り入れることができた。
汚染防止の分野で、数千の会社は、害が証明される以前に、早く予防したことにより、数百万ドルを節約している。
同じように行ったこれらの会社と政府は、確実な害の証明が現れた時に、自分たちの分野でリーダーになった。
しかし、予防をすることの中で、経済への直接的悪影響を緩和するための計画も作るべきである。
予防行動が悪い副作用を可能な限り起こさないことを確実にするため、社会の様々な分野を共同して働かせる。
予防は、体内に毒物を持たない子供を生むといった社会的目標を設定し、次に、目標を達成する最善の方法を決める。
あなたがしたいのは何か、すべての化学物質の禁止か?これは発展を止め、私たちを石器時代に戻す!
予防は、絶対的な否定や禁止の形をとらない。予防は、経済的幸福のみでなく、病気やそのほかの危険からの解放である生態学的な健康をも含めて、発展を再定義する。
予防の概念は、私たちが以前にやっていた以上に、より注意深く前進することである。
予防は、かわりの良くて安全で、安価な方法の探求と、よりクリーンな製品と技術の開発を、促進するだろう。
一部の技術と開発は、さらにゆっくり商業界に入って行くだろう。
ほかは段階的に廃止されるだろう。
潜在的に有害である活動を提唱する者は、安全性と必要性を正直に証明しなければならないであろう。
他方、有害な物質や工程の生産や使用を不必要にする新技術を創造する多くの誘因があるだろう。
正しいシグナルで、私たちの健康や環境に対する犠牲が少ない発達を創造するために、取り入れることができる。
天然に存在している物質や病気は、産業活動より多くの人を害している。
危険に対して責任があるか、危険をコントロールできるかにつけいて、私たちは論じなければならない。
活動により危険と利益を作った者も、害を生じない義務がある。
しかし、予防の重要な理由は、人間活動によって生じる害の全範囲を私たちはまだ知らず、そして決して知ることはないだろうということである。
例えば、一部の激しい自然現象は、地球温暖化の結果であるだろう。
それは次に人間活動に結びつけられる。
私たちは規制に従っている。
私たちは既に予防を実行している。
一部の場合、ある程度まで、予防は既に実行されている。
しかし、私たちはそれぞれ可能性のある産業の危険や化学物質に対する法律がない。
また、清浄空気法や清浄水法・スーパーファンド法のような大部分の環境規制は、環境中の放出された汚染物質の量を抑制することや、一度汚染が起こったのを浄化することを、目的にしている。それらの法律は、最初に使用や生産を制限するより、むしろ放出された時、毒物を規制している。
大半の現行規制は、害を受けずに、ある量の汚染物質を人間や生態系が吸収できるという仮定に基づいている。
「安全」あるいは「耐容」レベルについて、極端な不確実性があり、多くの場合、私たちはそれらのレベルを突き止めることができないことを、私たちは現在学んでいる。
あらゆるものを安全であると証明できない。
ある活動に対するより安全なかわりのものがあることは、証明可能である。
あらゆる活動は何らかの影響を持つということができるだろう。
あらゆる化学物質は何らかの量で有毒である。
ほとんどすべての人間や産業活動は、生態系に何らかの影響を持つだろう。
予防原則の長所は、安全あるいは耐容できる影響のレベルを突き止めようとすることより、むしろ影響を減すことを絶えず試みることである。