wikipediaより
DDTとはDichloro-diphenyl-trichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略であり、かつて使われていた有機塩素系の殺虫剤、農薬である。
日本では1971年5月に農薬登録が失効した。
殺虫剤として [編集]
1873年に初めてドイツの学者によって合成された化合物。発見以来長きに渡って放置された化合物であったが、1939年にスイスの科学者(染料会社であるガイギー社の技師。ガイギー社は、のちのチバガイギー、現ノバルティス)パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。
彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
その後、第二次世界大戦によって日本の除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。
非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり人間や家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。
アメリカ軍は1944年9月-10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物にわくハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。
だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎ、効果は限定的だった。[3]
日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。
外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に薬剤(粉状)を浴びせる防除風景は、ニュース映像として配信された。
また、衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用されていた。
1945年10月には、京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。
製造特許を持つガイギー社は、製品の海外輸出を禁じていた。
アメリカから日本に輸出されたものは、連合軍からの援助として特別に許されたものであった。
そのため、日本の農薬会社の関心は、次第にBHC(ベンゼンヘキサクロリド)に向けられていったのである。
2007年現在で主に製造している国は中国とインドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。
農薬としても一部では使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。
DDTの分解物のDDE、DDAは非常に安定しており分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることがわかった。