・■補償救済の歴史
さかのぼれば1973年、熊本地裁がチッソの過失責任を認め、1800-1600万円の支払いを命じた。
この一次訴訟判決の確定と患者自身の果敢なチッソ東京本社自主交渉によって、同年、認定患者への補償の枠組み(水俣病補償協定)が確立する。これが公式確認から17年目であった。
その時、チッソの後ろ盾であった日本興業銀行の頭取は「認定患者1300人まではチッソを支える」と述べたという。
認定患者がその数に至った1970年代末、チッソは倒産の危機を迎えた。
すると、政府はチッソ救済の県債方式を策定してチッソを支える一方、「水俣病判断条件」を策定して認定基準を厳しくした。
それにより、認定申請者の多数が、永年処分を待たされた揚句に、水俣病ではないとして「棄却」される事態となった。
その未認定患者たちは訴訟や直接交渉で20年も闘い続けた。
そして1995年、村山富市内閣において、「水俣病ではないが類似の症状を持つ人々」を「国が仲介者となってチッソに補償させる」という第一次政治決着が行われる。
この時、約1万人の未認定患者が、一時金260万円での決着を、断腸の思いで受け入れた。
■関西訴訟が切り開いた地平
しかし、国家責任も水俣病定義も曖昧な和解決着を拒否して訴訟を続けたのが関西訴訟原告団であった。
そして2004年、最高裁で「国にも水俣病補償責任」「感覚障害だけで水俣病」との判決を勝ち取る。
公式確認から48年目にしてやっと、国の加害責任が確定したのである。
最後まで筋を通した関西訴訟団の闘いは、水俣病史に特筆される。
しかし、その後の事態は、関係者誰もが予想しなかった。
この判決に背中を押され、勇気を得たのだろうか、ほとんど途絶えていた認定申請を新たに行う人々が、判決後一年間で数千人に達し、水俣病未認定問題が再び重要課題として顕在化したのである。
こんなにもまだ潜在患者がいたとは。
民間の調査によると、以前から健康の不具合を感じていたが、仕事を定年退職したり、子供たちの結婚が済んで、近隣や地域への遠慮が減ったため申請に踏み切った人が多く、高齢化に伴って症状が悪化したことも重なっていた。その人々の中から、国とチッソを相手取った新たな訴訟も全国数か所の裁判所で始まる。
認定制度を早く終わらせたい環境省は、医療費の自己負担分のみを補助する「新保健手帳」を交付し、認定申請からの患者の乗り換えを期待したが、認定申請から切り替える人はわずかで、この新制度には認定申請の決断をためらっていた万余の人々が、新たに給付を申し出た。