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四日市ぜんそく出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
四日市ぜんそく(よっかいちぜんそく)は、三重県四日市市(塩浜地区を中心とする四日市市南部・中部)と三重郡楠町で昭和35年(1960年)から昭和47年(1972年)にかけて四日市コンビナートから発生した大気汚染による集団喘息障害である。
四大公害病の一つ。当時は別名「塩浜喘息」(四日市市内で使用された名称)・「四日市のぜんそく事件」(国会内で使用された名称)と呼ばれていた。
原因 [編集]三重県四日市市で(塩浜地区)に第1コンビナートが操業を始めた事を発端とする。
公害病裁判による津地方裁判所四日市支部の判決では、第1コンビナート及び(午起地区)の第2コンビナートに進出した主な被告の企業として(石原産業、中部電力、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサント化成)などの企業が排出した亜硫酸ガスによる大気汚染が原因としている。
症状 [編集]息苦しくて、喉が痛み、激しい喘息の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。
公害の歴史 [編集] コンビナートの誘致 [編集]戦前までの四日市市は紡績(繊維産業)の町として有名であった。
四日市市は、東洋紡績(市内に富田工場・三重工場・四日市工場・塩浜工場・楠工場)東亜紡織(市内に泊工場・楠工場)平田紡績(市内に富洲原工場)の発祥地である工業都市だった。繊維産業を中心とする軽工業に変わる新しい産業を振興する重工業化政策の必要性から、日本で最初の石油化学コンビナートの誘致が田中覚三重県知事を中心とする三重県と、平田佐矩四日市市長を中心とする四日市市によって行われた。
1960年代に四日市港や伊勢湾沿いの海水浴場であった砂浜を埋め立てて石油コンビナート(第1コンビナートの建設地は塩浜)で四日市港沿いの住宅地周辺であり、戦争中に建設されて四日市空襲で壊滅した海軍燃料廠の跡地があった。
そこに、第1コンビナートを建設した。それが、四日市喘息の初期である塩浜喘息の要因となる。
(第2コンビナートの建設地は午起海水浴場)で埋め立てによって建設された中部電力などの第2コンビナートによって四日市喘息が塩浜地区以外の東橋北地区・納屋地区・羽津地区・海蔵地区・中部地区に拡大した。
(第3コンビナートの建設地は霞ヶ浦海水浴場)で埋め立てて建設した人工的に埋め立てられた島で住宅地と離れていた事と、プラント設備など公害対策がとられたので富田地区には公害が発生しなかった。
第1コンビナートが塩浜に建設されたことが四日市ぜんそくの発端となった。
当初は第1コンビナートによる「塩浜ぜんそく」と呼ばれるもので塩浜地区のみの被害だったが、高煙突化によって(三重郡楠町・浜田地区・日永地区)に公害が拡大した。
内部地区・河原田地区に建設予定だった施設として、第1コンビナートを拡大して石油化学企業を誘致する計画が四日市市民と地区住民の反対で中止となった。
四日市公害(四日市ぜんそく)による健康被害が報道されたことで「ノーモア四日市」や「四日市の二の舞になるから反対」のスローガンで革新政党や環境運動家が反公害運動を日本中に積極的に繰り広げて、(静岡県沼津市・静岡県三島市・兵庫県西宮市・千葉県銚子市)にコンビナートを誘致する計画があったが住民の反対で建設が中止となる。
第2コンビナートは四日市市中部など臨海部に被害を拡大させた。
第3コンビナートは四日市市北部の富田地区には公害被害を発生させなかった。
煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する大工場は当初は街の誇りであった。
このことはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われていたことからわかる。
公害を理由にこの校歌の歌詞は保護者の抗議を受けて変えられた。