3) 社会的認知の欠如による被害
上記に加えて、現在も、医師や市民の化学物質過敏症についての社会的認知は不十分であり、多くの人が反応しない超微量の化学物質にさえ反応してしまうという事実が、知識や経験のない「健常者」には理解されにくいという問題がある。職場、学校はもちろん、同じ生活を送っている家族の中でも化学物質過敏症を発症するか否か、被害の程度などの個人差が大きいため、家庭内ですら理解や協力を得られず人間関係に軋轢が生じる場合が少なくなく、上記のような症状に苦しみながら、同時に非常な孤立感・疎外感を味わい、心身ともに深刻な状況に陥ることもある。その結果、最悪の場合、患者が自殺にまで至ってしまうケースも報告されている。
第2 規制の現状とその問題点
1 室内空気汚染
(1) 規制等の現状
WHO(世界保健機関)は、1999年12月に「空気質に関するガイドライン」を発表し、さらに、2000年7月には、「健康な室内空気に対する権利(The Right to Healthy Indoor Air)」と題する報告書を発表し、「全ての人は清浄な室内空気を呼吸する権利を有する」ことを宣言している。
そして、日本においても、シックハウス症候群や化学物質過敏症などの増加が大きな社会問題となり、厚生労働省は、1997年に「快適で健康な住宅に関する検討会」を設置し、ホルムアルデヒドについて室内濃度指針値を策定した。さらに、「シックハウス(室内空気汚染)問題に関する検討会」を設置し、2002年までに上記ホルムアルデヒドを含む13物質についての室内濃度指針値を順次策定している(別表)。なお、室内濃度指針値とは、「現状において入手可能な科学的知見に基づき、人がその化学物質の示された濃度以下の暴露を一生涯受けたとしても、健
康への有害な影響を受けないであろうとの判断により設定された値」であるとされている。
ア 一般的な建築物に対する規制
(ア) 建築基準法の改正
2003年7月1日施行の改正建築基準法において、居室の内装仕上げに使用される建材のうちホルムアルデヒドを発散する建材についての使用制限及び使用禁止の規制、換気設備設置の義務付け、天井裏からのホルムアルデヒド流入の防止措置の義務付けを規定し、クロルピリホスの居室を有する建築物への使用を禁止した。
(イ) ビル管理法の関連政省令の改正
2003年4月、建築物における衛生的環境の確保に関する法律(ビル管理法)の関連政省令が改正され、延べ面積3000㎡以上の百貨店、事務所などの特定建築物について、ホルムアルデヒドの室内空気濃度の基準値(0.1mg/m3以下=0.08ppm)を設けた。
(ウ) 住宅の品質確保の促進に関する法律
2004年4月からは、「住宅の品質確保の促進に関する法律」による住宅性能表示制度(国土交通大臣から指定された第三者機関の評価員が設計や工事をチェックする制度)における、日本性能表示基準、評価方法基準において、化学物質過敏症・シックハウス症候群対策のための建材の使用状況や換気設備の評価の制度が盛り込まれ、現在、特定測定物質としてホルムアルデヒドなどの5種類が指定されている。
イ 学校における規制
学校の環境及び衛生については、学校教育法12条において保健に必要な措置が要請されている。さらに、学校保健法2条では、学校は健康診断・環境衛生検査・安全点検などについて計画を立てて実施しなければならないとし、同法3条では特に換気、採光、照明、保湿等環境衛生の維持及び改善を図らなければならないとされ、その運用のため「学校環境衛生基準」が定められている。
文部科学省は、2001年1月29日、各都道府県教育委員会等へあてた課長通知等により、「過敏症」の児童生徒について、各学校において養護教諭を含む教職員、学校医等が連携しつつ、個々の児童生徒の実態を把握し、支障なく学校生活を送るために配慮するよう要請した。
また、2002年2月5日、学校環境衛生基準を一部改訂し、教室等の空気に関する定期環境衛生検査、臨時環境衛生検査、日常点検及びそれらに基づく事後措置の徹底を図るように求めている。定期環境衛生検査は、毎学年1回、検査事項として新たにホルムアルデヒド及び揮発性
有機化合物(VOC)、トルエン(必要な場合にはキシレン及びパラジクロロベンゼン)が加えられた。その他、机、いす、コンピュータ等新たな学校用備品の搬入によりホルムアルデヒド及び揮発性有機化合物の発生のおそれがある場合の検査や、新築・改築の際にはホルムアルデヒド及び揮発性有機化合物の濃度が基準値以下であることを確認させた上で引渡しを受けるものとすること、なども定められている。
さらに、2004年2月10日、学校環境衛生基準はさらに改定され、二酸化炭素を検査事項として盛り込むこと、揮発性有機化合物のエチルベンゼン、スチレンについても必要がある場合には検査を行うこと、ネズミや衛生害虫の駆除については児童生徒の健康及び周辺環境に影響がない方法で行うべきことなどが定められた。
その他、自治体の対応として、東京都は、2003年1月、「化学物質の子どもガイドライン」を作成し、このなかには、「室内空気編」「殺虫剤樹木散布編」「鉛ガイドライン」「食事編」が存在し、子どもの特性を考慮した上で、暴露予防のための具体的な方法や、対応マニュアルが記載されている。
また埼玉県は、2003年3月「県立学校のシックスクール問題対応マニュアル」を作成し、同年6月長野県も「学校環境とシックスクール問題への対応について」と題するマニュアルを作成している。上記のマニュアルでは、施設の維持管理や濃度測定に留まらず、検査結果の公表とリスクコミュニケーションや日常的観察や健康相談、子どもの過敏反応レベルに応じた対応などの配慮を行うこととされている。
ウ 職場における規制
労働安全衛生法第3条は、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保する義務を事業者に負わせ、同法20条以下はそれを具体化している。
また、建築物における衛生的環境の確保に関する法律(ビル管理法)・同法施行令は、延床面積が3,000㎡以上の店舗・事務所等における浮游粉じん量(0.15mg/.以下)・ホルムアルデヒド量(0.1mg/.以下)などを規制し、事務所衛生基準規則は同一の基準を事務所内での事務作業にも適用している。加えて、厚生労働省は、2002年3月、「職域における屋内空気中のホルムアルデヒド濃度低減のためのガイドライン」を策定し、ホルムアルデヒド濃度を0.08ppm以下(作業の性質上達成が著しく困難な特定作業場を除く)とすることを求め、これを超える場合の措置を列挙している。
(2) 問題点
ア 法的強制力がない
厚生労働省が定める化学物質の室内濃度指針値や「職域における屋内空気中のホルムアルデヒド濃度低減のためのガイドライン」は、あくまでも指針値・ガイドラインにすぎず、法的強制力がない。ガイドラインであっても、これに違反していれば注意義務違反として過失が認められる可能性が高いが、これは被害全体からみれば氷山の一角に過ぎない。
イ 規制対象物質が極めて限定されている
室内空気中の化学物質には多くの発生源があり、その種類は数百種に及び、かつその濃度は大気に比べて数~数十倍も高いレベルである(「室内空気汚染と化学物質」 安藤正典著 化学工業日報社 2002年)。U.S.EPA(米国環境保護庁)は、1987年に主な室内の発生源について詳細な検討を行い、発生源と化学物質の分類を行っている。それによれば、室内空気の汚染原因物質には多数のものがあることが判明したが、厚生労働省が定める化学物質の室内濃度指針値が設定されているのは現時点で13物質のみであり、また、学校衛生基準や建築基準法における規制物質も極めて限定されている。化学物質過敏症の原因としては、この13物質に限られず多数にわたり、むしろ、杉並病に関してなされた公害等調整委員会の原因裁定(公調委2002年6月26日原因裁定、判例時報1789号34頁)においても指摘されたとおり、化学物質の数は2千数百万にも達し、その圧倒的多数の物質について、毒性をはじめとする特性は未知の状態にあり、原因物質の特定すら困難な事案が少なくないのであるから、現状の規制物質数では不十分といえる。
ウ 化学物質に敏感な人々への配慮がない
化学物質過敏症の患者、子ども、化学物質に対して敏感な人々の中には、各種の指針値・基準値以下であっても健康への影響が生じる人もいるが、現在の指針値・基準値は、これらの人々に対しての配慮がない。
エ 発生源たる製品対策が十分に講じられていない
室内空気の汚染源となる建材等のほか、家庭用品や家具、学校や職場における器具備品や教科書などに対する対策が十分に講じられていない。