・出典:食品・薬品安全性研究ニュース
http://www.jpha.or.jp/jpha/jphanews/anzen_news/13.html#6
第13号
・「多物質過敏症の発生機序,仮説と研究の方向」
多物質過敏症 (Multiple Chemical Sensitivity; MCS) は,複雑な慢性の多症候性状態で,中枢神経系,筋骨格系,胃腸管,呼吸,心機能に及ぶ様々な症状を呈し,化学物質への曝露が原因と主張されるが,これまでこの患者に共通する明確な客観的所見が得られていないことからその本体について論争が続いている.
この論文では,最近の行動医学,精神医学,健康心理学の分野での疾病概念の理解の進歩に基づいて,嗅脳-辺縁系過敏化モデルによる説明を試みている.
MCS の経過は,発病 (initiation) と誘発 (elicitation) の 2段階に分けられる.
発病は,本症の素因のある人で有害化学物質たとえば殺虫剤や有機溶媒等に対する短期間の高濃度の曝露によって起こる.
この段階の後,患者の申立によれば,一般に無毒性レベルの,多数の別々の環境化学物質,多くは低毒性の物質たとえば香水などによって症状が誘発され,活動不能となる.
化学物質を回避すると症状が軽快するという.患者の多くは各種の食物に不快反応を起こし,各種の薬物,アルコールにも不耐症となる.
MCS の70~80%は女性で,生活活動を妨げるような高度の症状は30歳以後に発症している.
この疾患の診断を確認または否定する客観的な検査で一般に認められたものはない.
過敏症と言うと一般に免疫機序による化学物質アレルギーを考えるが,この MCS では免疫異常を示す所見はなく,過敏症状の誘発は特異的な物質に限られず,多数の物質に過敏である.
MCS 受傷性に個人差がある.同じ環境物質曝露によって全員が MCS になるわけではなく,何らかの高感受性者が患者となる.
MCS は,ある物質に対して同一様式の反応を呈する通常の毒性とは異なっている.
反対に,MCS の症状は発病物質として有機リン殺虫剤をあげた患者と化学構造の違う物質をあげた患者とで同じ症状パターンを呈するのである.
また,MCS は古典的な条件反応とも異なる.
すなわち,条件反応は,前もって与えられる生物学的に不活性の刺激,たとえば匂いや音(条件刺激)が生物学的に活性の刺激(無条件刺激)たとえば殺虫剤の流出や食物,と組み合わされて条件付けられると,条件刺激が無条件刺激と同じ反応を誘発するようになるものである.
条件反応では条件刺激は匂いなら匂いで,刺激の質と刺激様式がよく類似していなければ反応を誘発できないものであるが,MCS では匂い以外の生物学的刺激(たとえば,食物,薬物)でも,やはり同じパターンの症状が誘発できる.
なお,MCS 患者の約40%は,発端となった化学物質曝露の事件を特定できない(つまり,無条件刺激はなかった).従って,MCS 反応の多くは,特定の物質に対する条件付け反応という特徴を備えていないのである.
それでは,如何にして各種の物質が MCS を誘発するのか.MCS の主要変化は脳とくに嗅脳-辺縁系にあると提唱されている.脳機能の持続的変化には,必ずしも毒性物質が持続的に存在する必要はない.
事実,突然または間歇的の極度の環境刺激の方が,持続的な刺激よりも,脳の化学と機能とに持続的変化(過敏症も含む)を開始するのには有効であるようだ.
神経科学と薬理学の領域では「過敏症 sensitization」は,刺激の反復に対して反応が増大することをいう.実験動物で電気的または化学的刺激を反復して辺縁系(嗅球や扁桃体など)に加えると炎上 (kindling) が起こる.刺激を10~14日続けると痙攣を惹き起こすようになる.
この炎上は側頭葉癲癇の動物モデルである.辺縁系の部分的炎上が MCS の説明になるかもしれない.
辺縁系は内分泌ホルモン分泌の調節にも関与している.
側頭葉癲癇の女性では,多発性卵巣嚢腫の頻度が異常に高い報告がある.扁桃核は性ホルモン活性を調節する視床下部に連絡しているが,MCS に扁桃核が関係している仮説と符合して,MCS の女性は,健康女性や MCS 以外の化学物質不耐症女性に比べて卵巣嚢腫の頻度が高く,各種の月経異常が多い.
化学物質不耐症の中年女性例で,午後4時の血漿プロラクチン基礎濃度を測定したところ,対照例と比べて低かった.
ドパミン受容体刺激薬および拮抗薬に対するプロラクチン等ホルモンの反応については,さらに研究して MCS 患者と正常例とで測定し検討しなければならない.
中枢神経のセロトニン作動性神経の異常も季節的情動異常のプロラクチン分泌に関与しているので,同様の試験をセロトニン作動薬および拮抗薬で行うことも化学物質不耐症のために有用な資料となるであろう.
MCS の本体に関する論争には,経済,法律および行政規制の強力な影響が及んでいて,それを性急に二元論(心因性の反応が化学物質によって誘発される ?)で片づけようとしているが,問題をもっと注意深く体系的にそして総合的に検討すべきである.
「心因性」とする結論の多くは,MCS 患者の安静時の観察に基づいている.
その患者たちは,身体障害者給付や賠償請求訴訟に関係しており,いろいろな意味での病症利得の問題に向けて偏向しやすいことが知られている集団に属している.
MCS その他の化学物質不耐症者における曝露試験は,症例の選定を行い法律的あるいは障害者給付のような動機づけがない例を参加させるべきである.
化学物質不耐症の多様な症状を単純に「化学物質恐怖症」に還元しないように注意しよう.
この不快反応には,耐えられない眠気,関節痛,浮腫のように,恐怖症に伴う古典的不安反応では起こらないものが起こっている.
生物学的精神医学,臨床神経科学,行動医学は MCS の特性と原因を理解するのに助けとなる.
著者らは,化学物質臭気不耐症を定量化する自己申告評価表を開発し,不耐症自己評点と心理学テスト,嗅覚能力および年齢との相関を調べた.
各種の生理テストでも比較し,睡眠時ポリグラフ,覚醒時脳波,血漿β-エンドルフィン,血漿プロラクチン,血圧,注意分散能で群間の差を認めた.
研究者はまず低レベル環境化学物質への感受性の個人的要因を,また,個人と環境との相互作用を理解しなければならない.
その上で MCS のような特殊集団と一般集団とにおける曝露の許容濃度について合理的な決定と適切な管理が可能になるのである.